『コーポ・ア・コーポ』 ぼちぼちのニュアンス

日本映画

原作は岩浪れんじの同名漫画。

監督は『星降る夜のペット』などの仁同正明

物語

大阪の下町にある安アパート「コーポ」には、家族のしがらみから逃げてきたフリーターの辰巳ユリ、複雑な過去を背負い女性に貢がせて生計を立てている中条紘、女性への愛情表現が不器用な日雇い労働者の石田鉄平、人当たりは良いが部屋で怪しげな商売を営んでいる初老の宮地友三ら、さまざまな事情を抱える人たちが暮らしている。ある日、同じくコーポの住人である山口が首を吊って死んでいるのを宮地が発見する。似たような境遇で暮らす人間の死を目の当たりにした住人たちは、それぞれの人生を思い返していく。

『映画.com』より抜粋)

絶妙な距離感?

大阪の下町にある安アパート「コーポ」を舞台にしたオムニバス作品だ。一応、四人の主人公らしき人物がいて、それぞれのパートに分かれてもいる。ただ、具体的に何か大きな問題が生じたりすることもなく、のんびりとした日常が切り取られた形の作品となっている。

それぞれ家賃は何とか払っているはずで、仕事はしているはずだけれど、そんな雰囲気はあまり感じられない。ユリ(馬場ふみか)はネコと遊んでばかりだし、安アパートに似つかわしくないスーツ姿の中条(東出昌大)もいつも家にいる。日雇い労働者の石田(倉悠貴)だけは仕事に行く場面はあるけれど、初老の宮地(笹野高史)も部屋であやしげな商売を細々とやっている以外は小銭を拾ったりして何とかやりくりしているらしい。

昔ながらの長屋生活みたいな雰囲気がある。それでいてドライに感じられる部分もある。人情噺ならみんなで助け合いをしそうなものだけれど、本作では金を借りに来た住人の山本はみんなにあっさりと断られることになったらしい。

「コーポ」にはいろんな人がいる。それぞれに事情があって、そんなところに流れてきたということなのだろう。いつもタバコを交換しようとせがむおばちゃん(藤原しおり)がいて、そんな変わり者でも「コーポ」では受け入れられている。石田には暴力癖があるけれど、それに対して取り立てて咎める人もいない。それぞれが勝手にやっているという距離感が気持ちいい場所なのかもしれない。

(C)ジーオーティー/岩浪れんじ

訳アリの住人たち

「コーポ」は、風呂なしのトイレ共同という安アパートだ。時代がいつなのかはよくわからない。携帯電話のことは話題になるけれど、誰もそんなものを使っていないのだ。現実世界ではすでに販売が終了したらしい「わかば」というタバコが出てきたりもするから、ちょっと前の話なのかもしれない。「コーポ」の住民は誰もテレビやラジオを持っていないらしく、外からの余計な情報が入ってこない不思議な空間となっているのだ。

土足厳禁らしい二階の廊下なんかはピカピカに光っていて清潔感がある。登場人物の住人たちも意外と小綺麗で、汗臭さみたいなものはほとんど感じられない。それでいてどこか訳アリで肝が座っているように見える。冒頭近くで住人の山本が自殺している姿が発見されるけれど、みんなあっさりとそれを受け止めて騒ぐこともないからだ。

人のいい石田だけは山本に金を貸さなかったことを気に病んだりするけれど、ほかの人はそんなことは気にしている様子もなく、山本が残していた家財道具を狙っていたりする。そんな態度がどこかで訳アリの雰囲気を醸し出しているのだ。

『コーポ・ア・コーポ』では、それぞれの内面に深く踏み込むことはない。ユリは母親(片岡礼子)との関係に問題があるようだ。家族のしがらみが面倒になって、そこから逃げるようにして「コーポ」に流れてきたらしい。それでも母親との間に何があったのかは語られることはないのだ。みんながそれぞれに何かを抱えている。「生きていれば色々あるさ」ということなのだろう。

(C)ジーオーティー/岩浪れんじ

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底辺のリアルとクズの気持ち

石田は、普段、会うこともないようなお嬢様の高橋(北村優衣)と知り合うことになるのだけれど、なぜか彼女から距離を取ることになる。自分には似つかわしくないような種類の女性だと思ったかららしい。保育士になりたいと思っていた高橋に対し、石田は「来週、どんなことをしているのか」ということすら考えたこともないのだ。

そのことはユリも同様で、高橋に「やりたいことがあるなんて凄い」と驚いたりもしている。ユリも家族のしがらみから逃げるという消極的な動機ばかりで、積極的に何かをやりたいなんてことは考えたことがなかったのかもしれない。このあたりに底辺のリアルみたいなものが感じられたりもするような気もした。

(C)ジーオーティー/岩浪れんじ

一方で中条はいいところのお坊ちゃまだったらしい。かつてはひとかどの人物になるつもりが、今彼がやっていることは女に貢がせることだけだ。本作は登場人物の内面には踏み込まないと書いたけれど、唯一、中条の本心らしきものが語られる場面がある。

中条はユリに耳を塞いでいてくれと言いながら、心の内を語ることになる。中条自身も女に貢がせることを卑下してもいて、その罪悪感が彼に貢いでくれる女に嘘をつかせることになる。女が貢ぐことを正当化できるようにするための嘘というわけだ。彼の中には自分にはこんなことしかできないという諦めみたいなものがあるのかもしれない。だからせめてもの償いとして彼は嘘をつくことになるのだ。

本作において、登場人物の内面に踏み込んだのはこの部分くらいだろう。宮地はアパートの一室でこっそりとストリップ小屋みたいなことをやっているけれど、なぜそんなことをやっているのは明かされることはない。また、踊り子の女性も子どもまでいる主婦なのになぜかそんなことをしていて、その理由も明らかにされることはないのだ。生きていればいろんなことがあるし、ぼちぼちやっていくしかないということらしい。

(C)ジーオーティー/岩浪れんじ

ぼちぼちのニュアンス

本作における視点人物にも感じられ、一番「コーポ」の住人を冷静に見つめているユリ。ユリを演じた馬場ふみか『恋は光』のセクシーなキャラクターを演じていたけれど、本作では金髪のスカジャンという姿だ。それでも違和感なく正反対の役柄に成りきっていたと思う。

お嬢様の高橋を演じた北村優衣も、『ビリーバーズ』の役柄とはまったく印象が違う。というよりも『ビリーバーズ』の時は服装は宗教団体のユニフォームという特殊な格好か、あとはほとんど裸だったわけで、そっちに目を奪われていたということなのかもしれない。本作ではいかにもいいところのお嬢様というかわいらしい表情を見せてくれる。

東出昌大が演じた中条はクズなのかもしれないけれど、クズはクズなりに思うことはあるらしい。演じた東出自身も私生活では問題があったのかもしれないけれど、中条みたいにある種非現実的なキャラクターを説得力を持って演じられる人というのは貴重なのだろうと思う。

本作は全体的に小綺麗にまとまり過ぎている気もするけれど、ソツはない感じもする。原作がどこまで続いているのかはわからないけれど、このやり方なら続編だって可能だという気もする。大阪で言うところの「ぼちぼち」のニュアンスはよくわからないけれど、そんなふうにしか言えないことってあるのだろう。そんなニュアンスみたいなもので通じ合う映画だったと言えるかもしれない。

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