『護られなかった者たちへ』 誰が悪かった?

日本映画

原作は『さよならドビュッシー』などの中山七里の同名小説。

監督・脚本は『ヘヴンズ ストーリー』『楽園』などの瀬々敬久。

物語

東日本大震災から10年目の仙台で、全身を縛られたまま“餓死”させられるという不可解な連続殺人事件が発生。被害者はいずれも、誰もが慕う人格者だった。

捜査線上に浮かび上がったのは、別の事件で服役し、刑期を終え出所したばかりの利根(佐藤健)という男。刑事の笘篠(阿部寛)は、殺された2人の被害者から共通項を見つけ出し利根を追い詰めていくが、決定的な証拠がつかめないまま、第3の事件が起きようとしていた――。

なぜ、このような無残な殺し方をしたのか? 利根の過去に何があったのか?

(公式サイトより引用)

震災と生活保護

餓死させられた2人の共通点は役所で生活保護受給に関わっていたことだ。そこから察するに事件は生活保護受給を巡る怨恨ということになるだろう。すぐに容疑者の利根(佐藤健)が捜査線上に浮かび、本作ではなぜ利根がそこまで恨みを抱えるようになってしまったのかという点だけが残されているとも言える。

実は容疑者である利根と、それを追う刑事の笘篠(阿部寛)にも共通点がある。ふたりは9年前の東日本大震災の時、同じ避難施設でニアミスをしている。本作は仙台を中心とした場所を舞台としているから、登場人物はほとんどが被災者となっていて、震災後の混乱が背景となっているのだ。

笘篠は津波で流された妻と息子を捜して避難所を訪れ、利根は住む場所を失いそこに避難していた。孤独な利根は、家族が固まることになる避難所で、別の孤独なふたりと知り合うことになる。遠島けい(倍賞美津子)と親を亡くしたばかりのカンちゃん(石井心咲)だ。身寄りのない3人が避難所で疑似家族のようになっていくのだ。

(C)2021 映画「護られなかった者たちへ」製作委員会

なぜ恨みを抱いたのか?

本作は震災の起きた2011年と、連続殺人事件が発生した2020年を行き来しつつ、なぜ利根が生活保護受給に関して恨みを抱いたのかが追われることになる。そこに関わるのが、利根と避難所で家族のような親しい関係になった遠島けいとカンちゃんだ。

利根はけいの後押しもあり、ほかの土地での仕事を見つけて仙台を去り、身寄りのなかったカンちゃんは里親にもらわれていく。ところが仙台に残ることになったけいは、働けるような歳でもないから困窮状態に陥ることになる。もちろん利根とカンちゃんはけいのことを心配して世話を焼く。そこで最後のセーフティーネットとしての生活保護が選ばれることになる。けいの状況であるならば受給に関しては問題ないはずだったのだが、なぜか役所はそれを却下し、けいは餓死してしまう。

そのことに恨みを抱いた利根は福祉事務所に放火し逮捕される。それから月日が流れ、利根が刑期を終えて出所した頃になって、連続殺人事件が起きることになる。一方でカンちゃんは成長して役所に勤めることになり、生活保護の申請を受ける立場になる。利根は恨みを暴力の形でぶつけたわけだが、カンちゃんはそれを見て役所の内部からそれを改革しようと思ったのかもしれない。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2021 映画「護られなかった者たちへ」製作委員会

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誰が悪かったのか

原作者の中山七里は「どんでん返しの帝王」と呼ばれる作家なのだとか。確かに映画化された『さよならドビュッシー』はそんな作品だった。『護られなかった者たちへ』も「どんでん返し」は健在で、犯人は利根だとミスリードさせておいて、実はカンちゃんだったというのがオチと言える。

とはいえ、犯人探しはあまり重要ではないのかもしれない。原作者も「事件の犯人はわかっても、物語の犯人は読み終えた後も誰にもわからない」などと語っている。本作で描かれる生活保護受給を巡る問題は、一概に誰が悪いとは言いがたいものがあるからだ。

カンちゃん改め成長した円山幹子みきこ清原果耶)は、かつてけいの生活保護受給に関わった三人を覚えていて、二人をすでに殺害し、最後に今では国会議員となった上崎(吉岡秀隆)を狙っている。犯人だと思われていた利根は、幹子の犯行を止めようとして自分がおとりとなって逮捕されたのだ。幹子は第三の犯行に及ぶ前にSNSで世間に訴えかける。困窮者が生活保護を受給することは権利なのであって、それをもっと図太く主張するようになってほしいと。

幹子はけいに対する仕打ちの復讐として事件を起こすわけだが、本作はけいの受給を却下した行政の側を悪者として描いてはいない。最初に殺された三雲(永山瑛太)は誰からも人格者として慕われている人物だ。それでも役所の予算は無尽蔵にあるわけではないから誰にでも生活保護を受給させるわけにもいかない。さらにごく一部の不届き者は不正受給を狙って役所を騙そうとしてもいるし、仙台周辺はほかの地域の被災者が流入してきた場所でもあり、余計に申請者は増すばかりという状況もあった。

