『グッバイ・クルエル・ワールド』 世代論みたいなもの?

日本映画

監督は『さよなら渓谷』『MOTHER マザー』などの大森立嗣

脚本は『さよなら渓谷』や『死刑にいたる病』などの高田亮

物語

夜の街へとすべり出す、水色のフォード・サンダーバード。カーステレオから流れるソウルナンバーをBGMに交わされるのは、「お前、びびって逃げんじゃねーぞ」と物騒な会話。互いに素性を知らない一夜限り結成された強盗団が向かうのは、さびれたラブホテル。片手にピストル、頭に目出し帽、ハートにバイオレンスで、ヤクザ組織の資金洗浄現場を“たたく”のだ。仕事は大成功、大金を手にそれぞれの人生へと戻っていく。──はずだった。ヤクザ組織、警察、強盗団、家族、政治家、金の匂いに群がるクセ者たち。もはや作戦なんて通用しない。クズ同士の潰し合いが始まる。最後に笑うのは誰だ!

(公式サイトより抜粋)

タランティーノ風?

ソウルフルな音楽で始まるクライム・エンターテインメント。チラシのデザインとか映画の始まり方を見ていると、どうしてもタランティーノ作品を思い浮かべてしまうのだが、中身はだいぶ違う映画になっている。だからタランティーノみたいなノリを期待してしまうと大いに期待外れかもしれない。

大森立嗣監督自身が「カッコいい男たちが見たい」などと言ってもいるから、そういう映画を撮ったつもりだったのかもしれない。もちろん犯罪は起きるし、血生臭い銃撃戦もあったりする。決して退屈ということもなく観ることはできるのだが、最初のイメージがあったからかどうにもチグハグな感じが残る。

というのも『グッバイ・クルエル・ワールド』は、その外面のイメージとは違って中身は大森監督の過去作『タロウのバカ』のそれとよく似ているのだ。外面だけほかから借りてきたからか、その中身との齟齬が目立つ形になってしまったのかもしれない。

『タロウのバカ』と『グッバイ・クルエル・ワールド』とで共通しているのが、日本社会に対する苛立ちみたいなものだろう。そして、どちらの登場人物も居場所のなさを感じている。日本社会では上のほうに居座っている人たちは安泰で、下のほうの連中は少ないパイを巡って醜い争いを繰り広げている。そうした構図がそっくりなのだ。

ちなみに脚本は高田亮が書いているが、企画コンセプトは監督の大森立嗣が出しているとのことで、脚本家としては大森監督の過去作品は意識していたんじゃないだろうか。

(C)2022「グッバイ・クルエル・ワールド」製作委員会

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世代論みたいなもの?

本作では、ヤクザの金をせしめたクズ共が、その後に仲間割れをして殺し合いをしていくことになるわけだが、そのキャラクターの設定は日本社会の世代論みたいなものを展開させるために用意されているように感じられた。

まずは監督の大森立嗣と脚本家の高田亮は、それぞれ1970年1971年の生まれだ。そして、本作の登場人物の中心となるふたりは、西島秀俊が演じる安西と大森南朋が演じる蜂谷という刑事になるだろう。この演者ふたりもそれぞれ1971年1972年に生まれている。つまりは監督を含む中心にいる四人が、いわゆる第二次ベビーブーム世代ということになるわけで、本作は第二次ベビーブーム世代の視点から描かれているとも言えるのかもしれない。このふたりの登場人物の背景だけは丁寧に追われることになるし、ラストシーンを占めるのもこのふたりなのだ。

西島が演じる安西は元ヤクザ者で、今は奥さん(片岡礼子)と娘と一緒にカタギとなって生きることを目指している。奥さんの実家と思しき旅館の仕事に就き、強盗で得た金をそれに回そうとするのだ。しかし、そこにかつての舎弟(奥野瑛太)がやってきて、過去の話をバラしてしまい、カタギとして生きる夢は終わることになってしまう。

