『人間の時間』 人類の行く末は?

外国映画

キム・ギドクの第23作。諸事情により公開が延期とされていた2018年の作品。

原題は「Human, Space, Time and Human」

物語

客を乗せた退役船が、大海原へと出航する。様々な客が集うなか、地上のくびきから離れたからか、やりたい放題の騒ぎが始まる。そんな一夜の後、船はなぜか空に浮かんでしまう。異次元へと移行してしまった船の乗客たちは、外界から閉ざされた世界のなかで生きていくことに……。

下界で国会議員をしていた男(イ・ソンジェ)とその手下となるヤクザ者(リュ・スンボム)が暴力でもって船を支配する。弱肉強食の世界となった船上では、食料を巡って醜い争いが生じるようになる。

新婚旅行でその船に乗っていた女性(藤井美菜)は、夫のタカシ(オダギリジョー)を殺され、自らはレイプされる。彼女は絶望のあまり自殺を試みるのだが、謎の老人(アン・ソンギ)に助けられることに。

こんな人は避けたほうがいい?

『人間の時間』キム・ギドクの2018年の作品だが、公開が延期となっていたもの。延期となっていた理由は、ギドク自身がスキャンダルに見舞われたからだ。『メビウス』の撮影時に出演予定だった女優に暴力を振るった云々というのがそれで、その後にほかの女優からもセクハラ等で訴えられたりしたもの。

ギドクは暴力については、「役作りのため」と弁明しつつも謝罪したようだ。また、セクハラ等に関しては名誉毀損で逆に告訴したりもしたようだが、それでなくとも物議を醸す作品を送り出している監督だけに、作品だけではなく監督自身も極めて不謹慎な人間だと思われてしまったものらしい。

その意味で監督や製作者に聖人君子であることを求める人は、本作は遠慮したほうがいいのかもしれない。作品が扱う題材も、レイプに死体損壊やカニバリズムなど、およそ顰蹙を買いそうなものばかりだからだ。

それから本作はチャン・グンソクの出演作でもある。劇場には彼のファンらしき観客も見受けられたが、上映後は恐らく「げんなり」としたんじゃないだろうか。韓流スターとしてのチャン・グンソクの姿は本作にはなく、チャン・グンソクはかなりのゲス男を演じることになるからだ。素敵なチャン・グンソクを見たい観客なら本作はよしたほうがいいのかも。

そもそも本作にはツッコミどころが満載である。空に浮かんでしまう船という設定からして非現実的だが、それ以外にもなぜか韓国語と日本語で会話が成立するという奇妙な事態が生じたりもする。これは『悲夢』でもすでにやっていることではあるのだが、こうした不可思議な部分もキム・ギドク作品だからこそだろう。

これに関して勝手に推測してみれば、ギドクはベルリンなどの国際映画祭で上映することを念頭に置いていて、その場合は韓国語でも日本語でも字幕処理されれば特段問題ないということなのだろう。そんな特異な設定も、「キム・ギドク作品だから」という言葉で許される側面があるのは、ギドクがそれなりに世界で評価され、独自の世界を構築してきたからだろうか。しかしながらそんな妙な前提を受け入れられないという人も当然いるだろう。そういった人は避けたほうがいい作品なのかもしれない。

(C)2018 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved.

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人間社会の縮図

その船がどこに向かうのか、なぜ彼らがなぜその船に乗り込んだのかの説明はない。とりあえずは船に乗り込んだ人たちが、そのまま「人間社会の縮図」となっているということは言えるだろう。多くの一般の乗客と、特別な待遇を受ける国会議員とその息子(チャン・グンソク)。さらに有力者に取り入ろうとするヤクザ者と、船という社会の管理者たる乗組員。そして娼婦たちもいる。

まだ船が海の上を航行していた時には、オダギリジョー演じるタカシのように、船のなかでの不平等を訴えるような正義も顔をのぞかせていたわけだが、船が空の上へと移行すると状況は悪くなる。逃げ場もなく閉ざされた空間となった船の上では、弱肉強食の世界が出現することになる。食料が限られた船上では、それを巡って醜い争いが起き、強い者が弱い者を駆逐して生き残っていくことになる。

このあたりはかなり極端に戯画化された描写だが、昨今の新型コロナウイルス騒ぎでは、トイレットペーパーを巡って争いが生じていることからすれば、食べる物がないという極限状態では、食料を巡って殺し合うなんてこともあり得ることなのだろう。

