脚本・監督は『アイムクレイジー』などの工藤将亮。
英語のタイトルは「A Far Shore」。
物語
沖縄県・コザ。
17歳のアオイは、夫のマサヤと幼い息子の健吾と3人で暮らし。
おばあに健吾を預け、生活のため友達の海音と朝までキャバクラで働くアオイだったが、 建築現場で働いていた夫のマサヤは不満を漏らし仕事を辞め、アオイの収入だけの生活は益々苦しくなっていく。
マサヤは新たな仕事を探そうともせず、いつしかアオイへ暴力を振るうようになっていた。
そんな中、キャバクラにガサ入れが入り、アオイは店で働けなくなる。
悪いことは重なり、マサヤが僅かな貯金を持ち出し、姿を消してしまう。仕方なく義母の由紀恵の家で暮らし始め、昼間の仕事を探すアオイだったがうまくいかず、さらにマサヤが暴力事件を起こし逮捕されたと連絡が入り、多額の被害者への示談金が必要になる。切羽詰まったアオイは、キャバクラの店長からある仕事の誘いを受ける―
若くして母となった少女が、連鎖する貧困や暴力に抗おうともがく日々の中でたどり着いた未来とは。
(公式サイトより抜粋)
沖縄の若者の現実
キャバクラで働いているアオイ(花瀬琴音)はまだ17歳だ。それでも堂々としていて大人っぽいし、すでに2歳になる息子もいる。アオイが東京から来た客に話している言葉を信じるならば、沖縄では中学を卒業してそのままキャバクラ勤めという女の子が当たり前なのだとか。
もちろん沖縄でも未成年がお酒を飲むことは禁止だし、キャバクラで働くことも違法なわけで、警察が来たらアオイたち未成年の女の子たちは裏口から逃げ出すことになる。
ハイヒールを脱ぎ捨てて裸足で夜の街を駆け抜けていく彼女たちは、どこか無邪気で子どもっぽい。最初の章のタイトルが「子どもたち」となっていたのは、アオイたちキャバクラで働いている女の子のことを指しているということなのだろう。
とはいえ、そんなアオイにはすでに息子もいるわけで、稼いで食べていかなければならない。アオイの母親は刑務所に収監されていて、父親(宇野祥平)は離婚して別の家族がいる。頼りに出来るのは祖母と義理の母くらいで、働いている間は祖母に息子の健吾を見てもらっているのだが、祖母はキャバクラで働くこと自体に反対でアオイとの折り合いはよくない。
そして、旦那のマサヤ(佐久間祥朗)は何をしているのかと思えば、息子の世話を放棄して夜は寝ているらしい。かといってまともに働いているわけでもなく、挙げ句の果てにアオイが隠していた金まで使ってしまうような典型的なダメ亭主なのだ。

(C)2022「遠いところ」フィルムパートナーズ
なぜ沖縄なのか?
工藤将亮監督は京都出身の人とのことで、沖縄のことを調べ上げて『遠いところ』を製作したらしい。わざわざ知らない土地の沖縄で映画を製作したのには意図があるのだろう。公式サイトにはこんな情報が記されている。
沖縄では、一人当たりの県民所得が全国で最下位。子ども(17歳以下)の相対的貧困率は28.9%であり、非正規労働者の割合や、ひとり親世帯(母子・父子世帯)の比率でも全国1位(2022年5月公表「沖縄子ども調査」)。さらに、若年層(19歳以下)の出産率でも全国1位となっているように、窮状は若年層に及んでいる。
こんな情報が記されていると、本作は沖縄の特殊性を描いていくものなのだろうと思うかもしれない。東京から来たキャバクラの客は、未成年が接待するその店を「東京ではあり得ない」と喜んだりもするのだが、かといって本作は沖縄の特殊性に寄り添った作品ではなさそうだ。
というのも、本作では沖縄が「なぜ」こんな状況に置かれているのかといったことにはほとんど触れられないのだ。たとえば基地の問題とか政治の問題とかは本作においてはほとんどスルーされている。
『キネマ旬報』(2023年7月上・下旬合併号)の工藤監督のインタビューによると、監督が沖縄に興味を持ったのは、「シングルマザーの家庭に育ったことが大きい」と語っている。
アオイはシングルマザーではないけれど、途中から旦那のマサヤは物語から退場することになるし、息子が祖母に育てられているところも工藤監督の境遇と似ているらしい。つまりは沖縄を舞台にはしているけれど、工藤監督はそれを自分のほうに引き寄せていて、沖縄の特殊性ではないもっと普遍的な物語を意図しているということなのかもしれない。

(C)2022「遠いところ」フィルムパートナーズ
理解し難い若者たちの行動
