『猫と塩、または砂糖』 常識外れか非常識か

日本映画

監督・脚本・編集は劇場長編デビューとなる小松孝。2016年に『食卓』という作品で、ぴあフィルムフェスティバル「PFFアワード」グランプリを受賞し、本作はそのスカラシップ作品として製作されたもの。

物語

僕の職業は、猫である。
いい大学、就職、出世、結婚、子育て、マイホーム……社会の多数派の常識が指し示すそれらの“幸せのベクトル”に背を向け、自主的に母のペットとなった32歳の僕。アル中の父、慎ましい母とともに実家で淡々と暮らしていたが、突然、母の元カレで金持ち紳士風の男とその娘の“白いアイドル”が同居することに。狭いひとつ屋根の下、5人それぞれが幸せを求めて右往左往する中、僕が選んだ生き方とは……。

(公式サイトより抜粋)

お母さんのための猫

僕の職業は、猫である。とはいえ、なかなか理解しがたいかもしれないが、猫なのである」。そんなふうに始まるこの作品は風変わりなホームコメディだ。

主人公・佐藤一郎(田村健太郎)はアインシュタインに感化され、世間の常識を疑うということを学んだらしい。それからというもの、一郎は世間で常識とされていることを疑ってかかり、普段は塩を使うべき料理に砂糖を使ってみたりするという実験を繰り返してきた。どちらも白い色をしているが、使うべきものを間違えれば普通はとんでもないことになるわけだが、試してから考えるのだ。

一郎も一度は社会の正規ルートに乗ってはみた。しかし、そこには彼にとっての幸せはなかったらしい。そして、一郎が見つけたのが「お母さんのための猫」になるということだったのだ。一郎がやることと言えば、お母さん(宮崎美子)の買い物につき合うことくらい。あとはほとんど家の中でゴロゴロしている。

それでも飼い主のお母さんが別室にいても、ペットである自分の様子が確認できるようなシステムを作り上げたりもする。これは一郎がお母さんにとっての愛玩動物であることに自覚的だからこそのシステムであり、彼はプロとして猫という仕事をこなしているのだ。

(C)2020 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

ふたりの闖入者

そんな佐藤家に闖入者がやってくることになる。たまたま行ったバスツアーで出会ったお母さんの元カレである金城(池田成志)と、その娘の絵美(吉田凜音)だ。このふたりは身なりはきちんとしているのだが、実は破産者であり、海で自殺を図ったもののふたりして生き残ってしまう。そんなふたりが一郎の家に転がり込んでくるのだ。

お母さんは旦那(諏訪太朗)がいるにも関わらず元カレと同居することになるわけで、かなり異常な事態だ。しかしながら、旦那はアル中で、常に飲酒していて自分の部屋に閉じこもっている。

もともと佐藤家は、お母さんとそのペットの一郎というペアと、アル中で常に酩酊状態の父親は、別のユニットみたいなものだ。ふたつのユニットがそれぞれバラバラに暮らしているという状況だったのだ。それだから、お母さんの元カレとその娘という新しいペアが闖入してくる余地があったということになる。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2020 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

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常識を疑え!

『猫と塩、または砂糖』(以下『猫塩』)は設定からしてかなり風変りだ。一郎が「常識を疑え」ということをモットーとしているように、本作を生み出した小松孝監督自身が常識に囚われていないからなのだろう。

一郎は職業を猫だと語るが、これは一般的にはニートということになるだろう。そして、小松孝監督自身も元ニートだったという。社会復帰のリハビリとして自主製作で『食卓』という作品を撮り、それが「PFFアワード」グランプリを受賞し、本作で長編デビューを果たしたということらしい。

一郎の姿は、世間一般のニートのイメージとは異なる。ちなみに『食卓』では、ごく一般的なイメージのニートが登場する。『猫塩』は、そうした世間一般のイメージとは違うところを狙っているのだろう。

