『偶然と想像』 あり得たかもしれない別の現実

日本映画

監督・脚本は『ドライブ・マイ・カー』などの濱口竜介

ベルリン国際映画祭では審査員グランプリを獲得したオムニバス。

あり得たかもしれない別の現実

『ドライブ・マイ・カー』の興奮も冷めやらぬうちに濱口竜介監督の最新作の公開だ。都内ではなぜか単館の上映となっていて、私が観た回は「ほぼ満席」だった。

コロナ禍ということもあり満席の映画館というのも久しぶりだし、上映中に何度も笑いが起きるような反応の映画も久しぶりという気がする。『ドライブ』は長尺ということもあって取っ付きにくいかもしれないが、『偶然と想像』は本当に楽しいオムニバスで、何度も観たくなるようなかわいらしい作品になっている。

本作では“偶然”が重要な要素となっているわけだが、濱口監督はインタビューで“偶然”を“不確定性”と言い換えている。現実は確実にそうなるとは言えないということだろう。現実にはAという状況が発生したが、Bとなる可能性もあったということだ。

そんな“偶然”は“想像”を呼び寄せることになる。Aという現実に対して、あり得たかもしれないBを想像してみるのだ。本作の第3話ではそれがある種のコントを演じることにつながる。もしもAではなくてBだったとしたならどうなったのだろう。その可能性を演じてみることになるのだ。

※ 以下、ネタバレもあり!

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第1話「魔法(よりもっと不確か)」

第1話はタクシー内のガールズトークで始まる。ヘアメイクのつぐみ(玄理)とモデルの芽衣子(古川琴音)は運転手がいるにも関わらず、赤裸々な恋愛話に花を咲かせる(つぐみのことを「ぐみちゃん」と呼ぶ、芽衣子のイントネーションがいかにも若者っぽい)。

話題はつぐみが最近知り合った男性のことで、つぐみとその男性は初めて出会ったのに15時間も一緒に過ごしたのだという。芽衣子はノロケ話を聞かされていたわけだが、途中であることに気づく。つぐみが話している男性は、芽衣子の元カレらしいのだ。これが第1話の“偶然”ということになる。

元カレとつぐみとの関係を知った芽衣子は、元カレの職場へと突撃する。実は芽衣子と元カレ(中島歩)が別れた原因は芽衣子の浮気だ。にも関わらず芽衣子は悪びれることなく元カレのところへ現われ、彼を戸惑わせることになる。芽衣子は自由奔放だ。予想外の行動は彼女にとっては自然なことであり、それに翻弄されつつ魅了されている元カレの混乱が笑わせてくれる。

元カレを親友に取られそうになった芽衣子はどうするか? 現実には身を引くことになるわけだけれど、それと並行的に「ぐみちゃんと私のどっちを取るの?」と芽衣子が迫る“想像”が描かれることになる。現実的には無理なことだけれど、芽衣子はあり得なくはない別の現実を妄想することになるのだ。

(C)2021 NEOPA / Fictive

第3話「もう一度」

第3話の“偶然”には、大きな勘違いが関わっている。同窓会で仙台に帰った夏子(占部房子)は、街でバッタリかつての同級生あや(河井青葉)を見かける。久しぶりの再会に盛り上がる二人は、あやの自宅でお茶をすることに……。ところが二人はまったくの赤の他人で、人違いだったことが判明する。これが第3話の“偶然”だ。二人はそれぞれ自分が知っている雰囲気の似た人と勘違いしていたのだ。

ただ、勘違いがわかった後も、二人はすぐに離れることはできない。というのも、二人は「心に穴が空いている」点でつながっていたから。勘違いに気づく前、夏子はあやに対してこんなふうに切り出す。当たり障りのないことをしゃべっているけれど、聞きたいことはそんなことじゃない。あなたが幸せかどうかが知りたいのだと。

夏子がいきなり核心に踏み込めたのは、夏子があやと勘違いした女性とかつて同性愛の関係にあったからだ。それでも彼女は夏子と別れて結婚してしまい、夏子はそれを止めることができなかった。夏子は今になっても「自分の大切な感情のために戦わなかったことを後悔している」と語る。

一方のあやは実際には夏子とは無関係の他人だ。しかし、最初の夏子からの問い掛けがあやに刺さる。結婚して子供もでき、日々忙しく暮らしていて、幸福と言える条件は揃っているけれど、本当に幸せなのかと聞かれると即答することはできないのだ。あやはそんな意味では心に穴を抱えているわけだ。

そして、二人は互いに自分が勘違いした相手のフリをしてみることになる。もしも自分が思っていた相手で出会えていたら、どんなことを話すのだろうか。二人はそれをコント風に実践することになるのだ。

これは濱口メソッドと呼ばれる演技論を展開した『ドライブ・マイ・カー』にも通じるところだろう。『ドライブ』の主人公・家福は舞台役者兼演出家であり、彼が演出する舞台『ワーニャ伯父さん』は家福の人生と重なる部分がある。そして、家福が舞台でワーニャを演じることは、そのまま彼の人生を生き直すことにつながっている。