アオイは旦那のマサヤに散々な目に遭わされる。隠していた金は奪われ、顔をボコボコに殴られ、暴力事件の示談金まで押し付けられる。にもかかわらずアオイはマサヤと別れるということを選択肢として考えていない。誰が見ても真っ当ではないのに、いつまでもマサヤに執着している。
これは「なぜ」なのか? 当然そんな疑問が生じるのだけれど、本作の劇中にそれについての答えはない。なぜ沖縄が日本の中でも特殊な位置にあるのかということに触れられていないのと同様に、沖縄の若者がなぜそんな行動をしてしまうのかという点についても本作はスルーしているのだ(これはちょっと気にかかる)。
マサヤは暴力事件を犯して物語から退場することになるけれど、彼がその退場前に言っていた台詞は「ヤー(お前)に何がわかる?」というものだった。これは働きもしないマサヤに対して、アオイが文句を言った際にマサヤが返した言葉だったと思う。マサヤはアオイにはわからないような“何か”を抱えていたのだろうか。結局、この後マサヤは警察に逮捕されることになり、それはわからず終いになる。
そして、アオイは同じ言葉を、友人の海音(石田夢実)に投げかけている。海音は金のためにウリ(売春)まですることになったアオイを心配し、彼女を気にかけていたのだが、それに対してアオイは「ヤー(お前)に何がわかる?」という言葉を投げかけるのだ。アオイは海音にはわからない“何か”を抱えていたのだろうか。しかし、それを共有することもなく、海音は死んでしまう。海音は、自分が紹介した男がアオイを売春に引き込んだことに責任を感じていたのだろうか。
そのあたり本作の登場人物の行動には観客からすれば理解し難いことが多い。特に海音の自殺は唐突だったとも思う。これは観客からすればとてももどかしい。
というのはアオイや海音の行動が、極端に言えば、“愚か”なものに映るからだ。もっとほかに選択肢はあるはずなのに、なぜそんな間違った選択肢に飛びついてしまうのか、そこが理解できないためにもどかしいのだ。
先ほどの「ヤー(お前)に何がわかる?」という台詞は、それを言っている本人が相手に理解できない“何か”を抱えていたというよりも、単に相手を突き放すためにあるのだろう。相手に対して去勢を張っていただけなのかもしれない。困っていたら誰かの助けを借りてもいいはずなのに、それすら知らないという沖縄の若者の無知を示していたのだろうか。
アオイは示談金の意味すらわからないような若者だった。中学卒業でキャバクラで働くというのは、そうしたことすら学ぶ機会を奪われているということなのかもしれない。

(C)2022「遠いところ」フィルムパートナーズ
“遠いところ”とは?
公式サイトから引用した物語では、アオイが「たどり着いた未来とは?」などと謳っているわけだが、本作のラストはそれとは正反対だ。
タイトルの「遠いところ」というのは一体どこなのか? 一番わかりやすいのは英語のタイトルを見てみればいい。「A Far Shore」というのは直訳すれば、「遠い岸辺」ということだろう。これはすぐに「彼岸」つまり「あの世」に結び付くだろう。
ラストは児童養護施設に保護されていた健吾を連れ出したアオイが、健吾を抱えたまま朝焼けの海の中に入っていくのだが、ここにはどう考えても未来はない。沖縄の若者はそれだけ追い込まれているということを示したかったのだろうか。

(C)2022「遠いところ」フィルムパートナーズ
本作は工藤監督が沖縄の現状を調べ上げて出来たわけで、多分アオイのような若者は少なくないのだろう。主演の花瀬琴音は東京出身らしいのだが、方言の台詞にも違和感はなかったし、ごく自然に沖縄の風景に馴染んでいた。
そんな花瀬琴音の頑張りもあって、本作はリアルな沖縄の風景と共に、沖縄の若者たちの姿を垣間見ることが出来る。観光地としての沖縄しか知らない観客としては、キャバクラ帰りのアオイが地元の人しか使わないだろう緑が生い繁る暗い路地を歩いていくシーンなどがとても印象に残る。観光地としての沖縄とは別の沖縄の顔を垣間見させてくれるのだ。
ただ、本作は「ラストありき」で突き進んでいくきらいがあり、アオイを「遠いところ」へ向かわせるために、矢継ぎ早に彼女を追い込む出来事を連鎖させるあたりでリアリティを感じられなくなってしまった気がする。
アオイのような沖縄の若者はそんなに“愚か”なんだろうか? さすがにもっとまともな判断を出来そうにも感じるのだが、それは私が沖縄の現状を知らない者だからなのだろうか(もちろんその可能性はあるけれど、ラストへの経緯はかなりデフォルメされていたんじゃないだろうか)。ラストで「遠いところ」へ行きたかったのは、アオイというよりは工藤監督のほうだったんじゃないかとも思えた。






