監督は『草原の河』のソンタルジャ。
主役を務めるのはチベット人歌手のヨンジョンジャ。
物語
チベットの山あいの村に住むウォマ(ニマソンソン)は、五体投地で聖地ラサへと巡礼することを宣言する。半年以上もかかることが予想される行程に、夫のロルジェ(ヨンジョンジャ)は反対するのだが、ウォマは頑として譲らなかった。しかし、道半ばにしてウォマは倒れてしまうことに……。
五体投地とは
宗教では聖地巡礼という行動が重要なものとして位置づけられているようだ。イスラム教では五行のひとつとして、メッカへの巡礼が義務付けされている。
キリスト教では三大巡礼地など言われることがあるようで、ローマの「ヴァチカン」とイスラエルの「エルサレム」とスペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」が、その巡礼地となっている。
サンティアゴ・デ・コンポステーラに関しては、ルイス・ブニュエルの映画『銀河』や、パウロ・コエーリョの小説『星の巡礼』でも題材となっているから知っている人も多いかもしれない。
五体投地とは、「五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して、仏や高僧などを礼拝すること」だ。チベット仏教では最も丁寧な礼拝方法とされているとのこと。本作ではその様子が丁寧に描かれていく。
これはその名の通り自分の身を投げ出して礼拝することになり、一度は地面にうつ伏せになり、そこからまた立ち上がり、3歩進んで同じことを繰り返す。肉体的にはかなりの苦行と言っていいだろう。
道中は道端で野宿する形になるわけで、寝床のためのテントやら食事用意など、それなりの荷物が必要で本作では付添人がいることも示されている。ただ、気の遠くなるような行程にうんざりしたのか、付添人すら途中で逃げ出してしまうのだが……。
チベットと仏教
チベット仏教は日本と同じように大乗仏教の系列だが、日本とは社会への根付き方が違うようにも見える(日本は先に近代化したからだろうか)。
本作では寺院にあるマニ車というものが顔を出しているが、これはお経を読むことができない人が、それを決められた方向に回わすとお経を唱えるのと同じ功徳があるとされているものだ。
また、ウォマの母親は手持ち用のマニ車を持っていて、ウォマの話を聞きつつもそれを回したりしていた。日常生活のなかに仏教のそうした仕草が自然と入り込んでいるわけで、だからこそラサへの聖地巡礼というものが決断されることになったということなのだろう。
巡礼のきっかけ
ウォマはなぜ巡礼を決断したのか? そのひとつのきっかけには不治の病がある。ウォマは病で自分の命がわずかであると知り、自らの最期のやるべきこととして聖地巡礼を選んだのだ。
それでもウォマの聖地巡礼は病の治癒を願うものではない。ウォマは病気に関してはすでに運命だとあきらめているからだ。ただ、死別した前の夫との約束だったのが聖地巡礼で、その約束を果たすための決断だったのだ。
ここで複雑なのは現在の夫のロルジェだ。ウォマは病を隠していただけでなく、人生の最期の時を前夫との約束のために使おうと考えているからだ。さらにその巡礼を見守る旅に加わったのは、ロルジェだけではなく死別した前夫との子供であるノルウ(スィチョクジャ)なのだ。
ノルウは母親であるウォマとは別のところで祖父母と暮らしている。ノルウは母親と離れて暮らすことになったのは、ロルジェが厄介な前夫の子供を嫌ったからだと考えていて、ロルジェとは反目し合う関係にあるのだ。ロルジェもノルウも、共にウォマのことが心配でそれを見守っていくのだが、その関係性には複雑なものがあるのだ。
旅の途中で
ちょっと意外だったのは、本作がラサへの巡礼ということを描いていながら、目的地にたどり着く前に終わってしまったところ。そもそも聖地巡礼によって何が求められているのだろうか。
その問いに対する答えとなるかどうかはわからないが、「巡礼者の垂訓」と呼ばれるものがあるので以下に引用してみたい。これはキリスト教の巡礼地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの道中の教会で配られたりしているようだ。これは本作の注釈としても、人生論としてもなかなか含蓄のあるものだと思う。
1.巡礼者は幸いである。巡礼が見えないものにあなたの目を開くならば。
2.巡礼者は幸いである。あなたが最も気にしていることが、ただたどり着くことではなく、他の人と一緒に目的地に到着することであるならば。
3.巡礼者は幸いである。巡礼を観想し、それが名前と何か新しいものの始まりで満たされていることを見出すならば。
4.巡礼者は幸いである。あなたのリュックが空っぽになり、心が静けさと生命で満たされるならば。
5.巡礼者は幸いである。一歩戻って誰かを助けることの方が、わき目をふらずにただ前進することよりも、はるかに価値あることだということを見出すならば。
6.巡礼者は幸いである。全ての予想外の驚きに対して深い感謝の気持ちを表現する言葉を持たないとき。
7.巡礼者は幸いである。ただあなたが巡礼するのではなく、巡礼にあなたを変えさせるならば。
8.巡礼者は幸いである。道々、真の自分に出会い、立ち止まり、見つめ、聴き、自分の心を大切にすることを知るならば。
9.巡礼者は幸いである。真理を求めて、巡礼を、道であり、真理であり、生命である方を求める、「生命への道」にするならば。
10.巡礼者は幸いである。あなたの巡礼が終わった時に本当の巡礼が始まることを知るのだから。
ここでアンダーラインを引いた2番目の文章は、巡礼は目的地にたどり着くことだけではなく、その過程こそが大事であり、同行している者との関係性が重要であることをも示しているだろう。
本作ではウォマは病に倒れ、道半ばにして死んでしまうことになる。ウォマは命懸けで五体投地による聖地巡礼を決行したわけだが、それは途中で終わってしまったわけで意味がなかったのだろうか。いや、そんなことはないだろう。
その約束はロルジェとノルウに引き継がれることになるからだ。そしてウォマの意志を引き継いで聖地へと向かうロルジェとノルウは、長い長い行程のなかでその関係性を改善していくことになる。聖地にたどり着くことも大事だが、その過程こそが重要なわけで、だからこそ本作は山ひとつ越えたところにポタラ宮を臨むところで終わっても構わないということになる。
ちょっと前に取り上げた『ロマンスドール』も、主人公の女性が病で死んでいく物語だった。そこでは夫婦が作り上げたラブドールそのものよりも、それを作る過程がロマンスとして機能していたのだった。目的そのものよりも過程のほうが重要という点で、『巡礼の約束』と同様のテーマを描いていたと言える。
人間は誰しもが必ず死ぬわけで、たどり着くところは「死」と決まっている。極論すれば目的地に着くには死ねばいいということにすらなりかねない。しかし実際にはそんなことはないわけで、目的地以上にその過程が大事だということは、人生論としても真っ当なものだろう。
ソンタルジャ監督の前作『草原の河』は、6歳の少女と子羊との奇跡的なふれあいが何とも愛らしかった。それでいてチベットの中国との関係性も仄めかされており、とてもバランスの取れたいい作品だったと思う(前ブログでの「ベスト16」のひとつに選んでもいる)。
本作の少年ノルウはちょっと反抗期で困った子ではあるのだが、実は母親から離されたのが寂しかったという甘えん坊でもある。その少年とこれまた母を亡くしたロバの姿は、前作ほどではなくともそれなりに微笑ましいものがあった。それから前夫に嫉妬するロルジェのいい人ぶりも記しておきたい。嫉妬に狂って大切なウォマの大切な写真を破ってしまうのは大人げないのだが……。
コメント