原作は芥川賞作家・今村夏子の同名小説。
監督・脚本は大森立嗣監督の現場などで助監督をしていた森井勇佑。本作が監督デビュー作とのこと。
昨年7月に劇場公開され、今月になってソフトがリリースされた。
2022年の『キネマ旬報』の日本映画ベスト・テンでは4位に入賞した。
物語
あみ子はちょっと風変わりな女の子。優しいお父さん、いっしょに遊んでくれるお兄ちゃん、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいるお母さん、憧れの同級生のり君、たくさんの人に見守られながら元気いっぱいに過ごしていた。だが、彼女のあまりに純粋無垢な行動は、周囲の人たちを否応なく変えていくことになる。誕生日にもらった電池切れのトランシーバーに話しかけるあみ子。「応答せよ、応答せよ。こちらあみ子」―――。
(公式サイトより抜粋)
なぜフランケンシュタイン?
『こちらあみ子』を観終わった後に何となく思い浮べたのは『ミツバチのささやき』のことだった。『ミツバチのささやき』で主人公を演じたアナ・トレントは、大人になってからもいくつかの映画に出演したりもしていたけれど、あの1本だけでも永遠とは言わずとも長らく多くの人の記憶に刻まれることになったんじゃないだろうか。本作の主人公あみ子を演じた大沢一菜の存在も、そのくらいインパクトがあったとも言えるかもしれない。
DVD付録の中の舞台挨拶では、森井監督が彼女に「メロメロだった」ということも指摘されていて、共演した尾野真千子は、森井監督が「もうあみ子(=一菜)しか撮れないんじゃないか」などと心配をしたりもしている。そのくらい大沢一菜はあみ子そのものになっていて、今となってはこの役は彼女以外考えられないというくらいになっているのだ。
居るようで居ない
劇中で言及されることはないのだが、あみ子(大沢一菜)には発達障害のようなものがあるようだ。それによって人とズレてしまうけれど、周囲から許されている部分もある。授業中に歌を歌い出しても、外でやれと言われて放っておかれたりするのだ。一種の特別扱いということになるわけだが、これはあみ子をひとりだけ別の世界の住人として扱っているということでもある。
また一方では、あみ子は自分の大好きなのり君(大関悠士)のことは常に気にしているけれど、同じ習字教室の坊主頭(橘高亨牧)のことは一切記憶にすらないらしい。興味・関心のあること以外はあみ子の目に映らないのだ。だからあみ子はこの世界に居るようで居ないようでもあるし、あみ子自身もこの世界を見ているようで別のものを見ているのかもしれない。
一言で言えば、あみ子は孤立しているのかもしれない。しかしそれは誰のせいでもないし、そもそも孤立していることは悪いことなのだろうかという気にもなってくる。そんな映画だったように思う。
「そういうものだ」
本作は結末から振り返れば、あみ子が捨てられる話であるし、もっと言えば一家が離散してしまう話とも言える。ただ、それがあみ子の発達障害のせいとも言えないし、家族の対応の問題とも言えない。どちらが悪いとも描かれていないように見えるのだ。
これはヴォネガットが『スローターハウス5』で口ぐせみたいに使っていた「そういうものだ(so it goes)」という感じだろうか。良いも悪いもなく、ただ「そういうものだ」ということなんじゃないだろうか。
あみ子は人の気持ちを推し量ることが難しい。それが母親(尾野真千子)を苦しめる。死産だった子供の墓を作ることは、あみ子にとっては金魚の墓を作ったのと同じように善意だったはず。しかし母親はそんなふうには受け取らなかったようで、それをきっかけにして鬱病を患うことになってしまう。
あみ子を抱えた家族も大変だ。兄の考太(奥村天晴)は一番あみ子に寄り添っていた人物だろう。あみ子に世間の決まり事をわからせるために、自分の“10円ハゲ”を例として懇切丁寧にあみ子を諭している。しかし、その兄もハゲができるほどのストレスを感じていたわけで、グレて家に居つかなくなってしまう。