聖書をリニューアル

本作の公式ホームページには藤井美菜が演じる主人公の女性に「イヴ」という名前が与えられ、チャン・グンソクが演じる国会議員の息子には「アダム」という名前が与えられている。そこからもわかるように本作は聖書が題材となっている。そして、一部の人たちが船の上で生き残るという設定は、「ノアの方舟」のエピソードから採られているのだろう。

神は自らと似た存在として人間であるアダムとイヴを創造したわけだが、その後に地上に増えた人類は大いに堕落することになる。それを見た神は、義の人であったノアの家族以外の人類を洪水によって亡ぼすことになる。これが「ノアの方舟」のエピソードだ。本作では新たな「ノアの方舟」が描かれることになる。

閉ざされた船上では力がすべてを支配し、人間の欲望はあからさまになる。力によって食料を奪い、男たちは力でもって女をほしいままにする。本作において最後まで生き残るイヴは、力を持つ男たちの欲望の対象となることで生き永らえるのだが、その代償としてレイプされ妊娠することになる。

※ 以下、ネタバレもあり! 結末にも触れているので要注意!!

(C)2018 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved.

新しい人類の行く末は?

ちなみに本作におけるアダムの役割は、聖書におけるアダムと比べると限りなく低い。アダムは彼の父親である国会議員や、その手下のヤクザ者と同じレベルに留まっているからだ。一応、男としては最後まで生き残るためにその名前になっているわけだが、本作における男の役割は結局タネでしかないとされる。

レイプされたイヴは一度は自殺を試みるものの、船上でみんなが殺し合い人類の存亡がイヴの決断に左右される状況では、人類の存続こそが優先されることになる。ラストでは船上は森のように植物が茂る場所となり、そこで新しい人類の始祖となるイヴとその息子が戯れることになる。

このラストを見た時に最初に感じたのは、人類の未来は最悪なものになるんじゃないかという危惧だった。聖書の「ノアの方舟」では、新しい人類の始祖となるのは義の人であるノアの一族であり、聖書の神は人類を良いほうへとリセットしたのだろう。一方で本作におけるイヴは、神から選ばれた特別な女性のようには見えないのだ。

イヴは弱肉強食の世界を生き抜き、そのために自らの手も汚してきた。土を作るために死体損壊にも手を貸したし、飢えを凌ぐためにアダムの肉をも食べることになった。そして、今後人類の存続を願うとするならば、イヴは自らの息子との近親相姦を余儀なくされることになるわけで、イヴはそれまでの世界でタブーとされてきたことをすべてやってのけることになるからだ。新しい人類の始祖がそんな状態では、子孫はどんな悪辣な人間になるのだろうかと恐れたのだ。

(C)2018 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved.

ギドクという神

しかし、ギドクはそれを「是」とするのだ。本作においてはある老人が重要な役割を果たす。彼は本作における神のような存在で、イヴを自殺から救い、新たな人類の始祖として様々な知恵を授けることになる。卵からヒナを孵し、植物を育て、死体から骨を取り出すことで土を作る。そうした作業によって船のなかに新たな自然を育て、大地の恵みを再現することになるのだ。

この老人がイヴを教え導く。人類存続のために生きることを選ばせ、そのためにイヴに死体を損壊する手伝いをさせ、その肉を食べることをもそそのかす。そして、老人自身も自らの肉をイヴに遺して消えていく。この神はかつての世界でタブーになっていたことをすべて破らせるのだ。

(C)2018 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved.

ちなみにギドクはこの老人を自分の分身のように感じているようだ。本作を司る神であるギドクは、作品内にも登場してわざわざそんなことをイヴにさせているわけだ。これはなぜなのか?

ギドクは本作に関して公式ホームページにこんな言葉を載せている。

世の中は、恐ろしいほど残酷で無情で悲しみに満ちている。

残酷な行為に関するニュースが、世界中で毎日報道されている。

自分自身のことを含め、どんなに一生懸命人間を理解しようとしても、混乱するだけでその残酷さを理解することはできない。そこで私は、すべての義理や人情を排除して何度も何度も考え、母なる自然の本能と習慣に答えを見つけた。

自然は人間の悲しみや苦悩の限界を超えたものであり、最終的には自分自身に戻ってくるものだ。私は人間を憎むのをやめるためにこの映画を作った。

人間、空間、時間…そして人間。

ここでは「母なる自然」というものがクローズアップされている。当たり前のことではあるのだが、人間という存在も自然が生んだものであり、自然の一部なのだ。本作で船上に出現する弱肉強食の世界というのは、とりもなおさず自然のことだ。自然には善も悪もない。自然はただそこにあるだけで、そこではすべてが「是」とされる。