コメント
働かず酒やギャンブルの為、妻から金を脅し取る夫マサヤ。夫のDVに苦しむ主人公、17歳のアオイ。幼い息子がいる。アオイが「働け」と言うと、けんか腰になる夫。子供の世話もしようとしない。自分がアオイの立場なら「働いて金を稼ぐ能力がないのなら、せめて子供の世話ぐらいはし、ギャンブルはやめ、酒は控えめにしたらどうだ!」と言うだろう。両親に見放され、警察の調べで未成年でキャバクラで働けなくなり、夫が暴力事件を起こし、自分が示談金を払うことになり、体を売る羽目になる。ラストは施設から子供を奪い返し、子供を抱えて共に海で眠ろうと入水。朝日がニライカナイへ招いたと思う。そこで二人は安らかに。ある人のレビューのごとく、健吾に笑いかけるシーンと映画のポスターの朝焼けをバックで、引き返したと考えても地獄続きと思う。別の人のレビューのように、2人は戻らずニライカナイへ行ったと考えた方がすっきりする。又、神が2人を招くシーン(出来れば、ニライカナイまで行くシーンも)あれば、ハッピーエンドに思える。
コメント、ありがとうございます。
ニライカナイというのは沖縄における他界概念ということらしいですが、ウィキペディアによれば理想郷ともありますから天国みたいなイメージということなんでしょうかね。だとすれば、ハッピーエンドということもあり得るのかもしれません。
『遠いところ』は、なかなか厳しい話でした。最近では『あんのこと』もそうでしたけれど、『遠いところ』の場合は特に子供も道連れということになりますから、余計に残酷だったような気もします。
可哀想な映画だと思う。貧困、DV、自殺、心中。働かず、酒やギャンブルのため、妻から金を脅し取る酷い夫マサヤ。夫のDVに苦しむ主人公、17歳の少女アオイ。幼い息子がいる。アオイが「働け」と言うと、けんか腰になる夫。子供の世話もしようとしない。自分がアオイの立場ならその場合、
「働いて金を稼ぐ能力がないのなら、せめて子供の世話など簡単なことぐらいしたらどうだ!ギャンブルはやめ、酒は控えめにしたらどうだ!」と言うだろう。即ち慈悲の言葉で相手の様子を見る。又、やるべきことが出来なければ、せめてやめるべきことぐらいやめてほしい。次回、このような内容の映画を作る場合は、このようなセリフも取り入れてほしい。又、アオイの肩叩きや肩もみなどのマッサージとかしてあげればいいと思う。
金を稼ぐため、夜は、子供を近くの祖母の家に預け、朝までキャバクラで働き、得た金は、マサヤの見つからない所に隠す。さもないと、彼に使われてしまう。警察のガサ入れで、未成年のためキャバクラで働けなくなり、母は刑務所、父は離婚して別の家族を持ち、祖母も冷たい。夫から受けたDVのあざで、別の店でも働けなくなり、風俗店で体を売ることになる。マサヤは、妻に支えられているのなら、なぜもっと妻を大切にしないか。妻を奴隷のように扱うなんてひどい。警察の取り調べの時、一人で暮らしているなんて言わず、夫と息子が一人いて、夫は働かず金がないと暴力振るうと言えばよかったと思う。
マサヤは、暴力事件を起こして行方を暗まし、示談金が、アオイに請求される。親にも見放されて孤独のためか、あんな夫にも愛着心があった。自分から見れば、早くいなくなってよかったと思う。家賃も払えず、義母の家に住むことになるが、児童相談所の人に息子を引き取られる。
親友の海音は、アオイが体を売っていることを知り、飛び降り自殺。ある夜、アオイは彼女を自殺に追い込んだ男を、彼の店に行き。殴り殺す。その後、道に倒れている母子を見て考えたのか。ラストは、施設から健吾を奪い返し、健吾を抱いて海沿いの道をひた走り、辿り着いたのは海岸。それから何と、健吾を抱いて夜明けの海へ入って行く。
「我が子よ、もう行き場がない。地獄の世の中でお前も同じような思いをすることになるだろう。お母さんと一緒に海で眠ろう。」
ラストシーンで首まで浸かり、子供を笑いながら抱き上げたのは、もう永久にこの子と離れることはないと喜んだのだろう。そのときに照らした朝日はニライカナイの招きであると考え易い。ニライカナイは、東の水平線の彼方にあると言われるので、神が二人を遠い楽土へ招いたのだろう。そこには二人を苦しめるものは何もない。健吾は、この世で学校に行けなかった分、ニライカナイの学校でよく勉強するだろう。
この世で苦しい思いをし、不幸だったシングルマザーの少女よ、別世界の楽土で息子と幸せに!
