『夜、鳥たちが啼く』 そう考えただけで……

日本映画

原作は『そこのみにて光輝く』などの佐藤泰志の同名短編小説。この短編は短編集『大きなハードルと小さなハードル』に所収されているもので、映画では単行本に所収されているほかの短編からのエピソードも交えて改変されている部分も多いようだ。

監督は『愛なのに』などの城定秀夫

脚本は『そこのみにて光輝く』、『グッバイ・クルエル・ワールド』などの高田亮

物語

若くして小説家デビューするも、その後は鳴かず飛ばず、同棲中だった恋人にも去られ、鬱屈とした日々を送る慎一(山田裕貴)。そんな彼のもとに、友人の元妻、裕子(松本まりか)が、幼い息子アキラを連れて引っ越してくる。慎一が恋人と暮らしていた一軒家を、離婚して行き場を失った2人に提供し、自身は離れのプレハブで寝起きするという、いびつな「半同居」生活。自分自身への苛立ちから身勝手に他者を傷つけてきた慎一は、そんな自らの無様な姿を、夜ごと終わりのない物語へと綴ってゆく。書いては止まり、原稿を破り捨て、また書き始める。それはまるで自傷行為のようでもあった。

(公式サイトより抜粋)

昭和時代の男と女

公式サイトのストーリー欄にあるように、主人公の慎一(山田裕貴)と裕子(松本まりか)は“いびつな「半同居」生活”をすることになるわけだが、ふたりはちょっと訳アリな関係だ。慎一は自分の荷物を運び出し、母屋の隣にあるプレハブで寝泊まりすることになる。母屋――といってもプレハブとあまり変わらない安普請なのだが――を明け渡したのは、そこに裕子とその息子のアキラ(森優理斗)がやってくることになったからだ。

もともとそのプレハブは、売れない小説家である慎一が執筆のために使っていた場所だ。慎一は束縛癖があるくせに、独りになりたい時もあるという厄介な男なのだ。今では元カノと別れ、一人暮らしだった慎一にはそのプレハブは必要なかったわけだが、それが裕子を受け入れるために役立つことになる。裕子は離婚をしたために、一時的に居場所がなくなったということらしい。

ふたりがどんな関係なのかは、慎一の過去が描かれるにつれて明らかになっていく。『夜、鳥たちが啼く』は、現在時から過去への移行がとてもスムーズだったのが印象的だ。カーテンの開け閉めというきっかけや、裕子が歩いていく場面がそのまま過去へとつながるなど、今年は4本も監督作品が劇場公開されている(そのほかに脚本まで書いている)城定秀夫の演出はとても手慣れている。

原作短編が発表されたのは1989年とのこと。昭和最後の年であり、平成の始まりの年だ。だから本作には昭和感が満載だ。ビールが何度も登場するが、常にびんビールであり、詮を抜いてコップに注いで飲むことになる。その意味では古臭い男と女の話と言える。それでも2010年の『海炭市叙景』以降、佐藤泰志原作の映画が次々と公開されているのは、古臭い中にもどこかで普遍的なものがあるからなのだろう。

(C)2022 クロックワークス

傷を嘗め合うふたり

過去の慎一は今以上に自暴自棄だったようだ。元カノの文子(中村ゆりか)に対しては束縛が酷く、彼女の周囲にいる男性に対する嫉妬に狂い、挙句の果ては暴力行為に及ぶことになる。文子はそんな慎一にこれ以上ないくらいの冷たい視線と「かおもみたくない」という書置きを残して去ることになる。

こういった過去の慎一の姿を見れば、どんな女性でも耐えられないことは明白だろう。さすがに今の慎一はそこから少しは学んだらしく、裕子との関係では先に進むことを躊躇しているように見えるし、束縛しないことを前提にしているようでもあり、それが裕子との関係を複雑にしている。

もともと裕子は慎一が世話になった先輩(カトウシンスケ)の奥さんだったようだ。慎一に対して親身になってくれていたらしきその先輩は、実は慎一の彼女だった文子とも仲が良く、いつの間にか先輩が文子と結婚することになり、裕子は離婚を余儀なくされる。つまり慎一と裕子は捨てられた者同士ということになるのだ。

劇中の台詞にもあるように、ふたりは「傷を舐め合う」ようにして付き合うことになる。多分、裕子が母屋に転がり込んできた時点で、そうなることはある程度予想されていただろう。隣に住む大家のおばさん(藤田朋子)は裕子のことを慎一の新しい奥さんだとみなしている。男女が一緒に暮らすということは、世間的に見れば結婚ということにつながるからだ。

(C)2022 クロックワークス

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夜啼く鳥は病んだ鳥?