一郎は家にゴロゴロしているだけなのにいつも身だしなみを整え、とてもこざっぱりとしている。常にネクタイを絞めているのも、猫というのが職業であるという矜持からだろう。要は、一郎は世間の常識に反して、ニートでいることが正解だと考えているのだ。

しかしながら、一般的にはニートであることに積極的な意味を見出すことは難しいわけで、本作が常識的な映画だったとするならば、ニートという状態を否定する方向に展開することになるわけだが、本作はそうした常識からは自由なので、そうはならないのだ。一郎は一度は職を得ることになるけれど、結局はそれは自分にとっての幸せにつながらないことを再確認し、再び「お母さんのための猫」に戻ることになるのだ。

というのも、お母さんは一郎と共依存の関係にあるからだ。金城と娘の絵美の闖入により、一時、佐藤家の関係性は変化する。それまでのペア関係は解消され、お母さんは金城と接近し、一郎は絵美と親しくなっていく。そうしてかつてのペアとは別のペアができあがる。

そうなると一郎もお母さんのための猫である必要性がなくなり、絵美との結婚を見据えた一郎は仕事のために家を出ていくことになる。その結果生じたことは、お母さんのメンタルの崩壊だ。お母さんが精神的に不安定なのをうまく抑え込んでいたのが、猫である一郎だったというわけだ。ようやくそれに気づいた一郎は「お母さんのための猫」に戻り、さらにはアル中を克服しようとしていた父親もそれをあきらめ、結局は佐藤家は元の状態へと復帰することになるのだ。

(C)2020 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

変化か現状維持か

この結末は『食卓』(U-NEXTにて配信中)ともよく似ている。『食卓』では、ニート詩人の主人公は、年金生活の父親とのふたり暮らしだ。このふたりはほとんど没交渉で、家と車とクレジットカードを共有しているだけのシェアハウスのような状態で暮らしている。

そこに闖入者として新しいお母さんがやってくる。一度は家庭的な食卓を囲んだりもするのだが、それはふたりの口に合わず、主人公もその父親もそれぞれ自分勝手に過ごすことになり、最終的には3人のシェアハウス状態が形成されることになる(この3人は『猫塩』にも顔出ししている)。一度は変化を試みたものの、結局は元のところへ戻ってきてしまうのだ。

『猫塩』では、一郎は染物職人として働くことになるのだが、そこで一度染めてしまったものが元に戻るか否かという疑問を抱く。しかしながら、白い生地を一度染めてしまったら、同じ状態には決して戻ることはない。この考察は、常に白い服を着ていた絵美についてのことでもあるわけだが、それと同時に佐藤家のことでもあったのかもしれない。

お母さんは一郎が家を離れている間に精神を病み、戻ってきた後もかつてと同じ調子ではなくなっている。ここには変化に対する恐怖というものが感じられる。でもそれはごく常識的な見解とも言えるわけで、本作はもっと非常識なことまで言わんとしている。それは変化なんかしないほうがいいし、現状維持こそ素晴らしいということなのかもしれない。ニートという状況すら、それが佐藤家において経済的に問題ないのであれば構わないじゃないかということなのだ(絵美の場合は無一文だから変わらざるを得ないだろうが)。

常識的な映画ならば、劇中で起こる出来事によって主人公が成長するというパターンが一般的だろう。本作はそんな常識を疑い、結局元のままが一番心地いいよねというところに落ち着くことになる。これはなかなか大胆で常識外れの映画と言えるかもしれない。

正直に言うと、『食卓』と比べると、『猫塩』はやや間延びしているようにも感じられた。『食卓』はほとんど会話がなくサイレント映画のようで、とてもリズムがよかったのだ。それでもデイトレーダーに転身しようとして失敗した元ニートという、監督のプロフィールには興味をひかれる。似たような経歴の監督ばかりでは似たような作品が量産されることにもなりかねないわけで、変わり種の監督がいたほうがおもしろい。

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