『茶飲友達』 高齢者の虚像と実像

日本映画

脚本・監督は『燦燦-さんさん-』『ソワレ』外山文治

『カメラを止めるな!』を送り出したENBUゼミナールによるシネマプロジェクト第10弾。

物語

妻に先立たれ孤独に暮らす男、時岡茂雄(渡辺哲)がある日ふと目にしたのは、新聞の三行広告に小さく書かれた「茶飲友達、募集」の文字。
その正体は、高齢者専門の売春クラブ「茶飲友達(ティー・フレンド)」だった。運営するのは、代表の佐々木マナ(岡本玲)とごく普通の若者たち。
彼らは65歳以上の「ティー・ガールズ」と名付けられたコールガールたちに仕事を斡旋し、ホテルへの送迎と集金を繰り返すビジネスを行なっていた。
マナはともに働くティー・ガールズや若者たちを“ファミリー”と呼び、それぞれ孤独や寂しさを抱えて生きる彼らにとって大事な存在となっていた。
ある日、一本の電話が鳴る。
それは高齢者施設に住む老人から「茶飲友達が欲しい」という救いを求める連絡であったー。

(公式サイトより抜粋)

実際にあった事件

普段はあまり語られることがない高齢者の性『茶飲友達』では、高齢者による売春斡旋組織が描かれることになるのだが、これは2013年に起きた高齢者による売春クラブ摘発という、実際にあった事件をもとにしているらしい。

上の記事によれば、摘発された売春クラブは「会員数は約1350人にものぼり、会員の男性は約1000人で最高年齢が88歳、平均年齢は65歳前後。女性の会員は約350人で最高年齢が82歳、平均年齢は60歳前後だった」とのこと。

外山文治監督は「完全に現実の方が映画の先の先を行ってる」と思ったらしい。外山監督は『燦燦-さんさん-』などで以前から高齢者の問題を取り上げてきていたということもあって、その事件に関する報道が本作を製作するきっかけとなったようだ。

高齢者の問題となると真っ先に思い浮かぶのは介護の問題であったり、さらには前回取り上げた『すべてうまくいきますように』のような安楽死・尊厳死の問題があったりする。しかしながらそうした問題に隠れた形になり、表に出てこないようなこともある。それが本作が取り上げる高齢者の性と言えるだろう。

とはいえ、本作で描かれるのは性欲だけの問題ではない。冒頭、渡辺哲演じる時岡が部屋で死んだように眠っている。寂しい独居老人がひとり静かに死んでいった姿にも見えてしまう。ラジオでは孤独死のまま、なかなか発見されなかった高齢者のことが話題になっている。時岡としてはそんな事態が他人事ではない切実な問題だったのだろう。そして、時岡はたまたま新聞で見つけた3行広告の「茶飲友達、募集」というものに注目する。

時岡にとっては、最初は孤独死を防ぎたいがための茶飲友達だったのかもしれない。それでも時岡は妙にオシャレをして出かけているところを見ると、それ以上のことも期待していたのかもしれない。そして、実際に時岡はその売春クラブの会員になるのだ。

売春組織に希望を託して

本作の主人公はマナ(岡本玲)という若い女性だ。彼女が高齢者の売春斡旋組織である「茶飲友達(ティー・フレンド)」を仕切っている。ティー・ガールズと呼ばれる高齢女性を派遣し、客となる高齢男性から料金をいただく。実際の売春行為の主体となるのは高齢者たちで、マナを中心とした若者たちが裏方を担当する。

そんなふうに聞くと、若者たちが高齢者から搾取しているようにも聞こえるのだが、実際にはちょっと違うように感じられる。マナは詭弁ではなく、素直に「茶飲友達」の活動に対して何らかの“希望”を抱いているのだ。

その場所に集まっている高齢者も若者も、どこかで社会からあぶれてしまったような人たちだ。パチンコがやめられないティー・ガールズもいるし、父親の事業失敗を見て将来に対して投げやりになっている青年(鈴木武)や、若くして妊娠したものの父親から子供を認知してもらえなくて困っている千佳(海沼未羽)など。居場所がない人たちがそこに集まってきているのだ。

マナがスーパーで半額のおにぎりを万引きしているところを助けることになった松子(磯西真喜)は、親の介護が終わったものの、その虚脱感からか自殺を考えたりしている。マナはそんな松子をティー・ガールズとしてスカウトするのだが、その説得にマナが使っていたのは“希望”という言葉だった。マナは「茶飲友達」という場所がそんな高齢者や若者たちの居場所となることを願っており、そこに“希望”を見出しているのだ。

(C)2022茶飲友達フィルムパートナーズ

“ファミリー”と呼ぶ仲間

自殺を考えていた松子はティー・ガールズとして働くようになって、見違えるように生き生きとしてくる。それまで何の役にも立たない存在だと感じていたのに、ティー・ガールズとして多くの男性から求められることになり、松子は自尊心を取り戻したような形になる。

こんな姿を見ていると、マナが言うように「茶飲友達」という場所が地域のセーフティーネットとして機能しているというのも満更嘘ではないような気もしてくる。

孤独な独居老人と、暇を持て余した若者たちが、その場所に来ればそれぞれの役割がある。そこでは普段は無関係であろう、高齢者と若者たちがつながることができるのだ。

マナは「茶飲友達」の仲間を“ファミリー”と呼んでいるのだが、「茶飲友達」は売春斡旋という経済活動を行う一つの経営体として存分に機能しているのだ。そんな“ファミリー”が集う場所では、高齢者と若者が共に和気あいあいとして暮らしていて、「茶飲友達」という組織には何の問題もなさそうな気もしてくることになるだろう。

(C)2022茶飲友達フィルムパートナーズ

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正しいことがすべてなの?

