『首』 秀吉とはたけしのこと?

日本映画

『ソナチネ』『アウトレイジ』などの北野武監督の最新作。

カンヌ国際映画祭では「カンヌ・プレミア部門」に出品された作品。

主演は『その男、狂暴につき』などのビートたけし。共演は『ドライブ・マイ・カー』などの西島秀俊『自由が丘で』などの加瀬亮

物語

天下統一を掲げる織田信長は、毛利軍、武田軍、上杉軍、京都の寺社勢力と激しい戦いを繰り広げていたが、その最中、信長の家臣・荒木村重が反乱を起こし姿を消す。信長は羽柴秀吉、明智光秀ら家臣を一堂に集め、自身の跡目相続を餌に村重の捜索を命じる。秀吉の弟・秀長、軍司・黒田官兵衛の策で捕らえられた村重は光秀に引き渡されるが、光秀はなぜか村重を殺さず匿う。村重の行方が分からず苛立つ信長は、思いもよらない方向へ疑いの目を向け始める。だが、それはすべて仕組まれた罠だった。
果たして黒幕は誰なのか? 権力争いの行方は? 史実を根底から覆す波乱の展開が、本能寺の変”に向かって動き出す―

(公式サイトより抜粋)

キレイごとではない戦場

北野武監督の『アウトレイジ 最終章』以来6年ぶりの最新作だ。それまでコンスタントに新作を発表していたのに、これだけ時間がかかったのは、北野監督周辺にゴタゴタがあったからなのだろうか。そのあたりの内部事情は知らないけれど、何だかんだ言いつつも『首』は娯楽作になっていたんじゃないかと思う。意外にもコメディ寄りの部分はあるけれど、なかなか金のかかっていると思しき合戦シーンもあったりしてとても楽しめたのだ。

「本能寺の変」は日本人なら誰でも知っている話だ。明智光秀が主君の織田信長を裏切り反旗を翻したというものだ。秀光は信長からハゲ呼ばわりされたりで恨みを抱いていたという「怨恨説」が、ごく一般的に言われているこの謀反の理由ということになる。しかし「本能寺の変」にはほかにも多くの説があり、本作では裏で秀光を操っていたのは秀吉だったという「秀吉黒幕説」を描くことになる。

この説自体はほかの映画でも観たことがあるし、それほど珍しいものでもないのだろう。『首』が異色なのは男色の部分だろうか。男色自体は女性がいない戦場の世界ではそれほど珍しいものではないということだが、信長(加瀬亮)と光秀(西島秀俊)と、さらには信長に対して謀反を起こした村重(遠藤憲一)の関係は、そういう関係を孕んでいる。

ただ、本作ではそれを美しくは描いていない。ビートたけし大島渚『御法度』『戦場のメリークリスマス』にも出演しているけれど、そんな男と男の関係の埒外にいる役柄を演じていた(『首』の秀吉もそういう役柄だ)。これらの大島作品では男と男の関係を美しいものとして描く瞬間があったけれど、『首』においてはそうではない。もっとドロドロしたものなのだ。

秀光と村重はかつて同性愛の関係にあった。そして、村重と信長の関係にもそれを匂わせるものがある。しかしながら、それが愛なのか欲望なのかはよくわからない部分もある。村重が信長に近づくのは、信長が天下人だからかもしれないからだ。そして、それは秀光と村重の関係も同様で、秀光は村重をかくまうことになるけれど、それも最後には「天下を思えばその他は瑣末」ということになり、村重は呆気なく見捨てられることになる。某国営放送の大河ドラマとは違って、キレイごとでは済まないのが本作ということなのだろう。

ⓒ2023 KADOKAWA ⓒT.N GON Co.,Ltd.

秀吉とはたけしのこと?

本作でおもしろいのは「本能寺の変」がクライマックスではないところだろうか。途中までは秀光が主役かのように展開していくものの、信長を追い詰めた後には秀光は後景に退く形になる。そして、黒幕である秀吉(ビートたけし)が前景に出てくることになる。もちろん天下を統一したのは秀吉であり、これ自体は当然なのかもしれないけれど、本作はその天下統一を成し遂げるという頂点で終わるわけではないわけで、構成としてはちょっと変わっている。

それでも本作がおもしろかったのは、「本能寺の変」以降の秀吉の存在が、まるでそれを演じているビートたけしそのものに見えてくるからだ。

下剋上の戦国時代で天下を獲ったのは秀吉だ。下剋上の世界における一番の成功者ということになるだろう。同様に、ビートたけしはお笑いの世界でトップを獲得した人物と言ってもいいだろう。そして、北野武は映画の世界でもトップを獲得した人物だ。そんなたけしが天下人である秀吉を演じるわけで、そこに自分を重ねないわけはないだろう。

だから後半部分の秀吉は、ほとんどビートたけしに見えてくる。秀吉=たけしは、弟の秀長(大森南朋)と参謀役の黒田官兵衛(浅野忠信)とのトリオで漫才を繰り広げている。これらはたけしのアドリブによって成立しているシーンだとか。このやりとりを見ていると、たけしとたけし軍団の姿に見えてくるだろう。

北野武の次回作は「暴力映画におけるお笑い」というテーマだとインタビューで語っているようだが、本作も同様で、血みどろの戦場の中で秀吉以下三人の場面は、すべてを茶化すようなシーンになっているのだ。

ⓒ2023 KADOKAWA ⓒT.N GON Co.,Ltd.

