『あのこは貴族』 寸止めの美学?

日本映画

原作は『ここは退屈迎えに来て』『アズミ・ハルコは行方不明』などの山内マリコの同名小説。

監督・脚本は『グッド・ストライプス』岨手そで由貴子

物語

東京に生まれ、箱入り娘として何不自由なく成長し、「結婚=幸せ」と信じて疑わない華子。20代後半になり、結婚を考えていた恋人に振られ、初めて人生の岐路に立たされる。あらゆる手立てを使い、お相手探しに奔走した結果、ハンサムで良家の生まれである弁護士・幸一郎と出会う。幸一郎との結婚が決まり、順風満帆に思えたのだが…。一方、東京で働く美紀は富山生まれ。猛勉強の末に名門大学に入学し上京したが、学費が続かず、夜の世界で働くも中退。仕事にやりがいを感じているわけでもなく、都会にしがみつく意味を見いだせずにいた。幸一郎との大学の同期生であったことで、同じ東京で暮らしながら、別世界に生きる華子と出会うことになる。2人の人生が交錯した時、それぞれに思いもよらない世界が拓けていく―。

(公式サイトより抜粋)

分断か連帯か

格差社会を描いた作品は数多い。

『ザ・ハント』はアメリカの貧しい保守層がリベラルエリートに殺される映画として、トランプ元大統領を激怒させたとされる。それでも映画で描かれることは「エリートvs.庶民」の闘いであり、富裕層と貧困層を分断させて闘わせようとする点で似た者同士だったような気がしないでもない。

アカデミー賞の作品賞を獲得した『パラサイト 半地下の家族』や、つい最近の『プラットフォーム』などでは、富裕層と貧困層は分断され、残された少ないパイを巡って貧困層同士が醜い争いを繰り広げることになった。

日本映画でも『愚行録』では、慶応大学におけるエリートである“内部生”と、試験で合格したたたき上げの“外部生”という階級の差が描かれたりもしている(『あのこは貴族』においても慶応大学の階級に関して触れられている)。その『愚行録』でも“内部生”と“外部生”は殺し合うことになっていた。

格差がテーマとされる時には必ず闘いがついて回るようだ。固定化された富裕層と貧困層の差をぶち壊すには、革命的な闘いが必要とされるということなのかもしれない。そんな作品群と並べてみると、『あのこは貴族』はちょっと毛並みが違っている。本作では上流階級の華子(門脇麦)と、庶民である美紀(水原希子)というふたりの女性を通して格差社会を描きながらも、そんなふたりが連帯感を抱く話だからだ。

(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会

別の種類の女

劇中でも触れられるのだが、華子が住む東京の松濤あたりでは棲み分けがなされているから、華子のような裕福な人たちは庶民と出会うことはほとんどないとされる。実際に華子は同じような階層の人たちの中で生きてきたらしく、自分のことが裕福だという意識はない。周囲の友達たちもみんな裕福で、ホテルで高価なアフタヌーンティーを頼むことを特別なこととも思っていないのだ。

そんな華子はなりふり構わぬ“お相手探し”の末に出会うことになったのが、二枚目弁護士の幸一郎(高良健吾)だ。その幸一郎を介して、華子と美紀は知り合うことになる。

幸一郎にとって美紀は“セフレ”と言っては言い過ぎかもしれないが、要は結婚相手にはふさわしくないが遊ぶにはちょうどいい女性だったということなのだろう。

幸一郎は名家の出身で、政治家になって親の地盤を引き継ぐことも決まっている。さらにそれは自分の跡継ぎにも引き継がれることになるわけで、家のためには家柄も育ちも申し分のない女性が求められることになり、そこで幸一郎が選んだのが華子だった。幸一郎にとって華子と美紀は別の種類の女性ということなのだ。

(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会

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女性たちの群像劇

華子の婚約者である幸一郎に別の女性・美紀の存在が明らかになったわけで、通常ならば女性同士の闘いが繰り広げられるところだろう。ところが案に相違して、ふたりの邂逅は平穏のまま終わる。

華子と美紀を引き合わせたのは、華子の友達である逸子(石橋静河)。逸子は世間が女性たちを分断するような風潮があることを好ましく思っておらず、女性たちが連帯して互いに助け合うことを望んでいるのだ。

逸子は華子と同じように裕福な家庭に育ちながらも、ヴァイオリニストとして自立した生き方を目指している。結婚に対する考え方も進歩的で、「いつでも別れられる自分でいる」ということを重要視している。結婚して相手に頼りきりになり、そこから抜け出せなくなるような自分になることは望まないということなのだ。「いつでも別れられる」けれども、それでも一緒にいたいと思えば結婚するということになるのだろう。華子はそんな逸子に影響されて、自立した女性を目指すことになる。

また、美紀には里英(山下リオ)という友人がいる。里英は東京に出てきて搾取されている田舎者という感覚を美紀と共有していて、後に起業に美紀を誘い、一緒に働くことになる。そして働く美紀の姿は、華子にも影響を与えることになるわけで、本作ではそんなふうに女性たちが連帯し助け合っていく群像劇となっているのだ。

