『死刑にいたる病』 おぞましさ以外の何か

日本映画

原作は櫛木理宇の同名小説。
監督は『凶悪』『孤狼の血』などの白石和彌

物語

ある大学生・雅也のもとに届いた一通の手紙。
それは世間を震撼させた稀代の連続殺人鬼・榛村からだった。
「罪は認めるが、最後の事件は冤罪だ。犯人が他にいることを証明してほしい」。
過去に地元のパン屋で店主をしていた頃には信頼を寄せていた榛村の願いを聞き入れ、事件を独自に調べ始めた雅也。
しかし、そこには想像を超える残酷な事件の真相があった―。

(公式サイトより抜粋)

死刑囚からの手紙

榛村はいむら阿部サダヲ)は地元で愛されるパン屋の店主として知られていたのだが、その裏の顔は24人もの命を奪ったシリアルキラーだった。現在はそのうちの9つの殺人が立件され、榛村はすでに死刑を言い渡されている。しかし、最後の事件について、榛村は冤罪だと主張する。

主人公の雅也(岡田健史)は殺人鬼・榛村から手紙を受け取る。死刑は免れないのは知っているが、最後の事件は冤罪であり、それを証明してほしい。なぜか雅也はそんな手紙を受け取り、わざわざ榛村と面会することになり、さらには事件について調べ始めることになる。

雅也はパン屋の客として榛村に出会ったらしい。しかし、それだけのことで稀代の殺人鬼のために働くということはなかなか普通とは言い難い。それは一体なぜなのだろうか? そんな謎が本作を引っ張っていくことになる。

(C)2022映画「死刑にいたる病」製作委員会

おぞましい犯行

榛村は自分で決めたことを決めた通りに実行することをモットーとしている。毎朝決まった時間に起き、決まった時間にパンを焼き、そして、決まった人を選んで殺害することになる。榛村のターゲットは16歳から17歳のいわゆる真面目な少年・少女で、榛村は時間をかけてそのターゲットに近づいていく。

普段の榛村は誰にでも好かれるような人柄で、その特性でもってターゲットと親しくなり、警戒心を解き自宅へと誘い込む。そこから先は榛村の別の側面が顔を出すことになる。彼は自宅脇の小屋へと被害者を監禁し、生爪をすべてはがすなど散々痛めつける。その行為はとても見ていられないほどおぞましいものだが、榛村にとっては他人の苦痛を見ることが喜びであり、それを必要としているということらしい。

榛村はまったく理解し難い人間だ。とはいえ、そんな異常者と言える人も存在することも確かなのかもしれない。たとえば白石監督の『凶悪』で描かれた犯罪者も現実の事件をモデルにしているわけで、理解し難いけれどそんな人もいるということなのだろう。ただ、本作の場合はオチがオチだけにどうにも不快さばかりが際立っていたような気もする。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2022映画「死刑にいたる病」製作委員会

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生理的な問題?

以下に記す感想は、単純に「生理的に受け付けられない」といったレベルのものになっているのかもしれない。本作とは無関係だが、先日、『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』という作品を観たのだが、この作品に関して「キャラクターがそもそも気に食わない」といった感想を抱いている人が一定数は存在するようだ。確かにお行儀のよくない母と娘ではあったけれど、たとえ批判すべきところがあったとしても(個人的にはいい作品だと思うが)、そこではないんじゃないかとも感じた。これと同様に、私が『死刑にいたる病』が好きになれなかったのも単純に生理的な問題なのかもしれない。

どこが受け付けなかったのかと言えば、本作の無意味なおぞましさといったところだ。おぞましい描写をそれ自体として楽しめる人もいるのかもしれないのだが、個人的にはそんな趣味はない。たとえばホラー映画などでおぞましい殺人が描かれたとしても、それは最終的に主人公による反撃に遭って打ち倒されることになるわけで、そこにはカタルシスがある。これは許せるおぞましさということになるだろう。

白石監督の前作『孤狼の血 LEVEL2』の上林というキャラもとんでもないモンスターだったけれど、映画の最後には主人公によって殺されることになるわけで、上林のそれまでの乱暴狼藉の描写に関しても理解できる。

あるいはおぞましい描写が何らかの美学になっているものもあるかもしれない。たとえば『セブン』の殺人鬼が「七つの大罪」というものを自分の命も賭して描こうとして見せたようなものだ。それに対して『死刑にいたる病』のおぞましさは、そうしたカタルシスや美学といったプラスαに結びつくことはない。おぞましさはおぞましさのままで何に寄与することもないのだ。

最初に榛村が桜の花びらを撒くシーンが、最後になって犠牲者たちの生爪だったことが明らかになるように、榛村の話の多くは嘘であり、観客の視点を担う雅也は榛村に見事に騙されることになる。

もちろん殺人は事実だ。しかし、最後の殺人は別人がやったことであるという最初の主張は嘘だ。また、榛村は雅也の父親であるかもしれないということを仄めかすわけだが、これも嘘。それから別の犯人に仕立て上げられる金山(岩田剛典)や、雅也の母親(中山美穂)、さらに雅也の同級生の灯里(宮崎優)などを巻き込んであれこれと騒動を巻き起こすものの、結局すべては榛村が死刑になるまでの暇つぶしに過ぎないのだ。

雅也はそれを理解した時、何を感じたのだろうか。観ている側としては、徒労のようなものを感じることになった(それがこの映画の目指したところなのかもしれないが)。榛村に振り回される雅也と一緒に観客もおぞましい殺人の描写に付き合わされることになるわけだが、結局はそれは榛村の自慢話のようにも感じられてくるわけで、一体何を観させられたのだろうかという気にもなってくるのだ。

(C)2022映画「死刑にいたる病」製作委員会

おぞましさ以外の何か

そもそも本作は純然たるフィクションであり、『凶悪』のようなモデルもない。『凶悪』の場合はまだ「現実にこんな事件があった」と知らせるという意味合いはあるのかもしれないのだが、本作の場合は24人の殺害という事件もフィクションであり、榛村も原作者が生み出した虚構の存在だ。

榛村は人心掌握術に長け、精神的に傷を負った子供たちをうまく操ることになるわけだが、そこにリアリティがあったとはまったく感じられないわけで、原作者は一体どんな意図でそんな稀代の殺人鬼を生み出したのだろうか。

『ハウス・ジャック・ビルト』にも感じたことだが、単におぞましいだけでは何のおもしろ味もないんじゃないだろうか。『凶悪』の場合は、おぞましさ以外のプラスαの部分を雑誌記者に担わせようとしていたようにも見える(しかしながら、それはうまく行っていなかったようにも感じた)。そして、本作おけるプラスαの部分は、榛村がうまく人に取り入るところであり、それによって人を操るところなのかもしれないのだが、最終的にそれは暇つぶし以外の何ものでもないことが判明するわけで、観客としても弄ばれた不快さばかりが残ることになった。

タイトルはキルケゴールの教化的著作『死に至る病』から来ているわけだが、どう考えても似ても似つかない。騙されてそんな作品を観に行ってしまったほうが浅はかなのかもしれないけれど……。

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