父親(井浦新)は優しい人だけど事なかれ主義でもあり、「あみ子にはわからんよ」とあきらめてしまっているようでもある。そんなわけで一家はバラバラになり、あみ子は祖母のところへ預けられることになってしまうのだ。
あきらめと優しさと
あみ子が誕生日にもらったトランシーバーは、結局、使われることがない。あみ子の「こちらあみ子。応答せよ。」という問いかけに応じる者はいない。また、ベランダから聞こえてくる音をあみ子以外の誰も聞くことができないのも、あみ子が別の世界にいるということを示しているのだろう。
しかしながら、それは周囲がそんなふうにあみ子を扱っているということに過ぎないだろう。ベランダの音をあみ子の気のせいにし、オバケの音だとごまかしていたのも単にあみ子の相手をするのが面倒だったからだろう。ベランダの音が実在していることを突き止めたのは、一番あみ子に寄り添っていた兄だった。「あみ子にはわからんよ」などと、あみ子を特別視する気持ちがあみ子を孤立させることになる。
ただ、その一方であみ子を特別視することは、周囲からすればあみ子に対する優しさでもある。あみ子にずけずけと意見していた坊主頭も、のり君があみ子のことを気持ち悪がっていた理由を尋ねられると答えることができないのだ。もちろん坊主頭は優しさからそうしたわけで、あみ子が孤立するのはそんな理由もあって、あきらめとか優しさとかが複雑に交じり合った末の結果だということになる。
オバケたちの誘い
原作を読んでみたら、映画とは語り始められる場所が異なっている。原作では、成長したあみ子が好きだったのり君に殴られた昔のことを思い出す形で書かれている。しかし、映画では数カ所の回想を含むだけで、ほぼ現在進行形で進んでいく。これによって原作のちょっと寂しい感じとは異なる終わり方になっているようにも感じた。
映画オリジナルのシーンとしては、あみ子がオバケたちと行進しながら、「オバケなんてないさ」と歌う愉快なシーンがある。この歌はベランダの音をオバケの音と勘違いしたあみ子が、それに対抗するために生み出したものだ。
このオバケたちはラストにも再び登場する。あみ子は祖母の家に預けられ、要は父親から捨てられた形になる。それにも関わらず何となく賑やかな終り方とも思えるのは、オバケたちのおかげだろう。ただ、このラストも色々な解釈が出来そうだ。
あみ子はなぜか海のほうから現れたオバケたちに“向こう側”へと誘われることになる。ところがあみ子はこの誘いに気づかない。人の気持ちを推し量るのが苦手なあみ子は、オバケたちとのコミュニケーションでも不具合を起こしているのだ。とはいえ、それによってあみ子はオバケにならないで済んだとも言える。
良くも悪くも、あみ子は孤立によって確固たる自分の世界を維持しているようにも見えるのだ。物事は色々な側面がある。坊主頭がいみじくも言ったように、あみ子が裸足だったのは上履きを隠されたといういじめを示すものであるのと同時に、自由の象徴に見えなくもないのと同じことなのだ。
あみ子の孤立は、あみ子がほかの人たちとうまく歩調を合わせられないということでもあるけれど、一方では孤立によってあみ子らしさを保っているわけで、悪い面ばかりではないという気もしてくる。それは本作が誰かのことを断罪しようというものではないのと同じで、良くも悪くも「そういうものだ」としか言いようのないということなんじゃないだろうか。
そんなわけでなかなか厳しいところのある作品でありながらも、最後にはあみ子の「大丈夫じゃ」という力強い言葉にちょっと安堵させられたりもする。それもあみ子を演じた大沢一菜の溢れ出るようなエネルギーがあったからだという気もした。中学生になったあみ子は制服に着られている感がアリアリだったけれど、あの時期、早生まれの子とかはみんなあんな感じだったかも。
昨年の劇場公開時にはなぜかスルーしてしまったけれど、評価されるのもよくわかる。今さら尻馬を乗る形でこんなことを言ってもという気もするけれど、とても良かったので……。
コメント