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御輿の意味は?

そんなたけし秀吉が天下を望んでいるのかどうかと言えば、そんなふうにはあまり見えない。もちろんかつてはギラギラしていた時代もあったのだろう。本作にはかつての秀吉のようなキャラがいて、それは百姓である茂助(中村獅童)だろう。

茂助は戦の中で敵の大将の首を獲ることになる。しかし、そのために茂助は親友である為三(津田寛治)を殺して、その首をかっさらうことになったのだ。そんな汚いことをしなければ底辺から這い上がることはできないということなのだろう。

ただ、すでに信長軍の家老にまで成り上がった秀吉には、それ以上のものを望んでいるようには見えない。すでに十分な金銀財宝は持っているわけで、成り上がたいという欲望は達成しているのだ。しかし、その地位にそのまま居続けるにはそれなりの努力が必要で、厄介な狂人・信長の対処に困っているようでもある。

そして、秀長や黒田という周囲が秀吉を祭り上げる姿もある。秀吉はそれにイヤイヤ乗っかっているようにすら見えるのだ。劇中では実際にたけし秀吉が御輿みこしに乗せられるシーンがある。「御輿を担ぐ」という言葉の意味は、ある人をおだててもちあげることだ。ところが、たけし秀吉はその御輿の上で吐いてしまうことになる。

多分、現実世界のたけしも、お笑いの世界でも映画の世界でも、おだてられてもちあげられることはあるのだろう。たけしとしてはそれは何となく気持ちの悪いの出来事なのかもしれない。あるいはそれはかなりの重圧ということなんだろうか。とにかく御輿のシーンは、何かしらたけしの心情が吐露されたシーンだったようにも見えたのだ。

ⓒ2023 KADOKAWA ⓒT.N GON Co.,Ltd.

みんなアホか

本作のタイトルは「首」だ。確かに戦国時代は首を巡る戦いだったということなのだろう。武士にとっての首は、手柄を立てたことの証しとして大切なものだった。栄光の証しみたいなものだ。ところが、ラストにおいて秀吉は、武士たちがあれだけこだわっている首を蹴り上げることになる。

「首なんてどうだっていいんだよ」というわけだ。これは武士と百姓の違いだ。秀吉は百姓の出身だから、武士のやっていることが理解できないのだ。秀吉が心配していたのは、単に自分にとって邪魔な秀光が本当に死んだのかどうかということであって、栄光なんてものは意味がなかったのだ。

そんな秀吉だから毛利軍の清水宗治(荒川良々)が切腹するという段で、その儀式的な振る舞いに「さっさと死ねよ」とツッコミを入れることになる。これは秀吉が元百姓であって、武将でもあるからだろう。どちらの世界のことも知っているから、物事を客観的に見ることができる。百姓からすれば、武士のやっていることは意味不明というわけだ。だからこそ秀吉はそんな儀礼にツッコミを入れることができる。

本作では曽呂利新左衛門(木村祐一)が似たような立場にある。曽呂利は抜け忍であり、今では芸人でもあるのだという。どちらの世界も知っているから、彼も秀吉同様に客観的な立場に立てる。曽呂利はそんなわけで一番醒めた目で戦国の世を見ている。

そんな曽呂利の一言が戦国時代のぶった斬ることになる。「みんなアホか」というわけだ。確かにやっていることはアホだろう。この時代の命は軽い。次々と首が飛ぶことになる。男色だとか、名誉だとか、犬も食わない些末なことによって命が左右されることになるわけで、そんなふうにも言いたくなるのも当然だろう。

たけし秀吉は武士としての栄光の証しである首を蹴り上げてみせた。しかし、このことは天下人になって初めて理解できることなのかもしれない。百姓の茂助の立場からすれば、首は出世のための大事な宝ということになるけれど、成り上がった後の秀吉からすればつまらないものになるというわけだ。

たけし自身もお笑いや映画の世界でトップを獲ったわけだけれど、今ではそんな栄光はつまらないものに感じられているのだろうか。とはいえ、天下人の考えることは下々の者にはわかりかねることではあるけれど……。

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