『そばかす』 そばかすなんて気にしない

日本映画

『寝ても覚めても』『愛がなんだ』などを手掛けたメ~テレと制作会社による「(not) HEROINE movies」の第3弾。

企画・原作・脚本は『his』などのアサダアツシ

監督は劇団「玉田企画」を主宰する玉田真也

主演は『ドライブ・マイ・カー』『私たちのハァハァ』などの三浦透子

物語

私・蘇畑佳純(そばた・かすみ)、30歳。チェリストになる夢を諦めて実家にもどってはや数年。コールセンターで働きながら単調な毎日を過ごしている。妹は結婚して妊娠中。救急救命士の父は鬱気味で休職中。バツ3の祖母は思ったことをなんでも口にして妹と口喧嘩が絶えない。そして母は、私に恋人がいないことを嘆き、勝手にお見合いをセッティングする。
私は恋愛したいと言う気持ちが湧かない。だからって寂しくないし、ひとりでも十分幸せだ。でも、周りはそれを信じてくれない。
恋する気持ちは知らないけど、ひとりぼっちじゃない。大変なこともあるけれど、きっと、ずっと、大丈夫。進め、自分。

(公式サイトより抜粋)

アセクシャル・アロマンティックって?

主人公の蘇畑佳純(三浦透子)は「恋愛したいと言う気持ちが湧かない」と語る。多分、昔からそんな人もいたのだとは思うけれど、そういう人たちを定義づけるような言葉はなかったのかもしれない。今ではそんな人たちに名前が付けられているようだ。

私自身はLGBTという言葉ですらちょっと前に知ったくらいなのだが、LGBTのような性的マイノリティに関連する言葉として“アセクシャル”とか“アロマンティック”などがある。“アセクシャル”とは、性的に他者に惹かれないことで、“アロマンティック”とは、他者に恋愛感情を抱かないことなのだそうだ。

この組み合わせも様々あり、性的に他者に惹かれないけれど恋愛感情は持つ人もいるし、逆に性的には他者に惹かれるけれど恋愛感情は持たない人もいる。そして、性的にも他者に惹かれないし、恋愛感情も持たない人もいるということになるらしい。

性的マイノリティと一口に言っても、レズやゲイが主人公となる物語はすでに多く発表されているけれど、アセクシャル・アロマンティックを取り上げた作品は極端に少ないらしい。日本ではNHKが『恋せぬふたり』というドラマでそれを取り上げているらしく、以下のサイトはとても参考になった。

(C)2022「そばかす」製作委員会

世間の既定路線

『そばかす』の佳純はアセクシャル・アロマンティックであることを自覚しているらしい。それでもカミングアウトをしているわけではないから、母親(坂井真紀)としては妙齢の女性が付き合っている人もいないことを心配し、勝手にお見合い話を持ってきてしまうことになる。

これに関しては、お節介な親がいれば誰でも必ず煩わされることになる事態ということになるわけでさほど珍しいことではないだろう。世間では男女共に恋愛をして結婚し、そして子供を産むということが既定路線となっているからだ(特に女性の場合は、子供を産める年齢が限られているために周囲からの圧力もきつくなりがち)。そして、そこから逸脱することは、少なからず騒動を巻き起こすことになる。

佳純は劇中で新解釈の「シンデレラ」のデジタル紙芝居を製作することになるのだが、よく言われる「シンデレラ・ストーリー」というのは、女性からしたらとても失礼な話だったのかもしれない。シンデレラは王子様に見められて結婚することで幸せになり「めでたしめでたし」ということになるわけだけれど、大金持ちの男性と結婚することがゴールとされている点で、「恋愛・結婚・出産」という既定路線をさらに強化するものになっている。その点で佳純は「シンデレラ」に違和感を抱くことになるのだ。新解釈の「シンデレラ」は、そんな古い価値観に疑問を呈する形になっているのだ。

(C)2022「そばかす」製作委員会

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逃げるが勝ち?

「恋愛・結婚・出産」という価値観が世間一般であることは、社会を運営していく上では当然のことなのかもしれないけれど、それでは代替する価値観があるのかというとそんなわけでもないのかもしれない。新解釈の「シンデレラ」は世間の価値観を否定するところまでで終わっていて、新しい価値観を提出するまでにはなっていない。これは当然と言えば当然で、そこから先に何を見出すかということは人それぞれで、個々人の問題だからだろう。

佳純はトム・クルーズの映画では『宇宙戦争』が好きなのだという。この映画のトム・クルーズはごく普通の市民であり、宇宙からの侵略者に対して何の抵抗手段もなくひたすら逃げるしかない。トム・クルーズの走りがカッコいいことは誰もが言うことだけれど、逃げているトムが素敵というのはおもしろい。確かに『ミッション:インポッシブル』シリーズでは作戦の成功に向って走り続けているわけで、単に逃げているのは『宇宙戦争』くらいなのかもしれない。

ここで佳純がトム・クルーズに託して言っているのは、逃げることは悪くないということだろう。世間の「恋愛・結婚・出産」という価値観と正面切って闘うのは大変なわけで、こちらには逃げる手もあるというわけだ。