そして、大森南朋が演じた蜂谷は刑事だが、過去の出来事で弱味を握られ、今ではヤクザに飼い慣らされる立場にある。彼にとってはそれは不本意であるらしい。

ふたりはどちらも居場所がないのだ。元ヤクザ者の安西が生きていける娑婆はないし、蜂谷は警察の世界にもヤクザの世界にもいられない。ラストでは、そんなふたりが海が見える場所で笑いながら最期を迎えることになる。第二次ベビーブーム世代のふたりが本作の中心となっていることはここでもよくわかるだろう。

(C)2022「グッバイ・クルエル・ワールド」製作委員会

ほかの登場人物との距離感

本作は群像劇のように展開していくことになるが、そのほかの登場人物は第二次ベビーブーム世代から見た距離感で描かれているようにも感じられる。

ふたりの上の世代の登場人物としては三浦友和が演じる浜田がいる。三浦友和1952年生まれで、ふたりとは約20年の差があり、第二次ベビーブーム世代の親の世代(ベビーブーム世代)と言えるのかもしれない。

三浦が演じた浜田は元政治家秘書であり、左翼崩れということになっている。こうした人物は第二次ベビーブーム世代から見て、親たちの世代に特徴的に見られた人種と言えるし、それなりの理解を持って描かれているように見えるし、リアリティもある。

一方で下の世代に関しては雑だ。1982年生まれの斎藤工が演じた萩原は、公式サイトによれば「何でもアリの普通の犯罪者」となっている。入れ墨なんかで派手さはあるのだが、やっていることは理解不能で、ある意味では殺されるためのキャラとも言える。あまり重要な役割を与えられてはいないのだ。

そうなるとさらに下の世代にはもっと無関心でも良さそうなものだが、そこにひとひねりある。下の世代として登場するのが、宮沢氷魚玉城ティナだ。氷魚は1994年生まれで、ティナは1997年生まれだ。このふたりは一番若いし、単に世間知らずな愚か者だろう。ヤクザの金を強奪しようと考えたのもこのふたりで、すぐにそのことは露見することになる。

ところがそこに介入してくるのが蜂谷刑事で、蜂谷はなぜかこの若いふたり(氷魚&ティナ)に希望を見出している。ふたりは計画の立案者であったにも関わらず金はほとんどもらえず邪険に扱われ、ティナは顔に傷まで付けられることになってしまう。蜂谷刑事はなぜかふたりに肩入れし、復讐を遂げさせようとするのだ(このふたりの絵面が『パルプ・フィクション』のパンプキンとハニーみたいに感じられるからタランティーノっぽく見えてしまう)。

(C)2022「グッバイ・クルエル・ワールド」製作委員会

最後に生き残るのは?

なぜ蜂谷刑事のような第二次ベビーブーム世代が、氷魚とティナのふたりに希望を見出したのか。それは監督自身がインタビューでも語っているように、ふたりには無垢な部分があるからだろう。このことは『タロウのバカ』で一番バカ(=無垢)だったタロウが生き残ったこととも符号している(本作で生き残るのは宮沢氷魚ひとりだ)。

大森監督は若いふたりを「子供たち」と呼んでいる。これはほかの「大人」のキャラクターと対照的なキャラクターだということを示しているわけだが、それと同時に若いふたりが第二次ベビーブーム世代とっての子供たちと感じられているということなのかもしれない。ちょっと下の世代の斎藤工が演じた萩原が理解不能な悪党でしかないのに対して、氷魚とティナは無垢であり希望を抱かせるような存在となっているのはそんな意味が込められていたのかもしれない。

ただ、その期待を受けた若いふたりがいまひとつ弾け切れていない(あるいはそんなふうに撮れていない)のが問題で、もちろんビジュアル的には映えるのかもしれないけれど、突き抜けずに終わってしまった感は否めない。逆にヘンな目立ち方をしていたのが安西の舎弟を演じた奥野瑛太で、異質の存在感を見せていた。監督が希望を寄せていた無垢な存在とはかけ離れた傍迷惑な男にいいところを持っていかれてしまったという感じだろうか?

蜂谷という刑事も若いふたりに希望を見出しつつも、結局は裏切られることになるわけで、本作も期待していた通りにはならなかった不遇な作品というところだろうか。ラストでは西島秀俊と大森南朋が笑いながら最期を迎えることになるわけだが、この笑いにはどんな意味が込められていたのだろうか?

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