『わたし達はおとな』 映画だから出来ること

日本映画

「劇団た組」の主催者である加藤拓也が脚本・監督を担当した長編デビュー作。

『寝ても覚めても』『愛がなんだ』などを手掛けたメ~テレと制作会社による「(not) HEROINE movies」の第1弾作品。

物語

大学でデザインの勉強をしている優実(木竜麻生)には、演劇サークルに所属する直哉(藤原季節)という恋人がいるが、ある日、自分が妊娠していることに気付く。悩みながらも優実は直哉に妊娠と、ある事実を告白する。直哉は将来自分の劇団を持ちたいと願っていた。現実を受け入れようとすればするほどふたりの想いや考えはすれ違っていく…。

(公式サイトより抜粋)

望まない妊娠

最初のほうで優実(木竜麻生)と直哉(藤原季節)が置かれている状況はほぼ説明される。冒頭、優実はトイレで吐いている。その後、優実が妊娠検査薬で検査してみると、その結果は陽性で、優実は直哉にそのことを告白することになる。

優実が「怒らないで聞いてね」と前置きをしているのは、直哉が時に怒りやすいということでもあるのだが、それに加えてお腹の子供が誰の子供かわからなかったからだろう。ふたりは一時別れていた期間があったらしく、お腹の子が直哉の子供かどうかはわからないというのだ。

学生同士の半同棲で妊娠なんてことがよくあるのかどうかはわからないけれど、さらに父親が誰なのかがあやしいとなると修羅場となりそうな設定だ。それでも直哉はうまく自分を抑え、その場を取り繕うことになる。考える時間が必要だとか何とかで……。

そこから本作は、ふたりが出会ってどんなふうにそこに辿り着いたかという過去と、その妊娠発覚後のふたりの様々な葛藤といさかいが時系列を無視して描かれていくことになる。

(C)2022「わたし達はおとな」製作委員会

ふたりの出会い

ふたりはまだ学生だ。優実は実家が裕福らしくメゾネットタイプのマンションに住んでいて、その家賃は父親が払っているらしい。そこに転がり込んでいる形の直哉は演劇の世界での成功を夢見ている。ふたりが知り合ったのは、直哉の演劇の公演チラシを優実が作成することになった時だ。そうした出会いがあり、一度の別れがあり、ヨリを戻した後に妊娠が発覚したというわけだ。

その他の過去の出来事も並行して描かれる。かつて優実は大学の仲良し4人組とつるんでいるのだが、その頃の4人組のうち2人は処女だったらしい。それから時が流れ、といってもまだ在学中という設定だから数年だけれど、その2人とも処女を卒業することになり、優実は子供まで授かることになる。

優実は妊娠発覚後に母親の死とも遭遇する。当然葬式などのために田舎に帰ることになるのだが、優実は友人にはそのことを話せても、直哉には秘密にしている。経済力のない直哉のことを結婚相手としてはまだ考えられなかったということかもしれないし、そもそもまだ学生ということもあって妊娠という事実に戸惑うばかりだったということなのかもしれない。

(C)2022「わたし達はおとな」製作委員会

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現在時の諍い

現在時では、産んで自分たちの子供として育てるか、DNA検査をして子供の父親が誰か確認するか、そうしたことが話し合われることになる。直哉は妊娠を聞いた時はうまく取り繕うことができたが、その後、次第にボロが出てくる。

最初は自分の子供ではない可能性を聞かされてもそのことには触れず、出来た子供について責任を取ることのほうが大事という態度を示す。それでもそれは自分の体面を保つためでしかなく、次第にDNA検査を要求するようになるし、言い争いの中でヒートアップしてくると隠されていた本音が出てしまうのだ。

直哉は演劇の世界で生きていきたいのだ。そのためには家庭や子供は邪魔でしかないのだろう。しかも直哉は元カノ(山崎紘菜)との間で一度堕胎も経験しているというエピソードまで挿入される。その時は元カノが包丁を持ち出す騒ぎになるのだが、つまりは直哉は同じ過ちを繰り返しても懲りない人間だということでもある。