そんな中で仕事をこなすために三雲が主張したのは、原理原則に訴えるということだ。すべての人を護ることができるのが一番いいに決まっているわけだが、現実にはそれは無理だ。予算は限られているからだ。だから法律で決められた原理原則に従い、そこから外れれば受給を拒否することになる。そうした厳格な運用が、もしかしたら助けられたかもしれないけいのような困窮者を見捨てることにもなってしまう。

(C)2021 映画「護られなかった者たちへ」製作委員会

公助の出番は最後

けいは一度は生活保護受給の申請をしつつも、それを辞退している。利根はそれを役所側の怠慢と感じ、怒りを爆発させて放火したわけだが、役所には役所の言い分もある。二番目に殺された城之内(緒形直人)は、日本は各国と比べても生活保護受給者の割合が少ないと語る。特にお年寄りなどは人様から世話になることを申し訳なく感じる傾向があるからだ。だから自分たちのせいばかりではないんだということを言いたかったらしい。

幹子が訴えたのもそんな意識を変えるべきだということだ。人様や行政に頼ることが出来ずに死んでいくことなど何とも惜しいことだからだ。とはいえ幹子はそれを訴えるために人の命まで奪っているわけで、それを利根に「死んでいい人なんていないんだ」と指摘されることになる。

先日退陣した菅内閣のスローガンには「自助・共助・公助」というものがあったとのこと。これはいわゆる公助と呼ばれる行政が支援する生活保護のようなものは最後になるべきだということを示している。その前には「自助・共助」があり、それでもダメならようやく行政の出番となるわけだ。

だから行政としてはまずは困窮者が自分で稼げるかどうかを見ることになるし、それが無理なら家族を当たるし、そうでなければ周囲の誰かが助けてくれることが望ましいということになる。その一環でけいは親族への連絡をしなければならなくなる。親族が困っているから援助してくれないかという照会だ。

しかし、けいはそれは避けたかったのだ。というのは、けいにはかつて里子に出した娘がいたからで、生活保護の申請手続きを進めることは、けいのことを知らずに生きてきた娘にも余計な心配をかけることになる。そのことがけいに生活保護を辞退させたのだ(ちなみにこの「扶養照会」というものは問題が多かったのか、今年の3月末からはようやく拒否できるようになったらしい)。

(C)2021 映画「護られなかった者たちへ」製作委員会

護られる人と護られない人

ラストで利根が笘篠に語るのは、津波の時、ある少年が海に飲み込まれるのを目撃しながらも助けられなかったことだ。その少年は黄色いジャンパーを着ていたのだが、それは笘篠の息子だったのかもしれないのだ。これは作劇的にはやり過ぎではあるのだが、護られる人もいればそうでない人もいるということを強調するためだろう。

利根は海に流されたその少年のことを覚えていて、自分が生き残ったことを申し訳なく感じている。これはサバイバーズ・ギルト(Survivor’s guilt)という、災害などで生き残った人が抱くことになる罪悪感だ。利根は少年のことを護れなかったという負い目もあって、避難所でひとり佇んでいた黄色いジャンパーのカンちゃんのことを護りたいと思う。カンちゃんはこの頃短髪で少年のような風貌だったから、亡くなった少年と重なったのだ。護れなかった者がいたからこそ、カンちゃんをどうしても護ろうとしていたのだ。

(C)2021 映画「護られなかった者たちへ」製作委員会

予告編でも使われている場面で、利根は避難所で大暴れして「ふざけんな!」と叫んでいるのだが、これは誰に向けた言葉だったのか。避難所では配給の食糧も潤沢とは言えず、それを奪い合うような形になってしまう。利根は自分が護りたいと感じていたカンちゃんが誰かにパンを横取りされたのを見て、それを取り返すために割って入る。しかし、それを周囲に制止され泥水を飲まされることになり「ふざけんな!」と叫んだのだった。

避難所では誰もが困窮している。利根のことを押さえつけることになった人たちも被災者であり、少ないパイを奪い合う形になってしまっている。これも誰が悪いのかとは言いがたい事態であるだろう。このシーンではカンちゃんのパンを横取りした人の顔は描かれていない。利根が叫んだのもその特定の誰かに対する怒りというよりも、震災という如何ともしがたい理不尽さへの叫びだったようにも思えた。

恨みを抱かれることになった役所の人たちも、震災後の混乱の中で仕事に追われて疲れ切っていた。それによって細かいところへの配慮が欠けてしまったことを一律に責めることができるのだろうか。役所の多くの人たちも自分たちができる範囲での努力はしてきたわけだが、それでもどうしても護られる人と護られない人というものが出てきてしまうということなのだろう。

カンちゃん=幹子が人を殺すほどの決意を抱くことに説得力はなかったと思うし、お涙頂戴的展開でもたつくところもある。それでも生活保護を巡る問題をうまくまとめていたと思うし、現実の問題はその多くが「誰が悪い」と決めつけて溜飲を下げて事足れりとするようなものではないと感じさせる点はよかったんじゃないだろうか。

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