夏子とあやがそれぞれの役柄を想像しながら演じることも、単なるコントではないのだ。演じることは夏子やあやが、本当に会いたかった相手と出会って過ごしたのと同じような意味合いを持ってくる。あり得たかもしれない別の人生を生きることになるのだ。ここでは「演じること」は「生きること」と同等になっているとも言える。だから二人は演技をすることで心に抱えていた穴を少しは埋めることができたのだろう。第3話は終わりを飾るにふさわしいとてもいい話となっている。

(C)2021 NEOPA / Fictive

第2話「扉は開けたままで」

第2話はほかの2作品と比べると異質な感もあるのだが、個人的にはこれが沁みるものがあった。

復讐から始まる

物語のきっかけには復讐が関わっている。主人公・奈緒(森郁月)は夫と子供もいるのだが、佐々木(甲斐翔真)というセフレがいる。奈緒は子供を抱えつつも大学生であり、佐々木はその同級生だ。

佐々木はアナウンサーとして就職が決まっていたのだが、瀬川教授(渋川清彦)の授業で単位を落としたためにそれをフイにしてしまう。そのことに恨みを抱いていた佐々木は、奈緒に瀬川をはめることをもちかける。瀬川は最近になって芥川賞を受賞し、ようやく世間に認められたところだったのだが、それをスキャンダルによってダメにしようというのだ。

奈緒は佐々木の要望に応える形になるのだが、それは奈緒が瀬川教授に興味を抱いていたからでもあるのだろう。瀬川を誘惑するという役柄を演じてみたかったのだ。奈緒は瀬川の前で彼の書いた小説を朗読する。その小説の中で最もいかがわしい部分を選んで。男が女に剃毛され、激しく勃起して果てるという官能小説めいた部分だ。しかしながら奈緒の誘惑に対しても、瀬川はその罠にはまることはない。これは瀬川が用心深いからというわけではなく、単に変わり者だからだろう。

おかしいのは誘惑を諦めた奈緒がすべてを録音していたことを打ち明けると、瀬川の様子が一変するところ。しかも、なぜか瀬川は怒るのでなく、感激している。というのは自分が書いた小説を奈緒の声で朗読してもらうという快感を知り、この時間をかけがえのない瞬間と捉えていたからだ。瀬川は奈緒に音声データが欲しいと言い出すことになる。

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独立独歩の人

そこから二人の会話は別の方向へと逸れていく。なぜそんなことをしたかというところから、奈緒の悩み相談のようになっていくのだ。二人には共通項がある。世間に合わせることが難しいというところだ。日本のように同調圧力が強い場所では、協調して生きていく人が大多数を占めることになる。その中で独立独歩で生きていくことは、孤立することになるからキツイのだ。

奈緒はセフレの佐々木に大学内での孤立を揶揄されていた。奈緒としては好きこのんで孤立したいわけではない。ただ自分が良いと判断したことをしていると、周りからズレてしまうだけなのだ。子供が居ても大学に行くことも、風当たりが強いのはわかっていても浮気に走ってしまうのも、世間に流されない生き方の表れと言える。奈緒が瀬川に好感を抱いていたのは、似たような匂いを感じたからだろう。

瀬川も世間に流されることがない人物だ。佐々木に懇願されても単位を献上しなかったのも、出席日数が足りないなら単位をあげることはできないという真っ当な理由であり、瀬川にとっては当然の振舞いだったのだろう。瀬川が大学の自室の扉を開けたままにしておくのは、やましいことはないということを示しているのだ。

瀬川は奈緒に対しこんな言葉を投げ掛ける。

もし周囲から自分のことを無価値だと思い込まされたのだとしたら抵抗してください。社会の物差しに自分を計らせることを拒んでください。自分だけが知る自分の価値を大切にすることです。それを1人でするのはとてもつらいことです。それでもそうしなくてはなりません。そうして守られたものだけが思いがけず誰かとつながり励ますかもしれないのですから。

瀬川も世間に流されず、独立独歩で生きてきた人だ。瀬川の才能は芥川賞を獲得したことで世間に認められた。だがそれまでは偏屈な変わり者とみなされていたことは想像に難くない。

瀬川の言葉は成功したからこそ説得力を持つことになるわけだが、それは言わずとも瀬川が考えていたことであり、世間に流されずに自分だけの価値を持つことはそれだけで重要な意味を持つことだったのだ。奈緒は瀬川のそんな言葉に救われることになるのだ。

濱口メソッド

本作は『ドライブ』のレビューにも記したような濱口メソッドと呼ばれる方法論で撮られている(実際の撮影は『偶然と想像』のほうが先らしい)。それは何度もホン読みをする方法論だ。しかもそれは感情を交えずに繰り返し行われる。だから棒読みの台詞は意図的なのだが、本作では特に第2話においてそれが際立っている。というのも瀬川は一種の堅物だからだし、奈緒も慣れない誘惑者を演じることがそうさせているとも言える。

