『白鍵と黒鍵の間に』 「の間に」は何があるの?

日本映画

原作は現役のジャズミュージシャンで、エッセイストとしても活躍する南博『白鍵と黒鍵の間に -ジャズピアニスト・エレジー銀座編-』

監督は『ローリング』『南瓜とマヨネーズ』などの冨永昌敬

物語

昭和63年の年の瀬。夜の街・銀座では、ジャズピアニスト志望の博(池松壮亮)が場末のキャバレーでピアノを弾いていた。博はふらりと現れた謎の男(森田剛)にリクエストされて、“あの曲”こと「ゴッドファーザー 愛のテーマ」を演奏するが、その曲が大きな災いを招くとは知る由もなかった。“あの曲”をリクエストしていいのは銀座界隈を牛耳る熊野会長(松尾貴史)だけ、演奏を許されているのも会長お気に入りの敏腕ピアニスト、南(池松壮亮、二役)だけだった。夢を追う博と夢を見失った南。二人の運命はもつれ合い、先輩ピアニストの千香子(仲里依紗)、銀座のクラブバンドを仕切るバンマス・三木(高橋和也)、アメリカ人のジャズ・シンガー、リサ(クリスタル・ケイ)、サックス奏者のK助(松丸契)らを巻き込みながら、予測不可能な“一夜”を迎えることに・・・。

(公式サイトより抜粋)

昭和の終わりの銀座の街で

本作はジャズピアニストの話というのだが、冒頭はキャバレーの場面となっている。どんな成功者もすぐには表舞台に立てるわけもなく、下積みの時期があるというわけだ。

キャバレーがどんな場所であるのか詳しく知るわけではないけれど、ジャズを聴くような環境ではないことは確かなようで、主人公の博(池松壮亮)はいかがわしい姿の女性の踊りのために伴奏をやったりしているのだ。そんな場所ではジャズっぽい演奏はご法度らしく、博は訛りの強いバンドマスターらしき男にもダメ出しされることになる。

ところがその日、ある客(森田剛)のリクエストに応え「ゴッドファーザー 愛のテーマ」を弾いたことが銀座界隈で問題になってしまう。銀座ではその曲をリクエストしていいのは、ただひとりしかいないのだという。そして、それを弾いていいのも、ただひとりだけなのだとか。リクエストしていいのは銀座を仕切っているヤクザである熊野会長(松尾貴史)であり、それを弾いていいのは熊野お気に入りの南(池松壮亮、二役)というピアニストだった。

今では暴力団排除条例でそんな連中は排除されているのだろうけれど、『白鍵と黒鍵の間に』の時代は昭和の終わりだ。バブル時代の真っただ中というところで、ピアニストの演奏にも万券が次々と差し出されるような時代だったのだ。

※ 以下、ややネタバレあり!

(C)2023 南博/小学館/「白鍵と黒鍵の間に」製作委員会

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ハチャメチャな手法?

ジャズを聴いたことがないわけではないけれど、詳しく知っているわけでもないし、何となくジャズっぽいということはわかるけれど、即興演奏というものがどんなふうにして成り立つものなのかもよくわからない。

そんなジャズのイメージとしては「大人っぽくてカッコいい音楽」といった感じだろうか。村上春樹とかの本の中のイメージもあるような気もする。『セッション』では「無能なやつはロックへ行け」という言葉が掲げられていたけれど、どこかで「シャレ過ぎていてちょっと近寄りがたい」イメージもあるのかもしれない。

本作の予告編からしても、そんなカッコいいジャズのイメージに溢れているのだけれど、実際の本編はどちらかと言えばコメディ寄りだ。そもそも奇妙なのは、本作では池松壮亮が二役を演じているところだろう。その二役は“”と“”というキャラクターだ。原作者は“南博”というわけで、どちらも南博の分身ということになる。ただ、片方は駆け出しでキャバレーで修行中であり、もう一方はクラブで演奏していて銀座のボスに認められるほどの名声を勝ち得ている。

これはどういうことなのか? ネタバレしてもあまり問題はないと思うので言ってしまえば、本作では駆け出しの南博と、その3年後の南博が同じ空間に存在するというSFのような設定となっているのだ。

そもそも博がキャバレーで演奏し始めたのは、師匠である宅見(佐野史郎)の助言からだった。ジャズをやりたいなら「まずはキャバレーで弾け」と宅見は言う。かつてはキャバレーには芸術家たちが集まっていたというのだ。同じく宅見の生徒である先輩の千香子(仲里依紗)に言わせれば、それは「昔の話」ということになるのだが、博は素直に宅見の教えに従ってキャバレーで働くことになったのだ。しかし博はジャズっぽい音楽を毛嫌いしているキャバレーを去ることになる。

