『LOVE LIFE』 すれ違う視線

日本映画

監督・脚本は『淵に立つ』『本気のしるし〈劇場版〉』などの深田晃司

原案となったのは矢野顕子の「LOVE LIFE」という楽曲。

ヴェネチア国際映画祭ではコンペティション部門にノミネートされた。

物語

妙子(木村文乃)が暮らす部屋からは、集合住宅の中央にある広場が⼀望できる。向かいの棟には、再婚した夫・⼆郎(永山絢斗)の両親が住んでいる。小さな問題を抱えつつも、愛する夫と愛する息子・敬太とのかけがえのない幸せな日々。しかし、結婚して1年が経とうとするある日、夫婦を悲しい出来事が襲う。哀しみに打ち沈む妙⼦の前に⼀⼈の男が現れる。失踪した前の夫であり敬太の父親でもあるパク(砂田アトム)だった。再会を機に、ろう者であるパクの身の周りの世話をするようになる妙子。
一方、⼆郎は以前付き合っていた山崎(山崎紘菜)と会っていた。哀しみの先で、妙⼦はどんな「愛」を選択するのか、どんな「人生」を選択するのか……。

(公式サイトより抜粋)

「見る/見ない」のモチーフ

『LOVE LIFE』では「見る/見ない」ということが対比されて描かれる。これは重要な登場人物にろうあ者がいるからだ。主人公の妙子(木村文乃)はある事故で息子の敬太(嶋田鉄太)を亡くす。現在の夫・二郎(永山絢斗)とは再婚で、敬太の本当の父親・パク(砂田アトム)がろうあ者なのだ。

ろうあ者は手話を使うため、相手と向かい合って視線を合わせなければ会話が成立しない。深田晃司監督がインタビューで語っているが、ろうあ者にとっては視線をそらすことは強い拒否を示すことになるのだとか。

しかし健常者においては、会話の相手と常に向き合っていなければならないわけではない。相手の言葉は聴覚から入ってくるわけで、相手の目を見なくても会話は成り立つことになる。二郎は恥ずかしがり屋なのか、相手と目を合わせないことを劇中で二度も指摘されている。

妙子がそのことを意識したのは、敬太が亡くなった後、元夫のパクが突然姿を現し、行きがかり上パクの世話を焼く機会が増えたからだろう。パクの相手をすれば必ずパクと視線を合わせることになるわけで、夫の二郎が自分と目を合わそうとしないことが余計に意識されることになったということだろう。

(C)2022映画「LOVE LIFE」製作委員会&COMME DES CINEMAS

「見る」ということの意味

「見る」ということには様々な意味がある。たとえば『NOPE/ノープ』における「見る」は、「監視する」という意味を帯びていた。だからその場合は、「見る」ということは見られる側よりも優位であることを意味していた。

一方で『LOVE LIFE』における「見る」は、「見守る」とか「面倒を見る」という意味合いに近づく。この場合、見られる側は弱者かもしれないけれど、見る側が自らの優位性を示しているわけではない。

妙子は福祉関係の仕事に携わっていて、二郎は役所の福祉課に勤めている。どちらも人が困っているのを見ると助けてあげたくなってしまうような人間なのだ。二郎が山崎(山崎紘菜)のことを捨てて妙子と結婚したのも、妙子が失踪した夫を探しているという状況にあったからなのかもしれない。また、妙子はホームレスの見回りなどをして食料を配付したりもしていて、その場合の「見る」ということは見られる側を庇護しようというあたたかい目で見ていることになる。

(C)2022映画「LOVE LIFE」製作委員会&COMME DES CINEMAS

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すれ違う視線

敬太が生きていた時は、妙子と二郎は敬太という同じ方向を見ていたはずだ。そういう状況では、ふたりの視線が合わなくても気になることはないだろう。しかしながら敬太が突然の事故で亡くなってしまうと、ふたりの視線は対象を見失ってしまうことになる。

妙子が元夫のパクのことを気遣うことになるのは、敬太の代わりなのだろうし、二郎が元カノ・山崎の体調不良を気にするのも同じような意味合いだろう(だからふたりのキスの意味合いも性的なものではなかったのかも)。