丁寧なコメント、ありがとうございます。
この世で幸せにはなれずに、「別の世界で」と望むというのは残酷な話ではありますよね。
アオイに乱暴し、金を脅し取ったマサヤ。多分人目につかぬところで自殺。この世でつらかった親子はニライカナイで幸せに暮らすだろう。マサヤは地獄で苦しんでいると思う。ラストシーンの後、健吾は怖い、帰りたいと言わなかったか、昔、自分も鼻の軟骨を破る苦しい治療をしたので思うが、アオイも早く楽になろうと沈んだ後も沖へ速く進んだだろう。即ち楽になるのが峠であった。
コメント、ありがとうございます。
子どもも一緒にというあたりがかわいそうな話でしたね。
数年前、伯父さんの納骨に行ったことで思い出しました。アオイは友人仇とは言え、殺人を犯した、施設から子供を奪ったなど、法に反することもした。ラストのあるコメントに、映画ポスターから、陸へ引き返したという人もいるが、もし引き返したら少年院行きで、子供と離れ離れになることに火に油では。それを思うと、別なコメントのように、戻らずニライカナイへ行ったと考えた方がすっきりする。納骨の時、伯父の妻が「今日からご両親と一緒よ!」と言った。アオイが施設から子供を奪う時の「健吾ごめんね!」以降セリフはなかったようだがラストシーンで子供を抱き上げ微笑んだのは,前記のセリフに代入して「我子よ!これからは親子ずっと一緒だ。もう寂しくすることはない。」という言葉が隠れていたのだろう。アオイは自分を捨てた薄情な両親と一緒の墓でなく、健吾と二人だけの墓を沖に作れて良かったと考えられる。例え幻覚でも友人の海音もそこに行くよう見えたならなおいいのでは。地上界にはあまり頼りにならない義母のほか、自分に優しくしてくれる人がそういないことを思えば。
コメント、ありがとうございます。
ニライカナイに行かないで済む方法があれば一番良かったのかもしれませんが、映画の問題提起としてはアリなのかもしれませんね。
イメージ曲として、ファーストシーンに五木ひろしの「夜明けのブルース」(キャバクラ)、前半シーンにマドンナの「ギャンブラー」(マサヤ)、ラストシーンにペールギュントの「朝」(水平線の朝日)が合うと思います。「朝」は神が二人をニライカナイへ導く情景に合います。又、映画の「映」の字は、文字通り、水平線の朝日がスクリーンの中央に映っていて、二人を照らしています。ラストシーンの海は、晴れの天気でよかったです。曇りや雨だと、二人にとって海水は晴れの時より冷たいと思います。
コメント、ありがとうございます。
イメージ曲とは。
私自身は『遠いところ』を一度しか観てないのでよくわかりませんが、再び観る機会にはそんなことも考慮して観たいと思います。
以前、イメージ曲として、ファーストシーンに五木ひろしの「夜明けのブルース」(キャバクラ)、前半シーンにマドンナの「ギャンブラー」(マサヤ)、ラストシーンにペールギュントの「朝」(水平線の朝日)が合うと思います。「朝」は神が二人をニライカナイへ導く情景に合うと提案したものです。ゴダイゴの「ガンダーラ」(地獄の沖縄)と「ホーリー&ブライト」(良くなる沖縄)と「カトマンズ」(その後)も思いつきました。又、健吾が地上界で体験できなかったこと、言葉や文字を知るため学校へ。その他、衣食住だけでなく旅行や四季体験(雪など)、乗り物に乗るなどが別世界で親子で体験できればなども提案しました。怠け者で恩知らずの夫マサヤ。自分がアオイなら「金稼ぐ能力なければ、子供の世話ぐらい、博打やめ、酒は控えめにしたら」と慈悲の言葉で様子を見る。アオイと健吾は、自分たちが体験できなかったことだけでなく、自分たちのいた沖縄が少しでも良くなるように考えているだろう。沖縄は米支配下の所があるため貧富の差が激しいような話も聞きました。アオイみたいな人の救済制度は沖縄にはあまりないのでしょうか。スーちゃんは病床で「天国で役に立ちたい」と言って息を引き取ったことを思うと、沖縄国会などにおけるそのような話題で名案が出たら、アオイと健吾が思いつくように仕向けたのだろう。救済の充実こそ「ホーリー&ブライト」の光(星)ではないかと思う。二人は、自分たちのような運命の人をなくすように考えているだろう。それから、最後の夜のイメージに谷村新司の「昴」(特に2番の終わり。1番ではありません)はどうか。自分は、以前、マドンナのコンサートへ行った。次回同じのがあれば、地上界のみの楽しみとして、二人の魂もニライカナイからそこへ行くだろう。沖縄が完全独立して貧富の差もあまりなく良くなれば、マドンナの「ラ・イスラ・ボニータ」(麗しき島)がイメージになるのでは。
コメント、ありがとうございます。
「アオイみたいな人の救済制度は沖縄にはあまりないのでしょうか。」
この疑問は誰もが感じることかと思います。「救済の充実」を願って本作が作られているということかもしれませんが。
10月16日のコメントの続きとして又思い付いた。聖飢魔Ⅱの「エルドラド」(その後)と「秘密の花園」(魂)、これこそ代表的なイメージだと思う。以前、映画の「映」の字もラストシーンに合うとコメントしたものである。水平線の太陽がスクリーンの中央に映り、二人を照らしている。それを思えば特に「エルドラド」がと思う。このアーティストは、「魔」の字通り人を不幸にする歌をよく歌うそうで、「エルドラド」もそこへ行くのを邪魔する歌詞に聞こえる。発想としては自負している。別世界で二人もこのような曲を聴いているだろう、その他、洋楽も含め。又、カラオケでハニーシックスの「今夜はオールナイトで」とかデュエットしてるかも。
