『そして僕は途方に暮れる』 んなわけねえだろ

日本映画

監督・脚本は『愛の渦』『娼年』などの三浦大輔

主演はKis-My-Ft2藤ヶ谷太輔

タイトルは1984年の大澤誉志幸によるヒット曲から採られたもので、エンドロールにて新しいバージョンを聴かせてくれる。

物語

自堕落な日々を過ごすフリーターの菅原裕一は、長年同棲している恋人・里美と、些細なことで言い合いになり、話し合うこともせず家を飛び出してしまう。その夜から、親友、大学時代の先輩や後輩、姉のもとを渡り歩くが、ばつが悪くなるとその場から逃げ出し、ついには、母が1人で暮らす北海道・苫小牧の実家へ辿り着く。だが、母ともなぜか気まずくなり、雪降る街へ。行き場を無くし、途方に暮れる裕一は最果ての地で、思いがけず、かつて家族から逃げていった父と10年ぶりに再会する。「俺の家に来るか?」、父の誘いを受けた裕一は、ついにスマホの電源を切ってすべての人間関係を断つのだが――。

(公式サイトより抜粋)

人としてどうなのか?

公式サイトのストーリー欄によれば「些細なことで言い合いに」ということになっているのだが、主人公・菅原裕一(藤ヶ谷太輔)に対して同棲相手である鈴木里美(前田敦子)が怒り出すのも当然だとも思える。きっかけとしては裕一の浮気があるわけだが、そのこと以上に裕一の態度そのものにイライラさせられるのだ。

一緒に生活するのなら相手に対して配慮が必要なのは当たり前だが、裕一はそういう配慮に著しく欠けている。忙しく働いている里美に家事全般を任せきりで、自分は時間を持て余してもテレビでバラエティ番組を見るばかりで何もしようとはしないのだ。

さらには里美が耐えかねて浮気についてぶちまけると、面倒になったのか荷物をまとめて逃げ出してしまう。そんな態度だから次に世話になった幼なじみの伸二(中尾明慶)にもキレられることになる。伸二曰く「人としてどうなのか」というほど人を苛つかせるクズが、裕一という男なのだ。

そんなわけで裕一は居場所を失い、流浪の旅へと出ることになる。先輩の田村(毎熊克哉)や後輩の加藤のところ、さらには姉(香里奈)のところを渡り歩くもののやはり面倒なことになると逃げ出すことに。地元である苫小牧の母親(原田美枝子)のところまで流れていくものの、最終的には母親のことを捨てて逃げ出した父親(豊川悦司)のところへ落ち着くことになる。

©2022映画『そして僕は途方に暮れる』製作委員会

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ダメ親父の「逃走論」

裕一が流浪することになるのは、人と真っ正面からぶつかるのが面倒だからだろう。先輩の田村に対しては妙に気を使うのは、これも先輩とぶつかることを避けているからで、一方で里美や伸二に対して尊大なのはその親しさに甘えているためで、これぐらいなら大丈夫と高をくくっていたということだろう。姉や母親と疎遠なのは、姉は口うるさい質だからぶつかることが目に見えているし、身体に障害があるらしい母親はそのことで裕一自身が気疲れしてしまうからなのかもしれない。

とにかく裕一は人と真剣に向き合うことがイヤで、テレビのバラエティ番組を見るような無責任な立場に居たいということなのだ。そして最終的に行き着いたのが、「逃げて、逃げて、逃げ続けろ」と語るダメ親父のところだったということになる。

この父親が反面教師であることは間違いない。裕一も「あんたみたいにはなりたくない」と宣言したもとかつことになる。そんな意味で「逃げ続けろ」という助言は否定されることになる。もちろんこれは真っ当な展開だろう。裕一の親友の伸二ではなく、『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジ君も「逃げちゃダメだ」といつも繰り返していた。現実逃避はいけないことで、現実と向き合い、他者と向き合うことが必要とされるのだ。

そんな裕一はみんなが勢揃いした食卓で、姉から今まで逃げ続けてきたことを問い詰められ、みんなと向き合うことを余儀なくされる。逃げ場のないその場所で、裕一は涙ながらに反省の弁を述べることになる。

この場面の裕一は今までのクズっぷりとは対照的に、みんなと真摯に向き合っていたし、そこで述べたことは嘘偽りのないことだったように思える。やりたいこともないし、どうすればいいかもわからない。それでも変わらなければならないことはわかる。何も約束することはできないけれど……。そんなふうに涙を流しながらみんなに頭を下げるのだ。確かにこの場面は泣かせるのだが、『そして僕は途方に暮れる』は「逃げちゃダメだ」という説教のための映画だったのだろうか?