もちろんマナは自分たちのやっていることが正しくないことは理解している。だから「茶飲友達」のシステムは一応友達を仲介する形をとっている。「煎茶コース」は実際に茶飲友達を紹介するだけらしい。しかし、もう1つ別のコースがあって、「玉露コース」では高級玉露を男性会員が買い取る形になる。その際の販売人であるティー・ガールズと客の関係は自由だからという名目で、実際には売春という違法行為が行われている。

それでも売春を介することで多くの人が救われることになるわけで、マナは「正しいことだけがすべてではない」と考えている。実はこの考えはマナの母親に対する反発から生じている。マナの母親は厳格な人で「正しいことがすべて」という人らしい。このマナの母親は、今では病で死の間際にいるのだが、それでも風俗産業で働いて生きてきたマナのことを許そうとしない。

これはマナと母親の関係だけではなく、コンプライアンスばかりが言い立てられ、「正しいことがすべて」という風潮に対する反発ということも示しているのだろう。たとえば、『万引き家族』に対しても、登場人物たちが万引きをしていることばかりを捉えて作品を否定する人も少なくなかったという。登場人物がなぜそんなところへと追い込まれたかという事情に関しては理解しようとしないのだ。

そんな「正しいことがすべて」という風潮は息苦しいだろう。だからこそマナは「正しいことだけがすべてではない」ということを積極的にアピールすることになるのだ。

(C)2022茶飲友達フィルムパートナーズ

マナは否定されたのか?

売春斡旋組織の“ファミリー”は、仕事がうまくいっている時はうまく機能している。しかし一つの出来事によって脆くも崩壊する。それはビックリするくらいにあっけない。

警察に逮捕されたマナは、婦警からこれまで「茶飲友達」の活動を非難されることになる。「自分の寂しさを他人の孤独で埋めるな」と。また、母親はマナが築いてきた“ファミリー”ではなく、血のつながりによる“家族”というものの強固さを示してみたりもする。かといって、それらがマナのことを完全に否定しているとは感じられないだろう。

もちろん婦警の言う説教も、母親が示す“家族”のあり方も正しいのだろう。しかしマナはそれに対して反論も試みている。社会にルールがあるのはわかる。しかしそこからこぼれる人たちに誰が手を差し延べるのか? マナはそんなふうに主張する。それから母親が示した“家族”の絆というものは、母親からすれば愛情なのかもしれないけれど、押し付けがましい逃れられない関係性を示しているようでもある。

ここには外山監督が実際の事件を知って感じたことがそのまま表れているのだろう。外山監督は次のようにインタビューで答えている。

法に触れることはNGだとしても、自分の中の正義感が揺らぎました。摘発しなくても良かったのではないか、こういうことで救われる人がいるならば白黒つけずにおいても良かったのではないかと。その時感じた揺らぎをいつか映画にしたいと思うようになりました。

売春斡旋組織をやっていたマナのことを完全に否定しきれないのは、そんな揺らぎがあるからだろう。

(C)2022茶飲友達フィルムパートナーズ

なぜ若者が主人公に?

本作は着眼点がおもしろい。これは外山監督は以前から高齢者の問題に取り組んできていたからこそなのだろう。劇中の台詞にもあるように、高齢者は縁側で大人しく日向ぼっこでもしていて欲しい。傍から見ていると、そんなふうに感じてしまう。しかし実際の高齢者はそんなイメージに収まりきらないようだ。未だに性欲がある人もいれば、承認欲求というものも感じているのだ。

本作はそんな高齢者の話だけに絞ることもできたはずだろう(その場合、まとまりはあるけれど閉じた作品になっていたかも)。しかしながら本作は高齢者を取り巻く多くの若者が登場する群像劇となっている。上映時間との兼ね合いからか、幾分、この若者のエピソードがちょっと弱い気もしないでもない。

そもそも実際の事件の首謀者は高齢男性だったのだとか。それをわざわざ変更して若い女性を主役に据え、その主人公が母親という一つ前の世代と対立しているという設定にしているのも外山監督なりの意図があるのだろう。

昨今では高齢者の問題に対応するための予算がかさみ、若者世代は割を食っているとされることもある。それが本当なのかどうかはともかくとして、高齢者の問題が高齢者だけで済むような問題でないことも確かなのだろう。だからこそ本作では高齢者とつながる若者を登場させることで、単に高齢者の性の問題だけに収まらない社会全体へと視野を広げた作品を目指したということなのだろう。そんな意味ではとても意欲的な作品であったと思う。

本作は映画や演劇の専門学校であるENBUゼミナールのプロジェクトで、オーディションで選ばれた多くの役者が出演している。主役の岡本玲は真っ当な女性実業家といった雰囲気で、とても颯爽としていて魅力的だったし、ティー・ガールズの面々もそれぞれ個性的な役者が揃っていた。

個人的に目を引かれたのは、妊娠したことで困窮することになる千佳を演じた海沼未羽。彼女は『街の上で』で主人公がラーメン屋で遭遇する女性をやっていた人らしい。あの時は台詞がなかったのだが、本作ではハスキーボイスが印象に残る。千佳の役柄は生きることに精一杯という感じで、そんな姿と最後の全力疾走が何となく『ロゼッタ』を思わせてツボだった。

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