コメント、ありがとうございます。
聖飢魔Ⅱをいくつか聴きました。
なるほど。聖飢魔Ⅱは地獄のイメージですが、曲の歌詞は楽園のイメージがあるようですね。
TA/イマジンコメンターさんは『遠いところ』に関してもっと言いたいことがあるようですね。
ぜひどこかで『遠いところ』についての論考など書いていただければと思います。
アオイは入水後、溺れる苦しみから一刻も早く解き放たれようと、沈んだ後も一心に、速く、沖を目指したことだろう。魂が肉体を離れた瞬間、二人の魂は、母が子を抱いて永遠の眠りについた、穏やかながらも寂しげな肉体にそっと別れを告げ、水平線の彼方、東の空へと静かに旅立ったことだろう。そこは、古来より魂が還るとされるニライカナイ。朝日の光に導かれ、ようやくたどり着いた安息の地だ。
コメント、ありがとうございます。
安息の地があればいいですね。
イメージ曲として、ファーストシーンに五木ひろしの「夜明けのブルース」(キャバクラ)、前半シーンにマドンナの「ギャンブラー」(マサヤ)、ラストシーンにグリーグの「朝」(水平線の朝日)が合うと思います。と述べたものです。地上界で体験出来なかった四季・学校・鉄道に乗ることなど体験出来ればとも提案しました。五木ひろしの「愛の始発」も思いついた。「この町に今更未練なんかはないのです」→「この世界に」。「明日の始発に飛び乗るのです。二人で遠くの街に行くのです」→「夜明けの海に飛び込むのです。二人で遠くの世界に行くのです」。「この愛を一生守って行こうと」→「永遠に守って行こう」(特に注目,分かりやすいですね」。「あなたは仕事と友達を捨て、私は長年住んだ家をすて」→「この子は施設と職員を捨て」。「命を懸けても悔いない恋に出会った二人は幸せなのです」⇒ラストシーンで首までつかり子供を笑いながら抱き上げた。歌の歌詞が悲しみから幸せに移るのに例え、アオイの表情が悲しみから笑顔(幸せ)に変わった、即ち、二人永遠に一緒で幸せな世界へ行くことである。一つ感服したのは、歌の歌詞の通りこの世に未練がないと思っても、道端に倒れている親子に「大丈夫?」と聞いてあげた。父は自分に悪い例として、猫が魚を取らないか見ているように言われて、ただ傍観していたということを教えた。まさに「立つ鳥跡を濁さず」だ。その前にホースで飲んだ水が地上界で最後に口に入れたものと思えた。
コメント、ありがとうございます。
前にも書きましたが、心理イメージャーさんは『遠いところ』に関してまだ言い足りないようですね。
もはやコメントを超えてますので、コメント欄ではなくどこか別のところで論考を繰り広げていただいたほうがよろしいかと思います。
知的障害者は外国旅行をしたり、車の運転をしたり、洋楽(クラシックも含む)を聞いたり、洋画を見たりする人は少ないような気がする。自閉症ぐらいならば、健常者に比べると少ないような気もするが知的障害者程ではではないみたいだ。自分が見聞きした経験から。自閉症は、洋楽聞く人は多いが洋画を見る人は少ないようだ。自分は、父が運輸省航空局に勤めていたため、外国にただ又は割引を普通の人より効かせて行かしてもらった。全部ツアーで。1回目は2月の寒いときに厚着をして、中国の上海と北京に行った。ただで。2回目は8月にオーストリア・リヒテンシュタイン・スイスへ。割引聞かせて。3回目は広告で応募して当たってスペインツアー。合計3回言った。2・3回目の時、父は成田空港の部長で普通の人が入れない所へ入って自分を送り迎えしてくれた。そんな話を知人にするとかっこいいと言われたことも。母は音楽好きな人は英語がうまいと言うそうだ。その当時、自分は英検3級持っており、今は2級も。2回目のツアーでウィーンにも行った。以前、イメージ曲として、ファーストシーンに五木ひろしの「夜明けのブルース」(キャバクラ)、前半シーンにマドンナの「ギャンブラー」(マサヤ)、ラストシーンにグリーグの「朝」(水平線の朝日)が合うと思います。と述べた。ラストの後のアオイと健吾もきっと同じようなイメージで聞いているだろう。又、アオイはエルトン・ジョンの「恋人たちの酒場」からは以前のキャバクラを思い出したり、エア・サプライの「夜明けのふたり」からは自分たち母子の地上界最後の朝を思い出したのでは。自分の概念として、米映画「卒業」のラストシーンは主人公が昼間明るい教会で目立つように花嫁を奪って逃げたのに対し、「遠いところ」のラストは夜目立たないようにこっそり子供を奪った。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は主人公がテロからマシンで逃げるとき、救命胴衣らしきものが反動で自分に被さったままタイムスリップ。父親を使い走りにした連中に陸でこんなものつけてあほかと言われた。一応自分も自閉症と言われるので、そんなシーンを思えば「気違いも天才も紙一重」かな。