本作では、近くの幼稚園で飼っているとされる鳥が夜中に不穏な啼き声を響かせる。佐藤泰志の小説を詳しく読んでいるわけではないので推測だが、鳥の姿は主人公の姿と重ね合わせられているようだ。

『きみの鳥はうたえる』ではタイトルに鳥が登場しているけれど、これはビートルズの曲に由来するもので実際に劇中に鳥は出てきてなかったと記憶しているが、『オーバー・フェンス』には逃げられるにも関わらず檻の中から逃げ出そうとしない鳥のエピソードがあった。ここでは主人公と鳥の姿が重ね合わせられていたのだろうと思う。

本作の鳥の啼き声は、裕子が夜遊びをして行きずりの男と飲み歩いているシーンに重ね合わせられている。本来は夜に啼くべきではない鳥と同様に、子供のことを放り出して夜な夜な男を漁りに出かける裕子はどこか病んでいるということなのだろう。

それに関しては、慎一も同様だ。昼間は別の仕事で生活費を稼ぎつつも、夜中に独りプレハブに籠ってダラダラと小説を書き続けているからだ。慎一はかつては若くして文学賞を獲得した小説家だったけれど、今では書いても売れるかどうかもわからない。それでも慎一は自分の過去の出来事のことを小説に書き続けている。それに関して裕子に問われると、慎一は「終わらせたいから」と語る。そんなふうにして書き続けなければならない何かを抱えた慎一もどこか病んでいるのだ。

(C)2022 クロックワークス

奇妙に明るいラストは?

先ほど「病んでいる」と記したのは精神的な病というよりは、世間が考えているルールからどうしてもズレてしまうところがあるという意味だ。そのことは「だるまさんがころんだ」のエピソードにも示されている。

「だるまさんがころんだ」は慎一と裕子とアキラが、ほかのたくさんの子供たちと楽しい時間を過ごしたというエピソードでもあるけれど、その一方でその遊びのルールから外れてしまう子供たちがいることも示されている。しかし、裕子はその子供たちを擁護する。裕子は、そんな子供たちの一時のバカな振舞いは、すぐに元に戻るはずだと語る。

これは裕子と慎一のことでもあるのだろう。いびつな半世同居生活をしているふたりは、どうしても世間のルールからズレてしまっている。ふたりは夜中に啼く鳥と同様に病んでいたのかもしれないけれど、今ではふたりは付き合うことになり夫婦みたいに暮らしているのだ。

ただ、それは実際には家族のフリでしかない。慎一と裕子は結婚すらしていないからだ。それにも関わらず、ふたりは家庭内別居中の夫婦として振舞うことになる。本作はそんな家族ごっこをしたまま、どこかでそれに希望を見出したようにして奇妙に明るく終わることになる。

しかし、本作では慎一はこんなことも言っている。慎一は「でも、そう考えただけで素晴らしいじゃないか」という終わり方をする小説を読んだと裕子に語るのだ。「そう考えただけ」というのがミソであり、つまりは考えただけでそれは実現しなかったということでもある(原作にはそれがもう少し明確に書かれている)。

もしかするとこの家族ごっこもそういうものなのかもしれない。慎一と裕子は家族になれるかもしれない。そんなふうに考えたことは素晴らしいけれど、実際はどうなるのだろうか?

原作者・佐藤泰志の最期は自死だったらしいが、なぜかその小説のラストは奇妙に明るいものもあるようだ。『オーバー・フェンス』や『草の響き』なども主人公の境遇が劇的に変化したわけではなくとも、ラストはそれと不釣り合いなほど希望を感じさせるような明るさがある。佐藤泰志は自身が現実世界では感じることが叶わなかった希望を、小説の中の主人公には与えたかったということなのかもしれない。

慎一を演じた山田裕貴は、長めの前髪に隠れがちな鋭い眼光が奥に秘めた危なさを示しているようだった。裕子役の松本まりかは表情は明るいのだが不安定な感じがして、夜な夜な遊び歩く病んでいる姿に説得力を与えている。そんなふたりの濡れ場も、ピンク映画で場数を踏んでいる城定監督だけにとても艶っぽく仕上がっていたと思う。

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