本作では、ふたりの視線がそんなふうにすれ違っていく瞬間を劇中で示している。敬太が亡くなった後、葬儀用の写真を選ぶために、ふたりは同じパソコンに向かい敬太の写真を見ている。この時、ふたりの視線はパソコンの中の敬太の写真に向かっている。

しかしその後、妙子が二郎と再婚する前の写真のことに話が及ぶと、妙子は自分のパソコンを取り出し、ふたりはダイニングテーブルの対角線上に座り、それぞれのパソコンを見つめることになる。庇護すべき敬太がいなくなったことで、ふたりは「見る」べき対象を失い、その視線はすれ違っていくことになるのだ。

(C)2022映画「LOVE LIFE」製作委員会&COMME DES CINEMAS

複雑な顔

本作の登場人物はみんな一面的ではなく、複雑な顔を見せる。深田監督の過去作『よこがお』の作品タイトルに込められているのは、人の横顔には隠された見えていない部分があるということだった。深田作品ではそうした隠された部分が垣間見える瞬間があるのだ。

敬太が亡くなる前のエピソードでは、ごくありふれた日常の風景が描かれているのだが、舅の一言が場を凍り付かせることになる。舅(田口トモロヲ)は妙子のことを「中古品」呼ばわりしたのだ。舅は決して悪い人ではないのだが、連れ子での再婚だった妙子に対しての不満もあり、つい本音が出てしまったということなのだろう。その場は姑(神野三鈴)が取り繕うことになるのだが、その姑自身もうっかりという感じで妙子に対して「今度は本当の孫がほしい」などと漏らしてしまうのだ。

こうしたことはほかの登場人物も同様だ。二郎は敬太が亡くなった後、すぐに次の子供のことを考えてしまったと告白しているし、二郎の元カノ・山崎も自分がフラれた時は、その原因となった妙子が不幸になればいいと願ったと語る。

(C)2022映画「LOVE LIFE」製作委員会&COMME DES CINEMAS

そんなふうに本作の登場人物は一面的ではなく、複雑な顔を見せることになるのだ。その中でもパクという登場人物はユニークな存在だろう。パクはろうあ者の韓国人であり、ホームレスとして登場する。彼は妙子の助けがなければ生活保護受給も覚束ないような弱者として描かれるのだ。しかしながら、かつては妙子と敬太を捨てて失踪してしまった自分勝手な男でもある。それでいて、敬太のことを忘れなければ前に進めないと悩む妙子に対しては、「敬太のことを忘れる必要などない」と確信を持って伝え、妙子を安心させるような役割も果たすことになる。

その後にパクは父親危篤の報を受け、韓国へ帰国することになるのだが、妙子は「彼には私がついていなければ」という思い込みで勝手に同行することになる。しかしそこでわかったのは、パクが他愛ない嘘をついていたということだった。パクは韓国にいる別の息子に会いたくなって帰国したのだ。

障害者だからみんなが正直なんてことはないし、障害者だから弱者だというわけでもないのだ。パクはある意味ではうまく立ち回っていると言えるし、単に自由で衝動的な人でもあるし、デタラメな人でもあるのかもしれない(自由過ぎてちょっと笑えてくる)。映画で描かれる障害者のイメージをぶち壊すようなユニークな男なのだ。

パクを庇護したいと考えていたのは妙子のほうであり、妙子はパクのことを見誤っていたということになる。異国の地でパクに放りだされた妙子が、雨の中で独り踊る。ここで妙子は自らの愚かさにようやく気づいたのだ。帰国した妙子が二郎に「こっちを見て」と訴えるのは、二郎と向き合う用意ができたということだろう。

ラストシーンで流れ出す矢野顕子の「LOVE LIFE」のタイミングはまさに絶妙だったのだが、その後に散歩に行くふたりを捉えたシーンが印象に残った。その時はよくわからなかったのだけれど、誰もいない部屋からふたりの後ろ姿を見ているのは一体誰なのか?

実は『よこがお』にも似たように空き家の中から外を捉えるシーンがあり、ちょっと不思議なシーンだったのだが、『LOVE LIFE』の場合はその部屋で亡くなった敬太が見ているようにも感じられてきたのだ。庇護される側だった敬太は、地縛霊となってふたりをあたたかく見守っているのだろうか? 今になってじわじわとそんなことを感じさせる、なかなかいい映画だったと思う。

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