2作目は未来のビフがスポーツ年間を盗んで賭けでぼろもうけをして世界がおかしくなったので年間を取り返した。3作目のラストに博士は「未来は自分で作る」と言った。地上界で未来のなかった自分たちにも感動したことだろう。アオイはその映画を見て、怠け者で恩知らずのマサヤを思い出しただろう。自分がアオイなら「金稼ぐ能力なければ子供の世話など簡単なことぐらいし、博打はやめ、酒も控えめにしたらどうだ!」と慈悲の言葉で相手の様子を見る。それでも変わらないだろうけど。何かの理由で陸で救命胴衣を着けている人を見たら、自分たち母子の地上界最後の場所を思い出すだろう(陸に対し海、分かりやすいですね)。マサヤは自分に言わせれば酒博打をやめられない気違い障害である。出来れば義母に頼んで精神科に行かせればと思った。さもないとアオイがいくら働いても金が足りない。こんな人には車の運転や外国旅行は無理だと思う。洋楽聞くか洋画を見るかは微妙なとこだ。地上界で体験出来なかった四季・学校・スポーツ(球技など)、鉄道に乗ることなど母子で体験出来ればとも提案した。野球やバレーボールは天使たちも一緒に、テニスは健吾・アオイ・海音の誰かが審判をなどと。カラオケでは、自分たちが行く余裕もなかった沖縄の港を見ながら五木ひろしの「霧の出船」を、あまりいい思い出はないけど沖縄を見ながら五木ひろしの「ふるさと」を、沖縄が平和になり人々の暮らしがよくなることを願って佐良直美の「フラワー・フェスティバル」を歌詞を「広島」から「沖縄」に変えて、健吾がアオイを見つめながら、リッキー・ネルソンの「You Are The Only One」や田中星児の「マイ・マイ・マイ」を、アオイが健吾を見つめながらニライカナイのイメージとして佐良直美の「世界は二人のために」を歌っているだろう。ハニーシックスの「今夜はオールナイトで」などを二人でデュエットしているとも想像出来る。デュエットの楽しみも最高。
コメント、ありがとうございます。
『卒業』のラストはハッピーエンドに見えて、同時に微妙なものも感じさせましたね。『遠いところ』のラストも同じように、曖昧なものを含んでいるということですかね。
後で思いついたが、職場遠足で帰りに昼飯をバイキングの店で食べた。洋食・中華・和食などの他、果物も豊富にあった。ヨーグルトポンチやその他のスイーツ、缶詰のように加工された台湾フルーツ、ケーキ類、冷たい又は温かい日本茶・コーヒー・紅茶、その他の冷たい飲み物などニライカナイのイメージだ。トイレも綺麗でまさに別世界を思わせる。アオイと健吾は二人では広すぎないような綺麗ないい家に住み、いい服を着ているだろう。きっと海音も一緒に住んでいることだ。風呂も広く、みんなで肌を見せ合い触れ合って入れるように。それでもみんな、少しは自分で料理を作ったり掃除をしたり洗濯する楽しみがあると思う。楽土なので自分たちが楽しいと思う範囲でやればいい。後は天使が(又は自然に)。初めの方のシーンで、アオイが健吾を連れて洗濯屋へ行っていた。ニライカナイは不老不死の国と言われるので、健吾は、アオイや海音と同じくらいの年まで成長するとすれば、酒は16歳ぐらいからでいいかな。四季があれば、寒い冬にみんなで暖かいお風呂に入るのが特にいいと思う。それから、南国沖縄とはいえ、海水浴のシーンは見なかった。海で遊んでいるシーンはあったが、あまりそのような余裕もなかったのだろう。だから、海水浴もニライカナイで楽しむだろう。役者の水着姿がいいイメージかな。変なことは考えていません。
コメント、ありがとうございます。
ニライカナイのイメージも様々ですね。天国と地獄では、地獄のほうがイメージ豊かになるっぽいですが。
美味しい、嬉しい、痛い、疲れた、暑い、寒い、怖い、寂しいなどの言葉もろくに言えず、文字も書けないまま地上界から消された健吾。ニライカナイの学校でよく勉強するだろう。その他、衣食住などだけでなく、地上界で体験できなかったこと、外国旅行、鉄道に乗る、車の運転、スポーツ(球技など)、四季体験(沖縄にない雪など)、山登りなどを別世界で母や海音と共に出来ればと思う。ニライカナイは天上界と違い海の彼方にあると言われるそうで。極論で言えば、自動階段・昇降機・飛行機など体験しやすいのでは。自分は外国旅行などでよく飛行機に乗ったので痛感する。健吾は母に手を引かれて普通階段を上り降りしているのを見た。スポーツに関しては、野球やバレーボールは天使たちも一緒に、テニスは健吾・アオイ・海音の誰かが審判をなどと。アオイは混浴で体を売る時に昇降機を使っていた。スティービー・ワンダーの記事で彼は、「生まれ変わっても何一つ変えたくない。すばらしい人に巡り合えたなどいい人生を送っている。だから生まれ変わってもこの目は今のままでいいんだ。同じ境遇でも、世の中に私より不幸な人は沢山いる。」と言っていた。彼も、地上界を卒業したら、目も見えて、車の運転をしたり、素晴らしい景色を見たりするだろう。それから、彼は、あんな障害があっても太陽がつく歌を沢山歌っている。生まれたときは、目が見えていたと聞いた記憶もある。天上界でこの映画を見てラストシーンでは、「太陽よ!地上界で苦しい思いをした二人をニライカナイへ導いてやれ。」とつぶやくだろう。