それに対して人間は物事に善と悪を見出し、区別する。そうした考えがタブーを生むことになる。しかし、そもそも自然の一種である人間が、そんな勝手な判断をすることは傲慢なのかもしれない。

ギドクは本作で人類を新たにリセットすることになるわけだが、あまりに利口になり過ぎていた人類を本来の「何でもあり」の姿へと戻してみようとしているのかもしれない。しかもそれを人間本来の姿であるとして肯定しようするのだ。

ギドクは「私は人間を憎むのをやめるためにこの映画を作った。」と語っている。本作における醜い争いに見られるように、人間は欲望に駆られたどうしようもない存在だ。「本能が壊れた」人類は動物以上に「何でもあり」で、タブーなども本来あり得ない。人類の本質がそんなものだとしたら、憎むほどのこともない。そんなふうにギドクは自分に言い聞かせているのかもしれない。

しかし、この考えは自分が犯してしまったスキャンダルに対する言い訳に聞こえなくもないのだが……。

死というものへの理解

本作の国会議員は船上で独裁者として振舞いながら、結局は自分が最後に生き残るわけではないことを理解してもいる。そして自分の肉が食べられることで、次の世代の血肉となることで、死を乗り越えられるとまで吐露するようになる。

『悲夢』において、ギドクは“死”は「別の世界に続く神秘のドア」だと考えていた。しかしその考えは後に否定される。それについてはギドク自身のドキュメントである『アリラン』に詳しい(『アリラン』はよほどのファンでないと耐え難いかもしれないが)。

本作では、ギドクはこの国会議員に「死はない」とまで言わせている。なぜ死がなくなるのかと言えば、自分の肉が誰かに食べられることで、「何か」が次へと受け継がれるからだろう。また、この考えをさらに強化させるために新しい要素として加わったのが「自然」なのだろうと思う。

イヴを教え導くことになった老人は、人間の骨から土を作り出す。さらには死体をそのまま肥しとして植物を育てることになる。ここでは人間は自然の土へと還っていくことが示されている。極端に言えば、人類そのものは絶えたとしても、自然のなかでその命脈は何らかの形で受け継がれているとも言えるのだろう。

死を克服?

『魚と寝る女』の湖に浮かぶ小屋は、本作の空に浮かぶ船の原型となったイメージと言えるだろう。『魚と寝る女』では、湖に浮かぶ小屋は居場所のない男の避難場所としてあったわけで、そこで一時だけ女と憩いを見出すことになる。

しかし、そうした「もたれあい」の関係はすぐに崩れることになる。『魚と寝る女』では、最後に男の「子宮回帰願望」を描くことになるわけだが、これは男の手前勝手な妄想に過ぎず、ふたりの関係はそこで終わるほかなかった。ごくごく閉じられた関係の物語だったのだ。

しかし本作では、船上において一種の社会の縮図を垣間見させている。ギドクは近作の『殺されたミンジュ』では社会における正義の問題を取り上げ、『The NET 網に囚われた男』では韓国という分断国家の政治的な問題を扱っていた。かつてのごく個人的な問題から、社会問題や政治などにギドクの関心が広がっていることを感じさせたわけだが、本作はさらに大きな視点で物事を見ているように感じられた。ラストシーンではカメラは地球の外に出て、神のような視点から地球の姿を見つめることになるからだ。

本作は4章の構成で、それぞれの章は「人間」「空間」「時間」「そして人間」と題されている。最後の「人間」は死を克服して、地球という自然と一体化した人間ということを意味しているのかもしれない。「母なる自然」を重要視することは環境問題から言ってもさほど珍しいことではないのだが、ギドクはそれ以上の何かを込めているようにも感じられるのだが、とりあえず本作ではその端緒が垣間見られたということなのだろう。とにかく「なんてことを考えるんだ」と絶句するしかない突飛な展開で、ファンとしては久しぶりのギドクを堪能した。

『人間の時間』が公開された劇場に貼ってあった記事によると、ギドクは今モスクワにいるとのこと。スキャンダルで本国に居づらくなったのだろうか。そのあたりの詳細はわからないが、まだ元気に映画製作を続けていることが判明してちょっと安堵した次第。

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