本作では、家族が揃う食卓で佳純はカミングアウトをすることになる。口うるさい祖母(田島令子)に、うつ病で固まっている父親(三宅弘城)に、甲斐甲斐しく世話を焼く母親など、この家の食卓は色々と賑やかだ。妹夫婦の不倫疑惑で騒ぎになっているところへ、佳純にとばっちりが回ってくる。妹(伊藤万理華)は佳純が結婚しないのはレズビアンだからだとぶちまけるのだが、世間的には異性愛者でなければ同性愛者だろうというくらいの憶測までがせいぜいで、アセクシャル・アロマンティックというところまではたどり着かないのだろう。

そんなドタバタ劇が繰り広げられる中で佳純は「恋愛感情を持てない」ことを告白するけれど、それがアセクシャル・アロマンティックであるということまで家族が理解したとは思えないわけで、そうなると一時的に実家から逃げたほうが楽ということになるのだろう。

(C)2022「そばかす」製作委員会

非当事者の思い込み?

“愛”の対義語は“憎しみ”ではなく“無関心”だと言う。性的にも他者に惹かれないし、恋愛感情も持たないということは、他者に対して無関心になるということのようにも感じられていたのだが、本作の展開は非当事者のそんな誤解を否定しているのかもしれない。

佳純はお見合い相手(伊島空)と意外にも意気投合することになるのだが、結局は相手側が性的接触を求めてきたことでダメになってしまう。それでも佳純はごく普通に彼とラーメン屋巡りなんかをしているところを見ると、アセクシャル・アロマンティックであってもひとりきりでいたいというわけではなく、パートナーを欲してもいるということらしい。

そのことはその後に登場する前田敦子扮する世永真純との関係を見てもわかる。佳純は昔の同級生であった真純と急速に接近し、親交を深めていくことになり、一緒に住む計画を立てることになる。それは真純のほうが彼氏とヨリを戻すことでうやむやになってしまうのだが、佳純はひとりきりで生きていくことよりもパートナーがいたほうがいいと考えているのだ。

誰かのことを好きになったり、惹かれたりするということは、ごく当たり前のことのようにも感じられるけれど、アセクシャル・アロマンティックの場合はそうではないとされる。だとすれば、ひとりで生きていくことに満足感を抱いているのではないか感じられるし、もっと言えば人間嫌いみたいな人を勝手に想像してしまっていたのだが、そんなわけではないようだ。

補足しておけば、そんなふうに言っている私自身はどちらかと言えばコミュニケーションが苦手で、ひとりで映画館を巡っていることで満足感を覚えてしまうような人間だから、そんなふうに感じていたのかもしれない。

(C)2022「そばかす」製作委員会

そばかすなんて気にしない

先ほど触れたNHKのサイトでは、アセクシャル・アロマンティック当事者にアンケートをしていて、「パートナーを望まない」と考えている人は2割程度で、半数以上の人がパートナーを望むと考えているらしい。恋愛感情を持つこともなく、性的に惹かれることもないけれど、パートナーは必要というのはどういうことなのだろうか。非当事者としては、素朴にそんな疑問を感じたりもした。

本作の佳純と真純との関係は、何事にも物怖じすることなく、世間の価値観とも闘おうとする真純に対し、佳純が憧れのようなものを抱いているように見える。そんな関係がパートナーにつながることもあるということを示そうとしているのかもしれない(ほかにもゲイの友人も登場するから、その彼との関係にも可能性があったかも)。

ただ、これは現実的にはなかなか難しい問題もあるのかもしれない。片方がアセクシャル・アロマンティックの当事者ではない場合は、その関係はどうしても非対称な関係になってしまうわけだから。

そうなるとアセクシャル・アロマンティック同士の関係が望ましいのかもしれない。最後に唐突に登場する北村匠海が演じる男性は、アセクシャル・アロマンティックであるのだろう。彼は佳純が製作した新解釈「シンデレラ」を見て、自分と同じことを考えている人がいたという共感を表すことになるのだ。

しかし、この共感は、他者に惹かれないことに対する共感なわけで、そのふたりが結びつくのはなかなか難しいということになる。だから二人は緩い結びつきを確認するだけで別々の道を往くことになり、佳純はひとりで走り出すことになるのだ。

脚本のアサダアツシは、『his』の脚本も書いていた人だから性的マイノリティに関しては詳しい人なのだろう。本作もアセクシャル・アロマンティック当事者の“あるある”をうまく整理してくれているんじゃないだろうか。そんな意味で学ぶところの多い映画だったと思う。

三浦透子はとても自然体で佳純を演じていて好感が持てる。前田敦子『もっと超越した所へ。』でも色々と怒っていて彼女のまくし立て方がとても心地良かったのだが、本作でも議員をやっている父親に対して衆人環視の中でまくし立てる。しかしこの場面は、熱弁をふるう前田敦子の顔を無視して、それを見守る主人公佳純に焦点を当てているのがちょっともったいないような気もした。前田敦子にとっては見せ場だっただけに……。

タイトルは主人公のあだ名なんだろうか? 誰もそんな名前で呼ばないわけだが、古臭い世代としてはこのタイトルを見ると「そばかすなんて気にしないわ。鼻ぺちゃだってお気に入り」と歌うアニメ『キャンディ キャンディ』を思い出す。ありのままの自分を肯定するという意味合いも込められているのかもしれない。

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