『騙し絵の牙』 主人公は誰?

日本映画

監督は『桐島、部活やめるってよ』『紙の月』などの吉田大八

原作は『罪の声』などの塩田武士の同名小説。

物語

大手出版社「薫風社」に激震走る!かねてからの出版不況に加えて創業一族の社長が急逝、次期社長を巡って権力争いが勃発。専務・東松(佐藤浩市)が進める大改革で、お荷物雑誌「トリニティ」の変わり者編集長・速水(大泉洋)は、無理難題を押し付けられ廃刊のピンチに立たされる…。

速水は、新人編集者・高野(松岡茉優)と共に、イケメン作家、大御所作家、人気モデルを軽妙なトークで口説きながら、ライバル誌、同僚、会社上層部など次々と現れるクセモノたちとスリリングな攻防を繰り広げていく。嘘、裏切り、リーク、告発――クセモノたちの陰謀が渦巻く中、速水の生き残りをかけた“大逆転”の奇策とは!?

(公式サイトから引用)

エンターテイメント作品

単純におもしろかった。そんなふうに言える。主人公・速水の信条が「おもしろければ何でもあり」なのだから、そんな主人公が活躍する映画がおもしろくないわけがない。それでもどこかそのおもしろさや凄さがうまく伝わっていないような気もした。

本作は出版業界の裏側を描いた作品ということになるのだが、その裏側についてあまり詳しく説明しようとはしていない。それでも何が起こっているかはわかる。背景には出版業界の問題があるとしても、「薫風社」で起きていることは、保守派の宮藤(佐野史郎)や江波(木村佳乃)と、改革派の東松(佐藤浩市)と速水(大泉洋)、ふたつのグループの間での派閥争いだからだ。

もうひとりの主人公とも言える高野(松岡茉優)は、保守派である文芸誌の編集部に在籍していたのに、改革派である速水に引き抜かれて、速水と共闘して「トリニティ」という雑誌の立て直しを図ることになる。そんな「薫風社」内部の覇権争いという部分に関してはハッキリとしているのだ。

吉田大八監督は『仁義なき戦い』がお気に入りらしく、『クヒオ大佐』でも冒頭で露骨なパロディをやっているのだが、本作も出版社を舞台にした仁義なき縄張り争いということになるだろう。それぞれが権謀術数を巡らし、嘘偽りだらけの騙し合いを繰り広げる戦いは確かにおもしろい。とはいえ最後は出版業界の改革につながってくるわけで、そこに至ると何が変わったのかという部分はぼんやりとしていたようにも感じられた。

(C)2020「騙し絵の牙」製作委員会

出版業界あるある?

文芸誌は格調高いもので、犯すべからざる聖域だというのが保守派の考えだ。これはリストラが迫られている「薫風社」にとっては最初に崩すべき牙城だと言えるだろう。

文芸誌と呼ばれるものは一番多いものでも10000部という発行部数なのだとか。ほかのものは6000部とか5000部くらい。この数が多いのか少ないのかは難しいところだが、日本の公立図書館の数が3000を超えていることからすると、そこに納品される分がかなりの割合を占めているということは言えるかもしれない。つまりは誰かが興味を持って買うというよりは、図書館などに置かれていることでようやく成り立つ商売とも言える。ほとんど採算は合わないけれど文化の名の下に守られているということだろう。

さらに出版業界がちょっと普通の商売とは違っている点がいくつかある。それが「取次」の存在と、「再販制度」という独自の制度らしい。

「取次」があるおかげで本屋は在庫管理を考えなくても済む分、人気のある売りたい本が十分に納品されないという弊害もある。「再販制度」によって本は価格競争から逃れられる分、安売りしたりすることはできなくなる。

これらの制度があるのは、もしも出版業界も資本主義の競争原理だけに委ねられるとすれば、売れる本しか出版できないことになってしまい、当然ながら売れない文芸誌や小難しい学術書などは一掃されることになってしまう。しかしそれでは日本にとって文化的な損失になるから、多様な出版物が世に出回り、多くの人がそうした本に触れられる可能性を保つためにも、ほかの商品とは別のシステムが必要とされる。そういう意味合いらしい。

