原作はエッセイスト高山真の同名自伝的小説。
脚本・監督は『トイレのピエタ』、『ハナレイ・ベイ』などの松永大司。
物語
14 歳で⺟を失い、⽥舎町でゲイである⾃分を隠して鬱屈とした思春期を過ごした浩輔。今は東京の出版社でファッション誌の編集者として働き、仕事が終われば気の置けない友人たちと気ままな時間を過ごしている。そんな彼が出会ったのは、シングルマザーである⺟を⽀えながら暮らす、パーソナルトレーナーの龍太。
自分を守る鎧のようにハイブランドの服に身を包み、気ままながらもどこか虚勢を張って生きている浩輔と、最初は戸惑いながらも浩輔から差し伸べられた救いの手をとった、自分の美しさに無頓着で健気な龍太。惹かれ合った2人は、時に龍太の⺟も交えながら満ち⾜りた時間を重ねていく。亡き⺟への想いを抱えた浩輔にとって、⺟に寄り添う龍太をサポートし、愛し合う時間は幸せなものだった。しかし彼らの前に突然、思いもよらない運命が押し寄せる――。
(公式サイトより抜粋)
リアルなゲイ・ムービー
本作はいわゆるゲイ・ムービーということになるわけだが、LGBTQ当事者の人が監修として参加し、当事者が見ても違和感のないものを目指している。主人公の周囲のゲイの友達は実際の当事者たちが演じていて、いわゆる“オネエ言葉”なんかについても当事者から見てもリアルと思えるものを心がけたらしい。
その甲斐もあって主人公を演じた鈴木亮平は、友人を演じたドラァグクイーンだというドリアン・ロロブリジーダたちと交わってもごく自然に溶け込んでいたし、共に大柄な宮沢氷魚とのふたりのシーンはとても“画”になっていたと思う。
また、撮影手法としては、松永大司監督はダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』を参考にしたとのことで、手持ちカメラでドキュメンタリー的に登場人物の表情をかなり近い位置から捉えていくことになる。そして、そんな手持ちカメラで捉えたベッドシーンはかなり生々しい(これに関しても当事者のアドバイスが活かされているとのこと)。
その意味で、かなりリアリティを追及したゲイ・ムービーという印象なのだが、それだけではない。前半においてはタイトルの意味合いがはっきりしない。ところが後半になると、ある出来事により映画は大きな変化を迎える。それによって、本作がなぜ“エゴイスト”というタイトルにならなければならなかったのかが明らかになるのだ。
“身請け”の話
松永監督がインタビューで語っているが、『エゴイスト』をかなり大雑把にまとめれば“身請け”の話ということになる。これは遊女などに対して金を払い、その商売から足を洗わせることを指す。
主人公の浩輔(鈴木亮平)は大手出版社の編集者らしく、それなりに裕福だ。服はいつもハイブランドのものを身に着け、オシャレで高級なマンションで悠々自適な生活だ。一方の龍太(宮沢氷魚)は苦労人だ。龍太は母親が病気がちということもあり、高校を中退して働き始めたらしい。パーソナルトレーナーの仕事もその一つで、将来的にはそれで食べていきたいと考えている。
ふたりの関係は、浩輔がトレーナーとして龍太を雇うところから始まり、すぐに付き合うことになる。しばらくは仲睦まじい関係が続くのだが、突然、龍太が別れを切り出す。龍太曰く、浩輔のことは好きだけど、ほかに問題があるのだという。というのは、龍太はこれまで“ウリ”をやって稼いできていたのだが、浩輔と付き合うようになってからそっちの仕事が辛くて出来なくなったらしい。龍太としては母親のためにも金は必要だから、“ウリ”をやめるわけにもいかないということになる。そうして龍太は浩輔と別れることを選択したのだ。
それから龍太は浩輔の電話にも出なくなってしまう。浩輔としては、それでも龍太のことをあきらめたくはない。浩輔は悩んだ末に龍太を買うことを選ぶ。浩輔が龍太に月々一定の金額を払い、龍太を浩輔の専属にし、“ウリ”を辞めさせることになるのだ。
※ 以下、ネタバレもあり! 重要な展開にも触れているので要注意!!
