キム・ギドクが死んだ?

外国映画

12月11日(金)の夜、キム・ギドクが亡くなったという報道がなされた。新型コロナウイルスに感染して、ラトビアの地で亡くなったらしい。伝わってきている情報としてはたったそれだけなので、未だにその死が信じられない。

今年のコロナ騒ぎが本格化する前の3月には、最新作の『人間の時間』が公開された。上映していた劇場では、壁にいくつかの記事が貼り出されていて、ギドクはモスクワにいるということが伝えられていた。それからどんな経緯があったのかはわからないが、ギドクは旧ソ連から独立したラトビアという国で永住権を獲得しようとしていたらしい。

韓国で活動することが困難になってしまったのはギドク自身の撒いた種だったのだろうし、そうした事件の被害者にとってはギドクが死んだからって免罪されるものでもないのだろう。そんなわけで『パラサイト 半地下の家族』のアカデミー賞作品賞受賞に象徴されるような韓国映画界躍進の一端を担ったはずのギドクに対しても、その死を悼むことすら疎まれる雰囲気があるようだ。

中にはそれを不快だと考える人もいるようで、彼の映画のファンとして少なからずショックだが、実際に本人に会ったことがあるわけでもないから、何とも言い難いような複雑な気持ちでもある。だから、こんな文章を書くことすら憚られる気もするのだが、追悼の文章を書かなければならないんじゃないかといった思いに駆られるような映画監督がいるとすれば、私にとってはキム・ギドク以外に見当たらないので、批判があるのは承知で一言書いておこうと思う。

 

私にとってはキム・ギドクという監督は特別な存在だ。たまたま『魚と寝る女』を劇場で観て衝撃を受け、その後の『悪い男』『うつせみ』などの作品を観ていくうちに、その独特な世界観にのめり込んでいった。

今では映画ブログなどに手を染め、新作映画をあれこれと追いかけているわけだが、そもそもはキム・ギドクの作品について書きたいと思ったことがきっかけだったのだ。『悲夢』での撮影中の事故により一時映画製作から遠ざかっていた時に、ギドクの過去作品を一気に観直してあれこれと書いてみたものは、『ギドクについての覚え書き』という拙いホームページになって残っている。

それからはブログ形式でほかの映画と一緒にギドク作品も取り上げてきたわけだが、自分が一番の熱意を持って書いてきたのがギドク作品であったことは間違いない。映画ブログのルーティーンにはまると、更新するためにさほど興味がない作品を観に行ったりもするわけだけれど、そんな作品に関してはレビューを書くほど興味を持てないままになってしまうこともある。しかし、ギドクの作品に関しては毎回驚きがあった。作品の出来は様々だし、暴力的で不快だったり、理解不能だったりもするのだが、それでも何かと考えさせられるようなものがあるし、勝手にどこかで自分に近しいものがあるんじゃないかとも感じていた。

批評家の小林秀雄は「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使って自己を語る事である」と書いた(「アシルと亀の子Ⅱ」)。ダシに使う作品がまったく自分と相容れないような作品だとしたら、そこに自分を語るための手がかりを見付けることは難しいわけで、自分にとってギドク作品は自己を語るための材料を提供してくれるものだったような気がしている。

そんなギドクの新作を待つという楽しみが永遠に失われることになってしまったのは残念としか言いようがない。『人間の時間』のレビューを読み返してみると、まるでギドクの遺作としてこれまでを総括するようなものになっているようで不思議な気持ちになった。

ギドクは1996年に『鰐』で監督デビューして以来、2020年までの25年の間に24本の監督作品を生み出している(ほかに脚本のみの作品もある)。実はまだ日本で公開されていない作品もあって、それが2011年の『アーメン』という作品と、『人間の時間』の後にカザフスタンで製作されていたという『딘(Dissolve)』という作品らしい。これが遺作ということになるのだろうか。

追悼の言葉としては「ご冥福を……」などと言うべきなのかもしれないが、言葉が見つからずにいる。「ただただ、信じ難い」としか言いようがない。

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