ただ、それは一部では弊害があることも確かで、保守派としてはそのシステムに胡坐をかき、自己保身を図るばかりになる。だから改革派としてはそこの牙城を崩して出版業界に風穴を開けたいと考えているわけだ。

(C)2020「騙し絵の牙」製作委員会

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騙し合いの結末

速水が何を企んでいたかという点から振り返ると、速水は先代社長の命を受けて、出版業界の常識をぶち破ることをしていたということになる。その先代社長は映画の冒頭で飼い犬に走らされているうちに死んでしまうわけだが、これは自分が作った「薫風社」という飼い犬が自分ではどうにもならないほどに大きくなり、それに振り回されて死んでいったということなのだろう。

古臭い保守派を代表するのが佐野史郎演じる宮藤で、その宮藤は先代社長が自分の息子の後見人にしている人物でもあるから、自ら追い落とすことは難しい。そのために先代社長が用意したのが東松であり、壊し屋である東松が保守派を退散させることを望んでいた。しかし、その東松も次第に増長してきたのか、先代社長の手に負えなくなり、そこで速水が駆り出されることになった。そんな構図が見えてくる。

そして速水は東松が推し進めていたプロジェクトを否定することになる。実は速水は次の社長と目される伊庭惟高(中村倫也)と裏でつながっていて、アマゾンとの提携という新しい形を提案することになるのだ。

これは今までの出版の形とは違った形態ということなのだろう。「取次」を通さない形で直接本が読者に届けられることになるからだ。それでも出版業界に関して素人である私のような観客には、実際にそれが可能なのか否かも判断できないし、速水たちが成し遂げた改革の凄さがいまいち伝わらず、ちょっとカタルシスには欠けるようにも感じられたのだ。

(C)2020「騙し絵の牙」製作委員会

主人公は誰?

そもそも原作の主人公は速水だったらしいのだが、映画版では松岡茉優が演じる高野の視点も多く、どちらも主人公といった印象だ。なぜそんな改変がなされることになったのだろうか?

速水は「おもしろいことがすべて」という人間で、すべての尺度はそこだから、倫理的には問題がありそうだ。劇中でストーカーを退治しようとして違法な自作拳銃を使って逮捕された城島咲(池田エライザ)のエピソードでは、速水は「作者が犯した罪と作品の評価は別だ」と主張する。

これは今では通用しない論理だろう。たとえば映画監督のキム・ギドクが死んだ時も、映画メディアのほとんどが追悼記事すら書くことができなかったように、映画作家と作品は別物だといった主張は受け入れられない。作品と作者の品格はリンクしていて、監督が「問題あり」ならその作品のことを語ることすら難しくなるというのが昨今の風潮だから……。

ただ、『騙し絵の牙』が本や映画などの作品の価値を守りたいと主張しているわけではないのは言うまでもない。単に速水はそういう論理を使って無理やりその雑誌を出版することで、儲けが出るか出ないかという点だけを気にしている。あくまでもおもしろくなるか否かということだ。速水は出版したほうがおもしろい(=稼げる)と踏んだからそんな論理に訴えたわけで、速水は別の場所ではまったく反対の論理を持ち出すことになるだろう。

そんな意味で際どいところを攻めているのかとも思っていたのだが、最後はそんな速水が高野に一本とられる形になるのは、いつも飄々として笑顔を絶やさない速水の冷徹さを前面に押し出した形で終わってしまったとしたら、観客の共感を獲得するのが難しいと製作陣が判断したのかもしれない。

速水は「(自分が)おもしろければ何でもあり」で、編集という仕事にもあまり情熱を抱いていないのに対し、高野は編集や文芸というものに関して希望を抱いている。そんな高野のような観客が感情移入しやすいキャラが最後で一矢報いないと、作品の倫理上にも色々と問題があると考えたのだろうか? おもしろい話なんだけれど、際どいところを攻めるのかあるいは守りに入るのか、どっちつかずにもなってしまったような気も……。

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