監督・脚本は『わたし達はおとな』の加藤拓也。この人は「劇団た組」を主宰する演劇人で、岸田國士戯曲賞などを次々と受賞している注目人物らしい。本作は長編映画第2作となる。
物語
綿子と夫・文則の関係は冷め切っていた。綿子は友人の紹介で知り合った木村とも頻繁に会うようになっていたが、あるとき木村は綿子の目の前で事故に遭い、帰らぬ人となってしまう。心の支えとなっていた木村の死を受け入れることができないまま変わらぬ日常を過ごす綿子は、木村との思い出の地をたどっていく……。
(公式サイトより抜粋)
先のない関係性
主人公の綿子(門脇麦)は不倫をしている。その日も友達と旅行に行くという名目で、不倫相手の木村(染谷将太)とのお泊り旅行を楽しんだのだ。二人の関係はとても仲睦まじく見える。それは綿子と夫の文則(田村健太郎)の関係が冷え切ったものだけに余計にそんなふうに感じさせるのだ。
綿子は木村との関係を秘密にしている。それは不倫だから当然のことなのだけれど、二人は来週以降の逢瀬の予定を立てたりしているわけで、その関係を継続的なものとしようとしていることもわかる。ところが木村はその直後に交通事故に遭って亡くなってしまうことになる。
綿子は木村との関係をどうしたいと思っていたのだろうか? 綿子にも文則という旦那がいるが、木村も結婚している。そうなると二人の関係はそれ以上の展開は望めそうもないわけだが、それでも綿子は木村のことを必要としていたということだろう。しかしながら、その木村が亡くなってしまったわけで、綿子は心の支えを失うことになってしまうのだ。
綿子の処世術?
綿子という女性はどんな人なのだろうか? 綿子と文則はかつて不倫関係にあり、今では前妻と文則との間にできた子どもを綿子が預かって世話をしている時もあるらしい(劇中に子どもは登場しないけれど)。そんなエピソードからすると綿子は旦那に尽くす妻のようにも見えたりもする。
一方で旦那の文則は、約束をすっぽかした綿子に対して、「まず謝ろうか」と静かな調子で責めてくる。この旦那の言うことは理屈は通っているし、その調子もとても穏やかなのだけれど“ねちっこさ”があるのだ。
そんな旦那のモラハラ的圧力によって綿子が追い詰められているようにも見え、どこかで綿子に対して同情的な気持ちもあったのだけれど、どうもそれほど単純ではなさそうだ。本作はあまり説明的ではないために、そのあたりはすぐにはわかりにくいような気もする。
実は綿子には計算高い部分があるのだろう。木村が亡くなった時の対応も一時はパニックになるけれど、すぐに冷静さを取り戻す。交通事故に遭った木村の姿を見た綿子は、一度は救急車を呼ぼうとするけれど、二人の関係がバレてしまうことを恐れてそれを止めてしまうのだ。
そして、木村が亡くなってしまったことを知った後では、綿子は自分が進んでいく方向性を変えたようにも見える。もしかすると綿子には木村と一緒になりたいという気持ちすらあったのかもしれないけれど、その木村が亡くなってしまったわけで路線を変更するしかないということでもある。
結婚記念日の夜、綿子と文則がやり直しを図るかのような“いい雰囲気”になっていたのも、綿子の気持ちが亡くなった木村から文則へとシフトしたからなのだろう。働いていない専業主婦状態の綿子としては、そうすることが処世術として理にかなっているということなのだ。
不倫はお手軽な関係?