愛なのか、エゴなのか
ところが本作では、中盤の出来事で事態は思わぬ方向へと変化する。というのは、ある朝突然に、龍太が亡くなってしまうのだ。それによって浩輔は自分を責めることになる。浩輔は龍太を身請けした形になったけれど、龍太にマンションを買い与えて囲ったわけではない。浩輔の金は援助にはなったとしてもすべてを賄えるわけではなく、足りない分は龍太がバイトで稼いでいたのだ。
龍太は皿洗いのバイトと肉体労働を掛け持ちしながらも、母親に本当の仕事のことを話せることを喜んでいた。しかし掛け持ちが肉体的にきつかったのか、疲れている時も見受けられた。もしかしたら浩輔が龍太の“ウリ”を辞めさせたことが、結果的に龍太を殺すことになったのかもしれない。浩輔はそんなふうに自分を責めるのだ。
浩輔は龍太のことを手放したくなくて、“身請け”の話を龍太に持ちかけた。これはもしかすると浩輔のエゴだったのかもしれない。浩輔はそんなふうにも感じたのだろう。
タイトルは“エゴイスト”というものだ。辞書的な意味を挙げれば、利己的な人のことであり、他人のことは考えず、我(エゴ)を押し通そうという人ということになる。ただ、ふたりの間の決め事は、ふたりが同意したものであり、それほどエゴイスティックなものには感じられないし、ふたりはその決め事によってとてもいい関係を築いていてもいたのだ。
普遍的な感情と特殊な事情
松永大司監督の作品は過去に『トイレのピエタ』と『ハナレイ・ベイ』を観ているのだが、どちらも誰かの死というものが関わっている。そして『エゴイスト』でも龍太は中盤で亡くなることになってしまう。これによって本作はゲイ・ムービーという特殊なものからもっと普遍的なものへと変わることになる。
もちろん本作はゲイを特別なものとして描こうとしているわけではない。ごく自然なものとして描いている。ただ、世間一般でそれを大っぴらに出来るわけではないという現実もある。浩輔はゲイ仲間の中に入ると“オネエ言葉”になるけれど、職場ではそんなことはないし、龍太と家路を往く時も人目を憚って手をつないだりすることはない。わざわざ自分からトラブルを引き寄せる必要はないからだろう。
ふたりの関係はふたりだけの秘密となっているのだ。ところがその龍太は亡くなってしまう。通常ならそれですべてが終わりということになるだろう。しかし本作ではさらに続きがある。というのは、龍太の母親である妙子(阿川佐和子)がふたりの秘密の関係を龍太から聞いていて、それに理解を示し祝福してもいたからだ。浩輔は龍太亡き後、妙子に金を渡して世話をするような関係になっていくのだ。
この浩輔と妙子の関係は一体何なのだろうか? それを他人にうまく説明することは難しい。それでも浩輔と妙子の関係は、龍太との秘密を共有していたということが関わっていることは間違いないだろう。本作は大事な人を亡くした浩輔という男の普遍的な話でありながら、そこには浩輔と龍太の秘密という特殊な事情も関わってくることになるのだ。
反語的なタイトル
浩輔は妙子に金を渡すに際して、龍太にも金を渡していたことを打ち明けている。この告白はかなり危なっかしいものを含んでいるだろう。浩輔は龍太が“ウリ”をしていたことをバラしたわけではないけれど、浩輔自身が龍太を援助していたことはバラしてしまっているわけだから……。そんな意味では浩輔はかなり自分勝手に振舞っているとも言える。龍太が生きていた時よりも、浩輔のエゴイスティックな部分が際立ってくることになるのだ。
それでも、浩輔は妙子がそれを理解してくれるような人だと判断したのだろう。浩輔の「愛がどんなものかわからない」という吐露に対し、妙子は「受け取った側が愛だと思えればいい」と語る。龍太が浩輔から金を受け取っていたのは、ふたりの間でその行為が愛だと思えていたからだし、ふたりがそれで問題がなければ外野がとやかく言うことではないというわけだ(このあたりは先日取り上げた『茶飲友達』とも通じるものがあるかもしれない)。
それと同様の形で、浩輔は妙子にも金を渡すことになり、病を得て余命幾ばくかということになった妙子もそれを受け入れる。迷惑をかけて「ごめんなさい」という気持ちではなく、相手の気持ちを素直に「ありがとう」と受け入れることになるのだ。
こんな浩輔の行為は“やむにやまれぬ”ものなのだろう。浩輔はその見た目ほど裕福ではなさそうだ。外見をハイブランドで着飾るのは、オカマとバカにされたことに対する武装行為だし、高級マンションに住むのも同様の理由だろう。龍太を身請けしたのも、金満な男が女性を囲うのとは違って、金銭的には余裕がなくてもそうせざるを得ない切迫したものを浩輔は感じていたのだろう。だからそのことは龍太が亡くなってからもやめることができないのだ。
そんなわけで浩輔と妙子の関係を他人に説明することはなかなか難しい。浩輔は若くして亡くなった母親の姿を妙子に重ねているところがあるのだろうし、その行為はかつて龍太に自らのエゴを押し付けたことへの罪滅ぼし的な意味合いもあるだろう。浩輔は自分のことをエゴイスティックな人間だと感じているかもしれないけれど、傍から見ているととても優しい人のようにも見えてくるわけで、「エゴイスト」というタイトルがとても反語的に響いてくることになるのだ。
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