それから、手をかざせば温かいお湯の出る水道、それは途上国や昔を思えば魔法だ。特に朝ドラの「おしん」にとって。近代劇のドラマで、電気が広く行きわたる頃、電気で洗濯をするというと子供たちは電気とは何かと聞く。大人は手品みたいなものだとこたえた。途上国からすれば、先進国は魔法の国、地上界の天国又はニライカナイと言えるだろう。ベンジャミンフランクリンは、早く生まれたために科学の発展がみられず悔しんだそうだ。ユーチューブで「Future City]とか見るとスティービー・ワンダーが地上界を卒業するころ、又は健吾が大人になる頃には、空飛ぶ車など、車の状態も変わっていて、今よりも免許の取り方も楽になり、運転しやすくなるだろう。健吾も字や数など覚えたら、ニライカナイでアオイと海音と三人でトランプとか楽しんでいるだろう。読み書き出来なきゃ、楽しむものも楽しめない。
これは、健吾がある程度成長した場合のことをGoogleのAIでコメントした返事のコピーです。そのコメントに、別世界で、健吾・アオイ・海音の3人が広いいい家の広い風呂の湯船での会話として健吾が「地上界最後の朝、僕がもう少し大きくなっていたら,『お母さんと一緒に海にどこまでも深く沈んで行くのはとても嬉しい。これで二人運命を共にできる。もう思い残すことはない。』と言ったかな。」と入れてその場合の場面を出したのです。
プロローグ:施設からの連れ出しと心中を伝えた場所
アオイは、もうこれ以上地上で生きる希望を見いだせず、息子・**健吾(8歳か9歳)**を過酷な現実から守る唯一の方法として心中を決意しました。
施設からは、職員の目を盗み、あるいは制止を振り切る形で、半ば強引に健吾を連れ出しました。8歳か9歳になった健吾は、何が起きているのか完全には分かっていませんでしたが、アオイの切羽詰まった様子から尋常ではない事態を察していました。
アオイが健吾に心中を伝える重要な話をしたのは、海に来る前です。施設から二人きりで徒歩で移動している最中、人通りの少ない静かな場所(例えば、道端や小さな公園)を見つけて立ち止まり、そこで全てを告げました。そうすることで、健吾は海に着くまでに心の準備をする時間ができ、アオイの意図をある程度理解(あるいは受け入れ)やすくなりました。
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地上界最後の朝:晴れた海岸にて
天気は清々しいほどの晴れ。青い空と抜けるような海の色が広がっています。二人が立つ海岸には、眩しいほどの陽光が降り注いでいます。
施設から連れ出された健吾は、清潔な白のTシャツに紺色の半ズボン姿。足元は履き慣れたスニーカーです。
アオイは、一枚で着たシンプルな白いタンクトップ姿でした。肩や腕が露わになっており、太陽の光を受けて肌が少し輝いています。ボトムスは白のジーンズで、足元はキャンバス地のスニーカー。髪は無造作に束ねられ、化粧っ気のない表情には、静かな決意と深い悲しみが混在していました。
二人は波打ち際に立ち、水平線を見つめています。
健吾はアオイの顔を見上げ、少し真剣な表情で言いました。「お母さん、本当にこれで終わり?」
アオイは健吾の頬を優しく撫でながら、悲しげに、しかし決意に満ちた微笑みを浮かべます。「うん、終わり。もうマサヤなど誰にも邪魔されない所へ行くの。」
健吾はアオイの首に腕を回し、顔をうずめます。「お母さんと一緒なら、どこへ行っても怖くないよ。」
アオイはその言葉を聞いて、思わず健吾を強く抱きしめました。震える声で、「健吾…!」とだけ呟き、息子の深い愛情と理解に胸が締め付けられました。
健吾はアオイを見つめて続けます。「僕、お母さん好き。」
アオイは涙を流しながら言いました。「お母さんも健吾大好き。」
健吾はアオイの涙を不思議そうに見つめます。「お母さん、泣かないで。僕、悲しくないよ。さっき(人気のない場所で)話してくれたこと、分かったよ。」
アオイは涙を拭い、健吾に微笑みかけます。「よく理解してくれたね。ありがとう…」
健吾は続けます。「お母さんと一緒に海にどこまでも深く沈んで行くのはとても嬉しい。これで二人運命を共にできる。もう思い残すことはない。」
その言葉を聞いたアオイは、健吾への感謝と、ようやくこの苦しみから解放されるという安堵感から、再び目から涙がこぼれ落ちるのを感じました。彼女は健吾の温もりを胸に刻みつけるように、深く息を吸い込み、目を閉じました。
波の音が、静かに二人を包み込みます。
健吾がアオイを見上げて言いました。「お母さん、行こう。」
アオイは健吾の手をしっかりと握りしめ、「地上界、さようなら。」と言いました。
健吾もまた、「うん、さようなら。」と小さく頷きました。
アオイは頷き、健吾の手をしっかりと握りしめます。健吾は8歳か9歳で自分の足で歩くことができます。二人は手をつないだまま、ゆっくりと海の中へと足を進めていきます。海水が衣服を濡らし、重みを増していきます。
波が二人を覆い始めるその瞬間、アオイは健吾をしっかりと抱きしめながら、穏やかな笑みを交わしました。そこには恐怖や後悔の念はなく、ただ深い愛情と、二人きりになれた究極の幸せに満たされていました。健吾もまた、アオイに微笑み返します。
