『37セカンズ』 知ってしまえば怖くない

日本映画

監督・脚本はアメリカで映画製作を学んだというHIKARI。本作が初の長編作品とのこと。

ベルリン国際映画祭パノラマ部門最高賞(観客賞)などを受賞した。

物語

生まれたときに37秒間呼吸が止まったため、身体に障害を抱えることになったユマ(佳山明)。彼女は友人の漫画家のアシスタントとして働いている。しかし、実は作品そのものはユマが描いているのだった。ユマはゴーストライターなのだ。ユマは自分の作品が人気を獲得するようになると、自分の名前で作品を世に出したいとも感じるようになる。

当事者が演じること

『37セカンズ』は障害のある主人公の物語となっているわけだが、監督の意向もあり、障害者の役を健常者が演じるということは避けたようだ。

たとえば脳性麻痺の主人公が登場する『オアシス』においても、実際にそれを演じているのは健常者である役者だったわけで、当事者が障害のある役柄を演じるケースはあまり多くはないだろう。原一男監督の作品『さよならCP』は脳性麻痺の当事者たちを追った作品だが、これはドキュメンタリーだからちょっと例外なのかもしれない。

最初の企画の段階では、本作の主人公は脊椎損傷によって障害を抱えたという設定だったらしい。しかし、オーディションで選ばれた佳山明かやまめいの障害が脳性麻痺だったということもあり、本作のユマの設定も脳性麻痺による障害へと変更されることになったようだ。

本作のタイトルである「37セカンズ」は、佳山明が生まれたときに「37秒間」呼吸が止まっていたことから採られている。その意味で本作のユマは、佳山明の境遇からも影響を受けて造形されたキャラクターということになる。

佳山明は本作でユマという女性を演じるわけだが、同時に自分のありのままを晒すような場面を演じることになるわけで、女優としての経験も初めてだったことからしても、かなり大胆な挑戦だったことは推察される。本作で描かれる障害や、それに伴う痛みの感情などが嘘くさくならずに観客に伝わったとしたら、佳山明の頑張りによるものが大きいわけで、これは素直に賞賛に値するものがあったと思う。

(C)37Seconds filmpartners

スポンサーリンク

障害者は日陰者なの?

障害者は人の手を借りなくてはならないのだから日陰者として生きるべき。そんなふうに考える人がいるのかどうかはわからないが、実際に街で障害者に出会う機会はそれほど多くはない(以前よりはだいぶ増えた気がするが)。本作においても、ユマは過保護すぎる母親(神野三鈴)に行動を制限される場面が度々ある。

ユマが世間的には漫画家兼YouTuberSAYAKA萩原みのり)のアシスタントを装っているのも、障害者が表に出ることは避けるべきだという誰かの意識があったからなのだろう。ユマ自身は積極的に表に出たいと考えていたとしても、世間がそれを妨げてしまっているということなのだ。

ユマの母親はSAYAKAの母親に対して引け目を感じている様子だった。ユマの母親はユマを守るために、自分は内職をしつつユマの世話をする態勢を整えている。その一方で障害のある子供を生んだことに対してはどこかで卑屈になっているのかもしれない。だからユマに対しても「障害があるのだから」ということを理由にして束縛してしまうことになる。

(C)37Seconds filmpartners

束縛からの脱出

ユマが母親の束縛から脱出するきっかけは性に関わることだ。ただ、これは純粋に性に対する興味なのか、漫画家として作品の出来に対する興味なのかは微妙な部分もある。ユマはたまたま知ったアダルト雑誌に自分の漫画を持ち込むことになるのだが、編集長(板谷由夏)はユマに単刀直入に「やったことある?」と問い掛けるのだ。

アダルト雑誌の編集者からしてみれば、性的経験のない作者が描いたエロ漫画などリアリティに欠ける価値がないものとなるわけで、当然だったのかもしれない。しかし、その問い掛けがユマを母親の束縛から逃れさせることになる。

ユマは出会い系サイトで何人かの男性と会うことになり、さらには歓楽街で知り合った風俗業の男にセックスの相手を紹介してもらうことになる。

(C)37Seconds filmpartners

健常者が感じる怖さ

本作は「障害者の性」というものを入口にしながらも、そこから離れて別の方向へと移行していく。性に対する興味が出会いを生み、クマと呼ばれる自由気ままな障害者や彼を支える介助者の俊哉(大東駿介)たちと出会い、ユマの世界は広がっていく。そして、後半はユマの出自を探る旅となっていき、双子の姉がいることが判明した後は、彼女を探しに舞台がタイへと移ることになる。

本作でわざわざユマの知らなかった双子の姉を登場させたのは、もちろん意図がある。というのはユマは姉の存在を初めて知ったわけだが、姉のほうはすでに亡くなった父親からユマのことを聞いていたのだ。しかしそれにも関わらず、姉はユマに会いにくることはなかった。姉がユマに謝罪するように、姉はユマに会うのが怖かったのだ。

双子の姉ですら、ユマが障害者であることを聞くと、会うのをためらってしまう。「怖い」というのは障害者を知らないために、その付き合い方も振る舞い方もわからないからだろう。しかし、ふたりは実際に会ってみると、その怖さは杞憂だったことを知ることになる。

知らないからこそ恐れるだけで、知ってしまえば別に怖がることなどないわけだ。当事者の家族ですら躊躇してしまうことがあるわけで、それ以外の健常者がどこかで障害者との関わりを恐れることがあったとしても当然なのかもしれない。

本作ではユマを通して障害者のありのままの姿を垣間見ることになる。本作の冒頭ではユマを演じる佳山明の全裸の姿が撮られている。これは母親と一緒に風呂に入るためだが、ユマ=佳山明は四肢に麻痺があるために真っ直ぐに立つことはできない。そうした障害者のありのままの姿を見せることが本作では重要だったということだ。障害者のことを知ってもらわなければ、障害者を何か怖いものと考えてしまうような偏見はなくならないからだ。

実際に本作のユマ=佳山明の姿を見て感じるのは、彼女がとてもかわいらしい女性で、魅力ある人物だということだろう。佳山明のか細い声は、女優だとしたら腹から声が出ていないとして却下されそうな声だが、それがかえってリアリティがあったと思う。もちろん障害によって人の介助が必要な部分もあるのだが、彼女を知れば障害者を特別視して恐れることはないと感じられるだろう。

(C)37Seconds filmpartners

盛りだくさん

その意味で本作においてHIKARI監督の主張していることは伝えるべき価値のあるものだと思う。しかし一方では、監督の意気込みが走り過ぎたのか詰め込み過ぎに感じられる部分もあった。「障害者の性」がきっかけとなっているが、後半からはタイを巡るロードムービー風になり、まったく違う作品を観ているようにすら感じられたからだ。

「障害者の性」という問題、ユマが想像力で生み出す漫画世界、ユマの出自の秘密、さらには健常者側が抱える怖さなど、言いたいことを詰め込み過ぎて作品としての統一感に欠けるように感じてしまった。後半になって登場してくる姉のユカ(芋生悠)の謝罪には涙したのだけれど、もっとトピックを絞ってじっくりと描いていったほうが掘り下げることができたんじゃないだろうか。

監督自身はその名前から察するに前向きで善意に満ちた人なのかもしれない。そんな監督の人柄に惹かれたのかどうかはわからないが、本作ではちょい役で尾美としのり石橋静河渋川清彦などがゲスト出演しているのも見どころと言えるかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました