監督・脚本は齊藤勇起。これまで井筒和幸や岩井俊二などの監督の下で助監督をやってきた人で、今回が初の監督作品。
物語
何者かに殺された14歳の少年、正樹。彼の遺体は町の中心のある橋の下で発見された。同級生の春・晃・朔は、正樹を殺した犯人と確信した男の家に押しかけ、もみあいになる。そして、男は1人の少年に殺される。彼は家に火を放ち、事件は幕を閉じたはずだったー。
時が過ぎ、刑事になった晃は父の死をきっかけに町に戻り、朔と再会する。ほどなく、ある少年の死体が橋の下で見つかる。20年前と同じようにー。晃は少年の殺害事件の捜査の中で、春と再会し、それぞれが心の奥にしまっていた過去の事件の扉が再び開き始める。
かつての事件の真相は、そして罪と向き合うということとはー。
(公式サイトより抜粋)
20年前の出来事から
14歳の少年が殺される事件が起きる。殺された正樹のサッカー仲間だった同級生、春・晃・朔は3人で犯人捜しをすることになるのだが、ある男の家で正樹のスパイクを見付ける。それによってその男が犯人と確信した3人は、男ともみあいになり殺してしまう。
そんな状況で咄嗟に行動したのは春だった。春はほかの二人を逃げさせ、自分だけでその殺人の罪を被ることになるのだ。春は男の家に放火し、警察に逮捕されることに……。
それから20年が経過する。父親の跡を継ぎ刑事になった晃(大東駿介)は、その父の死をきっかけにして地元に戻ってくる。晃はある事件の捜査をしていて、地元に残って生きてきた春(高良健吾)のことを知る。春は殺人の罪を償った後も地元で生活していて、今では半グレの若者たちを使っていくつかの仕事を動かしている社長となっていた。そして、もう一人の朔(石田卓也)も農家として地元に残り暮らしていた。
3人はあの事件の後、バラバラになり、今に至るまでその出来事については口を閉ざして生きてきたらしい。ところが晃が地元に戻ってきたことをきっかけに、春や朔ともそれぞれ再会することになり、なかったことにしていた過去の出来事と向き合うことになる。
ミステリーの形式だが……
これまで名立たる監督の助監督としてやってきた齊藤勇起監督のデビュー作なのだが、オリジナル脚本でそれに挑んでいるということらしい。設定などで『ミスティック・リバー』を思わせるところはあるのだけれど、異例とも言えるオリジナル脚本でのデビューという点には意気込みが感じられる。
ただ、正直に言えば、ミステリーとしては色々とツッコミどころは多いんじゃないかと思う。少年時代の仲間たちの雰囲気はよかったけれど、大人になってからの謎解きの部分では疑問符が付くところもあったからだ。
とはいえ齊藤監督の意図としては、ミステリーの形式を使ってもっと深いテーマを描こうということなのかもしれない。タイトルがドストエフスキーの『罪と罰』を意識したかのような、「罪と悪」となっているところにもそれが表れている。
齊藤監督はインタビューで「“罪”=“悪”なのか?」ということをテーマに据えたと語っている。法律に違反した行為を“罪”と呼ぶとするならば、一般的に言えば「罪=悪」なのだろうと思うけれど、本作においてはそれほど単純ではないのかもしれない。
※ 以下、ややネタバレもあり!
なかったことにする
本作の主人公は高良健吾が演じた春ということになるだろう。春は少年時代に殺人を犯し、それを償って社会復帰している。ただ、この少年時代の殺人は、直接手を下したのは別人だ。それでも春はその罪を被ることになる。
それというのも春は父親からのDVもあって、「何かをぶち壊したい」といった衝動に駆られてもいたからだろう。そして、春は自分たち3人がやってしまったことを「なかったことにはしない」男ということになるのだろう。
『罪と悪』において繰り返し登場する台詞がこの「なかったことにする」というものだ。舞台となっている田舎の小さな町でもそうしたことがまかり通っているし、多分、世の中全体が様々なことを「なかったことにする」ことでやり過ごそうとしているのだろう。
殺人事件に関わった3人の少年のうち、春だけは自分の罪を償ったけれど、晃と朔はその出来事をなかったことにして生きてきたということになる。ただ、春は刑務所から出た後に、社会的に更生して生きているというわけでもなさそうだ。
春は一応は真っ当な会社の社長に収まっている。それでも社員たちは半グレの若者たちで、春は羽目を外しがちな若者をうまくコントロールしている。仕事としてはお弁当屋や飲食店など真っ当なものなのだけれど、ヤクザ者とも何らかの付き合いもあるらしい。それでもギリギリのところで反社会的勢力とは一線を画しているということなのだろう。
本作の登場人物たちは、善と悪といったように、図式的に割り切れる構図にはなっていないようだ。春についてはすでに記したように白か黒かで言えば、グレーな位置にいる。刑事である晃は正義漢ぶって町の事件を解決しようとするけれど、その経緯で自分の父親が刑事でありながらもグレーな位置にいたことを知ることになる。
そして、今現在、警察組織で晃の父親の立場を引き継いでいるのが、椎名桔平演じる佐藤で、彼もグレーな位置にいる。佐藤曰く、悪いやつらを野放しにするよりも、自分の目に見える範囲でうまく飼い慣らすことのほうが重要で、そのほうが町のためになるということらしい。そして、春も刑務所の中で過ごすことで、警察の犬となり、グレーな立場で生きていくことを選んだということになる。
罪とは何か?
春が罪ということをどんなふうに考えているかと言えば、「罪は自分がそう認識しないと罪にならない」ということになるのかもしれない。この台詞は春の部下が半グレの若者に言った言葉だが、この部下は春に心酔している男で、この台詞も春からの受け売りということになるんじゃないだろうか。この部下はその後にヤクザ者を殺害することになるのだが、これも春の意志に基づいているものと思われる。
春は自分のやっていることを罪とは認識していないということなのだろう。そして、自分がやっていることを正義とは思ってなくとも、間違ったことはしていないと感じているのかもしれない。だから春はヤクザ者のトップである笠原(佐藤浩市)と手打ちのためのやり取りをした時にも、これから自分のやることで笠原に何らかの筋を通したと認めてもらえると考えているのだ。
ただ、春が描こうとしていた“画”というものが見えてこないのが惜しいという気もした。ラストの出来事は春がやろうとしていたことのスタートとしてあるのかもしれないけれど、スタートだけで全体像が見えないのだ。春は自分なりの「“画”を描く」ことが出来れば、笠原にも納得してもらえると踏んでいるわけだけれど、ラストのあの出来事だけでは誰も納得しないんじゃないだろうか?
男っぽい映画で、女性のキャラクターがほとんど登場しないのが印象に残る。春の奥さんだけは出てくるけれど、それ以外はほとんど男たちばかりの映画で、春は久しぶりに再会した晃や朔とハグしたりもするのだが、ハグした手が握りこぶしになっているところがまた男っぽい。
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