二人はお互いに微笑みを交わしながら、そのまま頭まで海へと深く沈んで行きました。青い空の下、静かに、そして深く、二人の運命は一つになりました。
※自分が健吾の立場なら、生き延びようと思って逃げ脱すでしょう。本当に勇気のある親子でした。
コメント、ありがとうございます。
「GoogleのAIでコメントした返事」とのことですが、この欄に適してるのかよくわかりませんけれど……。
知的障害者は外国旅行をしたり、車の運転をしたり、洋楽(クラシックも含む)を聞いたり、洋画を見たりする人は少ないような気がする。自閉症ぐらいならば、健常者に比べると少ないような気もするが知的障害者程ではではないみたいだ。自分が見聞きした経験から。自閉症は、洋楽聞く人は多いが洋画を見る人は少ないようだ。自分は、父が運輸省航空局に勤めていたため、外国にただ又は割引を普通の人より効かせて行かしてもらった。全部ツアーで。1回目は2月の寒いときに厚着をして、中国の上海と北京に行った。ただで。2回目は8月にオーストリア・リヒテンシュタイン・スイスへ。割引聞かせて。3回目は広告で応募して当たってスペインツアー。合計3回言った。2・3回目の時、父は成田空港の部長で普通の人が入れない所へ入って自分を送り迎えしてくれた。そんな話を知人にするとかっこいいと言われたことも。母は音楽好きな人は英語がうまいと言うそうだ。その当時、自分は英検3級持っており、今は2級も。2回目のツアーでウィーンにも行った。以前、イメージ曲として、ファーストシーンに五木ひろしの「夜明けのブルース」(キャバクラ)、前半シーンにマドンナの「ギャンブラー」(マサヤ)、ラストシーンにグリーグの「朝」(水平線の朝日)が合うと思います。と述べた。ラストの後のアオイと健吾もきっと同じようなイメージで聞いているだろう。又、アオイはエルトン・ジョンの「恋人たちの酒場」からは以前のキャバクラを思い出したり、エア・サプライの「夜明けのふたり」からは自分たち母子の地上界最後の朝を思い出したのでは。マドンナの「ラ・イスラ・ボニータ~美しき島」は自分たちがいる世界を「美しき世界」に例えて。自分の概念として、米映画「卒業」のラストシーンは主人公が昼間明るい教会で目立つように花嫁を奪って逃げたのに対し、「遠いところ」のラストは夜目立たないようにこっそり子供を奪った。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は主人公がテロからマシンで逃げるとき、救命胴衣らしきものが反動で自分に被さったままタイムスリップ。父親を使い走りにした連中に陸でこんなものつけてあほかと言われた。一応自分も自閉症と言われるので、そんなシーンを思えば「気違いも天才も紙一重」かな。2作目は未来のビフがスポーツ年間を盗んで賭けでぼろもうけをして世界がおかしくなったので年間を取り返した。3作目のラストに博士は「未来は自分で作る」と言った。地上界で未来のなかった自分たちにも感動したことだろう。アオイはその映画を見て、怠け者で恩知らずのマサヤを思い出しただろう。自分がアオイなら「金稼ぐ能力なければ子供の世話など簡単なことぐらいし、博打はやめ、酒も控えめにしたらどうだ!」と慈悲の言葉で相手の様子を見る。それでも変わらないだろうけど。何かの理由により陸で救命胴衣を着けている人を見たら、自分たち母子の地上界最後と対比すると考えるだろう。自分たち母子は行き場がなく地上界を去ったのに対し、陸でそんなもの装着するのは何としても天寿を全うする強い意地があるとか。マサヤは自分に言わせれば酒博打をやめられない気違い障害である。出来れば義母に頼んで精神科に行かせればと思った。さもないとアオイがいくら働いても金が足りない。こんな人には車の運転や外国旅行は無理だと思う。自分の楽しみは殆ど金を使わない。たまのコンサートやミュージカルなど催物で、あと、外国旅行など。洋楽聞くか洋画を見るかは微妙なとこだ。地上界で体験出来なかった四季・学校・スポーツ(球技など)、鉄道に乗ることなど母子で体験出来ればとも提案した。野球やバレーボールは天使たちも一緒に、テニスは健吾・アオイ・海音の誰かが審判をなどと。カラオケでは、自分たちが行く余裕もなかった沖縄の港を見ながら五木ひろしの「霧の出船」を、あまりいい思い出はないけど沖縄を見ながら五木ひろしの「ふるさと」を、沖縄が平和になり人々の暮らしがよくなることを願って佐良直美の「フラワー・フェスティバル」の歌詞を「広島」から「沖縄」に変えて、健吾がアオイを見つめながら、リッキー・ネルソンの「You Are The Only One」や田中星児の「マイ・マイ・マイ」と「ジャスト・ハッピー・デイ」を地上界からニライカナイへの旅をイメージして、アオイが健吾を見つめながらニライカナイのイメージとして佐良直美の「世界は二人のために」を歌っているだろう。ハニーシックスの「今夜はオールナイトで」などを二人でデュエットしているとも想像出来る。デュエットの楽しみも最高。
コメント、ありがとうございます。
『卒業』のラストはハッピーエンドに見えて、同時に微妙なものも感じさせましたね。『遠いところ』のラストも同じように、曖昧なものを含んでいるということですかね。