(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会

どちらが恵まれているのか

本作のタイトルとなっている「あのこは貴族」という言葉は、華子や幸一郎のような富裕層を揶揄して言ったものであり、本作では普段われわれ庶民が出会えないような富裕層の人々の姿が描かれる。

世の中には恵まれた人とそうでない人がいる。恵まれた人はごくわずかで、あとの大多数がそれをうらやむような立場に置かれることになる。そして、幸一郎は誰もがうらやむようなごく少数の恵まれた人である。それでも本作の幸一郎の姿を見ていると、その立場は酷く不自由で息苦しいものであるとも感じさせる。

“ノブレス・オブリージュ”という言葉は、もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」という意味だとか。恵まれた立場にある者は、その分義務も課されるということらしい。幸一郎は裕福な家庭に生まれ、その家督を受け継ぐことを宿命づけられたわけで、自分では夢を見ることすら叶わずにいるのだ。

もしかすると幸一郎にとっては10年間も腐れ縁(?)を続けていた美紀のほうが気が休まる部分もあったのかもしれないのだが、自分の気持ちなど考慮せずに家のことを優先する生き方しかできないように育てられてきたのだろう。それはなかなかキツいものなのかもしれない。

同じように華子も縛られた状態にある。初めて幸一郎の親に挨拶に出向いた時の作法の堅苦しさは、上流階級の面倒くさいところを垣間見させる。華子は和室における正しい作法としていざる(座ったままで進むこと)のだが、それは優雅さや美しさよりも窮屈で不自由なことにしか見えないのだ。美紀が帰省した時にジャージ姿でくつろいでいたのとは対照的な姿だろう。

富裕層には自由がなく、貧困層は経済的には制限されるとしても好き勝手にできる自由がある。「隣の芝生は青い」とも言うし、どちらが本当に恵まれているのかを判断することは実際には難しいことなのかもしれない(しがない庶民としては富裕層をうらやんでしまうけれど)。

(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会

寸止めの美学?

監督の岨手由貴子は本作が商業映画としては第二作とのこと。昨年劇場公開された短編『そこにいた男』(監督:片山慎三)という作品では、脚本を担当していて、この作品は男を巡って女同士が闘う話とも言える(現在はU-NEXTで配信中)。

そこから推測するに『あのこは貴族』における女たちの連帯というテーマは、恐らく原作の山内マリコによるものが大きいのだろうと思う。古臭い感覚と新しい感覚がうまくミックスされているようなところも原作によるものだろうか。

華子は未だに結婚が幸せだと信じている古風な女性だったわけだが、美紀と里英は将来介護される時のために、ふたりでアソコの脱毛をしようなどとはしゃいだりしている。華子が代表するのが古臭い考え方で、美紀や逸子はもっと進歩的で新しい。しかし華子は彼女たちに影響され、新しい感覚を学んでいくことになる。


岨手監督の演出は奇を衒うことなく、とても繊細で、奥ゆかしく、やり過ぎることがない。岨手監督の長編デビュー作『グッド・ストライプス』も鑑賞したのだが、その中でちょっと印象的なシーンがあった。

主人公がコンビニで同僚から説教を受けている女性を目撃する。その女性は、主人公の結婚相手の昔の姿にそっくりで、主人公が何か行動を起こすのだろうと待ち構えていると、結局、何もせずにスルーしてしまう。ただ、何か言いたげな雰囲気は伝わってくる。「寸止めの美学」とでも言えばいいのか、やり過ぎると途端にダサくなることをわかっての演出なのだろう。

『あのこは貴族』における華子と美紀の接点もわずかに二度だけに限定されている。華子と美紀がもっと親密になり意見をぶつけ合ったりするとわかりやすくなるかもしれないし、感情的には盛り上がるのかもしれないのだが、決してそんなことはせずにさらりと描いている。華子と美紀の影響関係も、ほのかにそれを匂わせる程度で済ましている点にセンスの良さを感じる。

それから登場人物の感情を台詞などで説明することも避けている。予告編では、それまでタクシーばかり使っていた華子が、美紀の家で話をした後で歩いて帰る場面で、「初めて自分で歩けた気がした」という注釈をしてわかりやすく説明してくれているのだが、本編では華子の表情にそれを託している。

また、後半では華子はある大きな決断をすることになるが、その決意も台詞ではないもので示されている。歩いて帰る華子がたまたま見かけた自転車に乗るふたりの女性に手を振る場面は、橋の上を舞台にしていた。橋というのは分断されたふたつの土地を結びつけるわけで、華子はもともとは富裕層の出身だけれど、その後に庶民のように自活する生き方に歩み寄ろうする決意を示しているのだろう。

ラストの逸子が出演した演奏会の場面では、華子は政治家となった幸一郎がいる階上から階段を降りていき、その中間の位置で演奏を聞くことになる。階下には観客としての庶民がいて、幸一郎などの富裕層は階上にいる。そして、その間に華子は佇むことになるのだ。台詞で語らせなくとも観客にもその意味合いが何となく伝わるシーンだったと思う。

本作は年末のベストテンなんかでは、映画ファンよりも批評家筋の得票が多くなる類いの作品なんじゃないだろうか。派手さはないけれど、とてもよくできている映画だったと思う。

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