『英雄の証明』などのアスガー・ファルハディの監督第2作。
日本では劇場未公開だったアスガー・ファルハディの初期の3作品がWOWOWオンデマンドにて配信されていたので……。
物語
16歳のとき、恋人と心中を図って自分だけ生き残り、殺人罪で死刑宣告を受けた少年のアクバル。少年院で18歳の誕生日を迎え、仲間の少年たちから祝福を受けたアクバルだったが、それは同時に死刑の執行が可能となる年齢に達したことも意味し、思わず彼は嘆き悲しむ。それを知った親友のアーラは、少年院を出所すると、アクバルの死刑を取り下げてくれるよう、彼の姉フィルゼーとともに、死んだ娘の父親のもとへ嘆願に出向く。
(WOWOWより抜粋)
ファルハディの初期3作品
ファルハディの初期の監督作品がWOWOWにて配信されている(Amazon Prime Videoでも観られるらしい)。第1作の『砂塵にさまよう』と第3作の『火祭り』、どちらも良かったけれど、今回は第2作の『美しい都市』を取り上げたい。
ファルハディの作品はとても脚本が巧みだ。『セールスマン』という作品の時にも書いたけれど、登場人物を「あれかこれか」という葛藤へ追い込んでいくところがうまいのだ。これは言い方を変えれば、「ジレンマに陥る」とも言えるだろう。ジレンマというのは二つの選択肢の間で板挟みになるということだ。
本作の主人公もどちらも選びようがないような立場に追い込まれていくわけだが、こうした状況はファルハディの過去の作品『別離』や『セールスマン』などでも繰り返されることになるわけで、そうした状況の原型が本作にはあるということにもなる。
『美しい都市』は2004年の作品で、タイトルの「美しい都市」というのは、主人公がいた少年院のある町の名前を指しているらしい。
主人公はアーラ(ババック・アンサリ)という少年だ。彼は親友アクバルのために、その死刑を取り下げてもらおうと奔走することになる。舞台はイランだ。イランの死刑制度のことは詳しく知らないけれど、被害者遺族の一存で死刑が執行されたり取り下げられたりすることになっているようだ。
だからアクバルのことを救うためには、被害者の父親アボルガセム(ファラマルズ・ガリビアン)に死刑を取り下げてもらうしかないということになる。しかし被害者側としては当然のことながら、娘を殺したアクバルのことを許すことはできないわけで、事は簡単に行くわけもないということになる。
アーラは少年院でアクバルと知り合ったということなのだろう。そんな人間が突然被害者の父親に会ったとしても追い返されるのがオチというわけで、彼はアクバルの姉フィルゼー(タラネ・アリドゥスティ)にアボルガセムとの接触を頼むことになる。しかし、フィルゼーは2年の間に数限りなく歎願に訪れていて、その度に断られていたらしく、やはりすぐには事は済まないことになる。
死刑に必要な賠償金?
被害者の父親アボルガセムは頑固者に見える。娘を殺されているわけだから当然のことでもあるわけだが、そもそもアクバルが彼の娘を殺すことになってしまったのは、二人の結婚が許されなかったことが原因らしい。アクバルは無理心中を図り、結局、自分だけが生き残り犯罪者となってしまったというわけだ。
アボルガセムには奥さんと障害がある娘がいる。この奥さんは後妻で、前妻は早くに亡くなったらしい。そして、アクバルが殺してしまった娘は、その前妻の忘れ形見ということになる。アボルガセムは2年経った今でも黒い服に身を包み、喪に服しているかのような振る舞いで、亡くなった娘の報復としてアクバルが死刑になることを望んでいる。
そんなところへフィルゼーやアーラがやってきても、頑固者のアボルガセムがすんなりと受け入れるはずもない。それどころかアボルガセムは死刑を直ちに執行するべく役所に働きかけることになる。
ここでイスラム社会の独特なルールが重要な役割を果たすことになる。死刑をすぐに執行させたいなら賠償金が必要ということになるのだ。劇中で詳しく説明があるわけではないけれど、台詞の中でわかることもある。
コーラン(クルアーン)には「目には目を」という言葉がある。この言葉は暴力的にも聞こえるけれど、実は「同害報復」を定めたもので過剰な報復のほうを戒めたものということになる。しかし、「同害報復」よりももっと望ましいのは相手を赦すことだともされているらしい。だから死刑の執行にはそれなりの障害が設けられているということなのだ。
さらにイスラム社会では男性への賠償金と女性への賠償金には差があり、女性は男性の半分ということになっているらしい。殺されたのは女性で、その父親アボルガセムが死刑の執行を求めているわけだが、その相手は男性というわけで差額が必要になるという理屈らしい。とにかくアボルガセムとしても金がなければすぐには死刑を執行させることはできないということになる。
ふたつのジレンマ
アクバルの姉フィルゼーと親友アーラとしては、死刑を取り下げてもらいたい。一方でアボルガセムはそんな二人の存在が面倒で、一刻も早い死刑を望んでいるということになる。
フィルゼーとアーラとしては、単に頭を下げるだけではダメで、アボルガセムに対して死刑を取り下げるほどの交換条件を提示する必要がある。ここでアボルガセムの奥さんの働きかけもあり、アーラたちはアボルガセムの障害を持つ娘の手術費を出すという選択肢を提示する。アボルガセムが死刑を取り下げてくれるならば、アーラたちが娘の手術費を負担するというのだ。
ここでジレンマに陥っているのはアボルガセムということになる。亡くなった娘の報復のために死刑を選ぶか、障害を持つもう一人の娘のために死刑を取り下げることを選ぶのか。アボルガセムはその板挟みの間で揺れることになるわけだが、本作ではそのジレンマがアーラのジレンマへと移行していくことになるのだ。
※ 以下、ネタバレもあり!
第三者から当事者へ
このジレンマについて詳しく触れることは避けるけれど、アーラの立場が第三者から当事者へと変わったとは言えるかもしれない。
アーラはそのジレンマに陥ると、自分では決断することができないとして、少年院の先生の助言を求めることになる。この先生の言葉がとても印象に残る。
先生はアクバルが恋人を殺してしまった出来事を例に挙げ、アーラにどうすれば良かったのかと訊ねることになる。アーラは第三者として至極真っ当な結論にたどり着くけれど、当事者のアクバルはそんなふうには思えなかったのだ。第三者と当事者では“何か”が違ってくるということだ。
アーラはアボルガセムに対して死刑を取り下げてくれるように求めた。その時にはアーラは頑固なアボルガセムのことを理解できなかったかもしれない。ところがアーラは、アボルガセムと同じような立場に追い込まれることになってしまうのだ。アーラは当事者となって初めて、アボルガセムの苦悩を思い知ることになったのかもしれない。
最終的にアーラはどちらを選ぶことになるのだろうか。劇中にはその答えはない。余韻のある終わり方は『別離』のラストを思わせて、とても素晴らしい出来栄えになっていたと思う。
フィルゼーを演じたタラネ・アリドゥスティは、『火祭り』にも出演しているし、ファルハディの出世作『彼女が消えた浜辺』にも出ていたファルハディ作品の常連さんらしい。下世話な話ではあるけれど、タラネ・アリドゥスティがとても美しかった。それから『火祭り』の主演としてクレジットされているヘディエ・テヘラニという女優さんもとてもキレイな人で、イラン映画に出てくる女優陣は軒並み美しくて、単純に観ていて眼福だった。
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