中島みゆきの「糸」という曲から着想されたという作品。
脚本は『永遠の0』などの林民夫、監督は『ヘヴンズ ストーリー』『友罪』などの瀬々敬久。
初めて出会った時の言葉は?
平成元年に生まれた高橋漣(菅田将暉)と園田葵(小松菜奈)は、故郷の北海道美瑛で13歳の時に初めて出会う。葵は母親の彼氏から虐待を受けていて生傷が絶えないという状況で、漣はそんな葵を助けようとするものの、まだ幼く何の力もない漣は葵を守ることはできずに引き離されてしまう。
それからふたりは何度も偶然の再会を果たしつつも、何度もすれ違いを繰り返すことになる。そしてラストに設定されているのは、平成が終わり令和の時代を迎えるカウントダウンの真っ最中。平成の始まりから終わりまでを辿る物語となっている。
平成の約30年という時間を振り返るという意図に、中島みゆきの楽曲「糸」を結びつけたこの作品。「糸」という曲は、縦糸のあなたと横糸の私が織りなす布が、誰かを暖めうるかもしれないと歌われる。本作の主人公漣は初めて逢った葵に「大丈夫?」と声をかける。自分が自転車でド派手に転んでおきながら、葵の腕の包帯を気にする様子に葵は惹かれることになるのだが……。
平成史を振り返る
平成という時代を振り返る本作では、当時の出来事が描かれることになるわけだが、それがふたりの話とうまく結びついてこないところが本作の難点のように感じられた。
具体的にはリーマン・ショックと東日本大震災が描かれることになるわけだが、リーマン・ショックでは葵の彼氏の水島(斎藤工)がその煽りを受けて遁走し、東日本大震災では漣の友人である竹原(成田凌)の二番目の妻である利子(二階堂ふみ)がPTSDに苦しむことになる。もちろんそれは平成史における大きな出来事ではあるのだが、それがふたりに決定的な何かとなったようには見えないし、そうした出来事がダイジェストのように扱われるだけで、ふたりの物語を寸断してしまっているようにしか感じられないのだ。
たとえば『フォレスト・ガンプ/一期一会』も1950年から1980年という約30年を描いているのだが、それが違和感なく受け入れられたのは、様々な出来事が起きても、それらにすべてガンプという主人公が関わっていたからだったんじゃないだろうか。ベトナム戦争があり、ウォーターゲート事件があり、アップルの上場があったりもするわけだが、それにたまたま関わっていたのがガンプだったという設定で、アメリカの歴史を描くというテーマは明確だったように思える。それに対して『糸』では、ふたりの物語と平成史の重大な出来事が縒り合わさってこないから、かえってふたりの物語を寸断しているように感じられてしまうのだ。
そんなわけであまり言うべきことも少ないのだが、良かったシーンとしては、普段はクールに見える小松菜奈が泣きながらカツ丼を頬張るところ(あれはソースカツ丼なんだろうか)。海外で友人に裏切られ、それでも大丈夫と自分を励ますために日本料理屋でカツ丼を注文すると、店内には「糸」が流れている。そのカツ丼があまりにマズくてかえってほほ笑んでしまうのは、ここは日本じゃないんだということを如実に感じたからなのだろう。漣は「北海道に留まって頑張る」と宣言していて、一方の葵は「世界を飛び回る」と言ってみたわけで、手酷く裏切られることにはなったけれど、漣に言ったように自分は海外に出て頑張っているということを実感できたからこその笑みだったんじゃないだろうか。
ふたりの物語の結末
ふたりは紆余曲折を経て、平成の終わりに再び出逢うことになるわけだが、あまりに都合の良い展開のように思えてしまった。「糸」の歌詞からすれば、複雑に絡み合うあれこれが、後から振り返ると必然に思えるということなのかもしれない。
とはいえ、漣は奥さんの香(榮倉奈々)を亡くして独り身になり、葵はたまたま美瑛に舞い戻るなど偶然すぎるだろう。しかもその再会のきっかけとなるのが「泣いている人がいたら抱きしめてあげなさい」という亡くなった香の教えを守っている健気な娘の泣かせるエピソードで、ベタな上にもベタな展開を見せるところはちょっとやり過ぎに思えた。
菅田将暉と小松菜奈の競演作としては、本作が三作品目ということ。実際にお付き合いしているとか何とか噂されているふたりだけに、本作のハッピーエンドはご祝儀みたいなものなのだろうか。『ディストラクション・ベイビーズ』ではふたりは殺し合うことになる役柄だったし、『溺れるナイフ』では悲恋に終わる関係だった(ラストは幻だったから別として)わけで、本作では小松菜奈のウェディングドレスも拝めるということで、とてもおめでたい作品とは言えるかもしれない。
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