一方で3年後の南はクラブで働いている。それなりに経験も積んだ南は、銀座での作法も身に付けている。それでもクラブでもやはり「ミュージシャンは花瓶みたいなもの」という扱いであり、「本当にやりたいのはジャズなのに」という感覚も拭えないわけで、南はどこかで行き詰りのようなものを感じ、銀座を飛び出してボストンに留学することを考えているのだ。

こんなふうに南博という人物の、2つの時代の姿を同じ日の中で描くという強引な設定なのだ。それによって次第に成長していくのではなく、変化による差異が際立つことになっている。

冨永監督は前作『素敵なダイナマイトスキャンダル』ですでに年代記(クロニクル)はやってしまったものだから、同じことをやってもつまらないということだったらしい。今回は別のやり方でやってみたというのは、様々な語り口を持つ冨永監督らしいと言える。

(C)2023 南博/小学館/「白鍵と黒鍵の間に」製作委員会

「の間に」は何があるの?

タイトルは「白鍵と黒鍵の間に」だ。本作は様々な「間」が出てくる。冒頭で示されるのはビルとビルの間であり、それはラストにも再び登場することになる。それから主人公はキャバレーからクラブへと移行するわけで、キャバレーとクラブの間ということもある。さらに言えば、本作は“博”と“南”の間にあるもの、つまりはその3年間の差異を描くことにもなる。

原作においては「白鍵と黒鍵の間に」ということの意味は、どんなふうに書かれているのか。ちなみに原作者の南博という人のことは今回初めて知った。この原作は「試し読み」が可能なのでちょっとだけ読んでみたけれど、それだけでもとてもおもしろい本であることはわかる。

映画に出てくる「ゴッドファーザー」のエピソードは、実際に南博が銀座で体験したことらしい。映画の中の熊野はちょっとコメディ寄りのキャラでもあり、それほど怖さは感じないけれど、銀座の大物ヤクザと相対するというのは滅多にない怖い体験ということになるだろう。

ただ、原作は銀座のおもしろ人物たちの話だけではなく、ジャズという音楽についてのエッセイとなっている。もともとはクラシックのピアノを習っていた南博が、どうしてジャズという音楽に惹かれるようになったのかというあたりから始まる音楽論としてもおもしろいのだ。

(C)2023 南博/小学館/「白鍵と黒鍵の間に」製作委員会

「白鍵と黒鍵の間に」ということの意味合いも、この「試し読み」でもちょっとだけわかることになっている(全体を読んでないから実際はもっと別の意味もあるのかもしれないけれど)。

音楽や芸術はイメージが大事だ。それでも、自分の頭の中にあるイメージを表現することは難しい。そのイメージに近づくためにアーティストは煩悶することになる。ピアニストにとってのそれが「白鍵と黒鍵の間にある音」ということになる。ピアニストはその音を無意識に求めている。そんなふうに南博は記している。

この「白鍵と黒鍵の間にある音」とはどんな音なのだろうか。実際のピアノの白鍵と黒鍵の間には何もないわけで、それはありもしない音を求めているということにもなるのかもしれない。アーティストというものはそんな“何か”を探し求め続けているいる人ということなのだろう。もしかしたらジャズの即興というものも、そうした試行錯誤のひとつとしてあるのだろうか。

原作にはほかにも南博が影響を受けたジャズマンの名前も色々と登場するし、ジャズを聴くための参考になる本でもあるのだろう。しかしながらそんな部分を映画化してもつまらないわけで、本作ではゴッドファーザーのエピソードみたいな銀座のおもしろ人物が登場するコメディとしてまとめられているということになる。

それでも南がデモテープを作るために、客を無視して好き勝手な演奏を始める部分もある。ここではクラブのバンマス・三木(高橋和也)、アメリカから来たシンガー・リサ(クリスタル・ケイ)、キャバレー時代からの仲間であるサックス奏者・K助(松丸契)なんかと一緒に、カッコいいジャズを聴かせてくれる。池松壮亮はかなりピアノを練習したようで、本作で使用されている「ゴッドファーザー 愛のテーマ」の音源は実際に池松が弾いたものとなっているらしい。

映画のラストはビルとビルとの間で終わる。そこでは穴倉のような場所から抜け出せなくなった“博”と“南”が遭遇することになるけれど、これは一体どういう意味だったんだろうか? ジャズなんてことにハマるとロクなことはない。そんなふうな意味に感じられなくもないわけだけれど、ワチャワチャしていて楽しそうではあった。

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