©2022映画『そして僕は途方に暮れる』製作委員会

二つのエンディング

本作は二つのエンディングがある。一度目のエンディングでは「逃げ続けろ」という助言は否定され、裕一が現実と向き合う決心をした前向きなところで終わる。しかし、そのエンディングは劇中劇のエンディングのように茶化されることになる。『素晴らしき哉、人生!』みたいなハッピーエンドで終わってしまってはつまらないと裕一の父親は語る。それよりも逃げ続けて怖くなったら、映画の主人公になったつもりで「面白くなってきやがったぜ」とつぶやいてみせるほうが面白いんじゃないかというのだ。

そこから先は最初の感動のエンディングを否定するかのような展開となる。「逃げちゃダメだ」と現実と向き合っても、それが必ずしもいい結末を用意してくれるわけではないわけで、キレイに終わってくれないのだ。一度目のエンディングは言わば理想論的な終わり方であり、二度目のエンディングはよりリアルな終わり方とも言えるかもしれない。

©2022映画『そして僕は途方に暮れる』製作委員会

ちなみに三浦大輔監督の『愛の渦』にも、そんなふうにそれまでの展開をひっくり返すようなものがあった。主人公のニートの青年は乱交パーティで出会った女子大生(彼女もスズキサトミと名乗っている)と恋に落ちたと妄想するわけだが、最後にそれが勝手な勘違いだったと判明する。乱交パーティの店員曰く「ここにはそんな意味あり気でカッコいいことなんかないですから」とまとめてみせるのだが、キレイに終わることがないのが三浦大輔の映画なのかもしれない。

本作の裕一も心を入れ替えて里美と向き合うことを選択したものの、その里美によって美談はぶち壊しになる(もともとの原因は裕一にあるわけで自業自得だけれど)。伸二が語っていた「好きな映画監督の失敗作」というエピソードも、一度目のエンディングでは裕一を慰めるための言葉に聞こえるけれど、その後の展開ではまったく意味が変わってきてしまう。

「逃げちゃダメ」なのは確かなのかもしれないけれど、現実はなかなか甘くはないわけで、逃げずに真剣に向き合えば必ずいい結果で応えてくれるというわけではない。向き合ったってダメな場合もあるというのがオチだろうか。

それでも世間一般の多くの人は現実と向き合うべきだと言う。本作の登場人物の中で異質なのは裕一の後輩・加藤(野村周平)なのかもしれない。

本作の男性キャラクターはみんなかつて映画好きだったとされている。先輩の家にはかなりの数のDVDがコレクションされていて『ブエノスアイレス』のポスターが貼られていたし、父親や伸二とも裕一は映画の話をしている。それでもなぜかみんな今では映画を観ることを忘れてしまっているようだ。映画なんてつまらんことにかまけていては現実世界を生きていけないということなのかもしれない。だからみんな映画のことを忘れ、現実世界に向き合うことを選ぶ。

そんな中で唯一加藤だけが、未だに映画の夢を追いかけている(加藤は映画製作の仕事をしている)。だから加藤だけが裕一が逃げ続けることを素直にカッコいいと感じ応援しているのだ。裕一の父親ですら前言撤回して現実と向き合うことを選択したわけだけれど、加藤だけが未だに「面白くなってきやがったぜ」という感覚を持っているのかもしれない。

最後に裕一が後ろ髪を引かれるかのように何度も振り返りながら新宿歌舞伎町のゴジラ通りを歩いていくのも、現実とは別の方向へと進んでいることを示しているのだろうか? 「逃げちゃダメだ」という説教を展開しているようでいて、「んなわけねえだろ」とひっくり返して澄ましているのがこの映画なのだ。

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