本作を観た人の感想を読んでいて、「なるほど」と思ったのが「グランピングと不倫は同じようなもの」という指摘だった。グランピングについても、不倫についても、特段に経験というものを持たない人間としては、この指摘はちょっと意外にも感じられた。不倫なんてものは面倒臭いだけだろうと思ってしまっていたのだが、実は逆なのかもしれないのだ。
ちなみにグランピングというのは、「優雅な」といった意味の“glamorous”と“camping”を合わせた造語なのだそうだ。私自身はインドア派の人間でキャンプなんてやったこともないけれど、そんな人でも手軽に参加できるようにすべてが整っているキャンプのことをグランピングと呼ぶらしい。
綿子と木村の逢瀬が描かれる最初のシークエンスでは、二人が仲睦まじくグランピングを楽しむ様子があった。そして、木村が亡くなった後の綿子とその友達の英梨(黒木華)との会話では、そのグランピングについて話題になっている。
英梨は最初からグランピングなんかをやってしまうと、キャンプの基礎の部分が抜けてしまうんじゃないかということでグランピングに対して否定的だった。それに対して綿子は、初めからそんなにのめり込むつもりもないのだから、グランピングで十分なんじゃないかという言い分だった。この台詞はグランピングについてのものだけれど、同時に綿子の人との付き合い方そのものを示すものだったのかもしれない。
不倫の関係にあれば、それ以上は相手に踏み込むことはできない。いつも一緒に暮らすことになる結婚とは別で、楽しいところだけを満喫することができる。そんなイメージなのだろう。だから綿子と文則も不倫関係にあった時には、互いに対して優しくなることができたようだ。ところが結婚して一緒に生きていくことになると、それだけでは済まないことになってくる。イヤなことを抜きにしてお手軽に楽しめるという点で「グランピングと不倫は同じようなもの」ということになるのだ。
もつれるとほつれる
綿子も文則も冷え切った関係を元通りにしたい気持ちはあったようだ。そんなわけで綿子が処世術として文則との関係をやり直すことを選んだとすれば、すんなりと事は収まってもおかしくはなかったのかもしれない。
ところがある出来事がきっかけとなって、木村との不倫はバレてしまうことになる。木村の父親(古舘寛治)や木村の妻にもそのことは伝わり、綿子は自分のやってしまったことのツケを払わされることになる。今までは避けていた面倒臭いことに巻き込まれることになるのだ。
前作の『わたし達はおとな』では、映画と演劇の違いを探っているようにも見えたけれど、本作はそれを踏まえてより自然な語り口になっていたようにも思う。前半には移動撮影などもあったりするのだけれど、最終的には室内での綿子と文則の対話の場面へと収斂していくことになるのは、やはり演劇出身の監督だからだろうか。ラストでは綿子は文則との関係を解消して、人生そのものを新しくやり直す選択することになる。
おもしろいのはこのタイトルだ。「ほつれる」という言葉を辞書で調べると、「縫い目・編み目などがほどける」とあり、マイナスのイメージで使われる言葉になるだろう。まとまっているべきものが、ほどけてしまうイメージだ。しかし、舞台挨拶での出演者の発言などを読むと、出演陣はこの言葉をプラスの意味合いで使っているようだ。通常の意味とは別の意味合いが込められているのだろうか(もしかしたら単に私の勘違いだろうか)。
本作には、同じキャラクターが登場する演劇作品があるようだ。加藤拓也監督が主宰する劇団では、2023年の5月に『綿子はもつれる』という作品を上演している(こちらで綿子を演じたのは安達祐実)。本作がその演劇そのものの映画化なのかどうかはわからないけれど、登場するキャラクターの名前は同じだし、作品の大枠も変わらないようだ。この二つの企画は、2023年5月に演劇の『綿子はもつれる』が上演され、9月に本作『ほつれる』が劇場公開されているわけで、同時に進行していたものなのだろう。
そして、タイトルは演劇のほうは「もつれる」で、映画のほうは「ほつれる」となっている。こんなふうに並べられると、「もつれる」という言葉は「からまり合ってほどけなくなる」ことを指すわけで、対照的な言葉にも感じられるのだ。
ここで言う「ほどける」という言葉と、「ほつれる」という言葉は微妙にニュアンスが異なるものだろう。それでも「ほどける」も「ほつれる」も、漢字で記すと「解ける」と「解れる」となり、似たようなものということだろうか。
映画『ほつれる』に関して、加藤監督はこんなふうに公式サイトで語っている。
この作品では当事者性を感じることができない、またはしないで、向き合うことを諦めているある一人のもつれが描かれています。
綿子は本作で不倫関係という「もつれ」を経験することになるけれど、それらをすべて清算することになり、新たな出発を図ることになるわけで、「ほつれる」という言葉には絡み合っていたものが「ほどけた」という前向きなものが込められているようにも感じられるのだ。
印象に残ったのは、静かにイヤな感じを押し出してくる文則を演じた田村健太郎。『猫と塩、または砂糖』という作品では、人の良さそうな若者という感じだっただけにちょっと意外でもあった。
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