ところが瀬川が奈緒に先ほど引用した言葉を告げる時は、そこに真摯なものが込められているように感じる。このシーンでは奈緒を演じている森郁月のアップとなると、彼女は涙を流している。この涙は脚本には書かれていないことだという。それでも奈緒=森郁月にとって瀬川の言葉は、悩んでいた自分を肯定してくれるものだと感じられ、自然に涙が溢れてきたということなのだろう。

濱口メソッドではホン読みの段階では感情を交えずに台詞を読み込むことになるが、本番の撮影では役者には自由が与えられる。そこで生じた感情は監督の意図したものではない場合もあるのだが、役に成りきって演じている役者にとっての感情のほうが優先されることになるのだ。ここでは脚本を書いている濱口監督のほうがそこで生じている感情を発見しているのだ。

第3話では劇中のキャラが別の人物に成りきることで別の人生を生きることになっていたわけだが、第2話のこのシーンも森郁月という役者が奈緒に成りきることで別の人生を生きているということであり、そこで生じている感情は本物の感情と言えるのだろう。第2話は瀬川のとぼけたところもあって笑いを誘うのだが、奈緒が瀬川の言葉に救われたと感じる瞬間はちょっと感動的なものになっているのだ。

暗い想像

ところが第2話における“想像”はちょっと暗いものになる。奈緒は瀬川に音声データを送るはずが、“偶然”にもメール送付の際に「佐川急便」という言葉が飛び込んできたため、「segawa」が「sagawa」となり、間違って別のところへデータは届いてしまう。それによって瀬川はスキャンダルにまみれることになったらしい。奈緒は意図せずに最初の計画を遂行してしまったのだ。

5年後、偶然バスの中で奈緒と佐々木は再会する。奈緒は瀬川を貶め、奈緒を離婚へと追いやった佐々木を避けようとするのだが、途中で態度を変える。セフレ時代もキスは禁止事項としていた奈緒は、佐々木に挑発的なキスをして笑顔でバスを降りていく。奈緒が“想像”しているのは暗い未来なのだろう。佐々木に対して復讐することを考えているのかもしれない。それは奈緒が今いる現実とは別の現実を生み出していくことになるのだろう。

(C)2021 NEOPA / Fictive

単純に面白い

本作はエリック・ロメールの作品からの影響を感じさせる会話劇となっている。濱口監督のロメール評は「一生を通じて「面白い」映画だけを作り続けた人」というもので、『偶然と想像』もロメール作品のように単純に面白い作品になっている(もちろんそれだけではないわけだが)。

さらに付け加えておけば、本作における印象的なズームはホン・サンスのことを意識しているように感じられた。以前『ソニはご機嫌ななめ』のレビューに記したことだが、吉田大八監督はホン・サンスの独特なズームを「ホン・サンス・ズーム」と名付けていた。

『偶然と想像』の第3話にはいかにもそれっぽいズームがあった。夏子とあやが久しぶりに再会したというコントを演じる場面で、二人が20年振りにバッタリと再会したところでズームし、そのまま二人の演技が追われることになる。このシーンはまさに「ホン・サンス・ズーム」だった。

第1話ではそんなズームの使い方にも工夫を加えている。芽衣子とつぐみが喫茶店でお茶をしているところに、芽衣子の元カレが偶然にも現れてしまう。ここで芽衣子は「ぐみちゃんと私とどっちを取るの?」と迫ることになるのだが、この状況の居たたまれなさにつぐみが席を離れ、後を追うようにして元カレも飛び出していく。

残された芽衣子は急に泣き出し、カメラは芽衣子にズームアップする。ところがカメラがズームバックすると、飛び出していったつぐみと元カレはまた席に着いている。そのまま今度は芽衣子の現実的な対応が描かれることになる。芽衣子が思い描いた妄想と、それとは別の現実の姿がワンカットで描かれることになるわけだ。

偶然によって定まった現実と、あり得たかもしれない別の現実の想像(妄想)。第1話で本作のタイトルにもなっているモチーフを鮮やかに示して見せているのだ。

本作は単純に面白い。それを確認するためにこうして何某かを書いてみたわけだが、それがうまくいったかどうかは別にして、単純に測れることがあるとすれば、このレビューはほかのレビューと比べて文字数が多いということだ。

劇場に足を運んでも何も響かなかった作品は何も書くことがないということになるし、相対的に言えば面白かった作品のレビューは長くなる傾向にある。つまらない作品にそれほど手間と時間をかける気にもならないからだ。その意味で本作は「何か書いてみたい」という思いに駆られたのだ。ちなみに今年のレビューで本作以上に文字数が多いのは『ドライブ・マイ・カー』だけだった。濱口竜介は私にとって今年一気に気になる存在となった。

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