一方の優実はちょっと流されやすいタイプなのだろう。直哉と別れていた間の出来事は、直哉にフラれたことがショックだったという言い訳もできるのかもしれないが、優実にはストーカーみたいな将人(桜田通)という男がいて、その彼からのプレゼントを受け取ったりもしているのだ(将人が子供の父親なのかと思ったら違うらしい)。かといって純朴すぎる将人に気持ちが揺らぐということもなく、顔が好きだという直哉について友人にノロケてしまい、ダメ男に引っかかってしまうほどの浅はかな女性と言えるかもしれない。

これはどちらが悪いとかの問題ではないのだろう(心情的には直哉はクソだと思うし、望まぬ妊娠をさせられたユミに同情するけれど)。ふたりの言い争いを追うのはなかなかキツイかもしれないけれど、最後のシークエンスは緊張感があって良かったと思う。

(C)2022「わたし達はおとな」製作委員会

映画だから出来ること

脚本・監督の加藤拓也は演劇界の人らしいのだが、まだ28歳という年齢ながらかなりの成功を収めている人のようだ。最近はテレビドラマの脚本なども書いている。『わたし達はおとな』は冒頭のカメラからして優実と直哉の日常生活を覗き見たような話となっているのだが、『俺のスカート、どこ行った?』というテレビの連ドラでは全然毛色の違うものを書いているようだ(ちょっとだけテレビを観ただけだけれど)。

本作はそんな才能豊かな若者が映画という違う媒体で、映画だから出来る可能性を探って様々なチャレンジしている作品のように思えた。演劇と映画を両方手掛ける人もいなくはないが、ふたつは似ている部分もあるのかもしれないが、やはり大きく違うところもあるのだろう。その違いのひとつがカメラの存在なのだろう。加藤監督はこのインタビューでは「カメラの役割を再定義した」と語っている。

本作はスタンダードサイズで始まるのだが、いつの間にかビスタサイズになっていたようだ(私自身はいつ変わったのかわからなかったのだが)。現在と過去で画面のアスペクト比を変えていたのかもしれない。これも映画だから出来る独自の表現ということになるだろう。

まだ、本作ではあまりクローズアップは多くない。対象のごく近くに迫れるクローズアップは、これまた映画的手法だと言える。ただ、本作は対象から一定の距離を保っている場面のほうが多い。これは覗き見的にふたりを捉えるという趣旨からなのだろう。

(C)2022「わたし達はおとな」製作委員会

そして、特徴的だった時間軸のシャッフルは、場面転換がある程度限定されることになる演劇では無理な手法なんじゃないだろうか。本作では妊娠発覚後に諍いとなりいたたまれない現在の状況と、過去の出会いの場面や4人組の他愛ないやり取りなどが対比するかのようにつながれていくことになる。演劇と映画の違いのもうひとつは編集だということを意識しているということなのだろう。

ラストのシークエンスもそうした手法で構成されている。この優実と直哉の別れのシークエンスは、撮影は長回しで行われたとされる。実際には、途中から2階へと場面が移行したりもするのだが、撮影は一気に行われたのかもしれない。しかし、本作ではその長回しの場面に、過去の場面が挿入されるのだ。

際限なく続く言い争いの合間に、突如としてヨリを戻した頃のふたりのにこやかな姿が挿入される。かつては楽しい時もあったのだ。しかし、今ではそれは過去のことになり、ふたりは互いに傷つけ合い、最後は別れを選択することになる。「別れ」があるということは、その前には親密だった時間があったはずで、これは当たり前だけれど、「別れ」の時には忘れてしまいがちな過去の時間を編集によって見せてくれているのだ。

エンドロールでは直哉から鍵を返され、ひとりで残された優実が朝食を作り出す。そして、それが終わる頃にはスクランブルエッグとトーストの朝食にかぶりつくことになるのだが、優実は今回のゴタゴタによってちょっとは「おとな」になったということだったのだろうか。

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