『わたしはロランス』、『Mommy/マミー』などのグザヴィエ・ドラン監督の最新作。
グザヴィエ・ドラン初の英語作品。
物語
テレビドラマの人気スター、ジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)が若くして死ぬ。長年彼とファンレターを交わしていた少年ルパート(ジェイコブ・トレンブイ)はショックを受ける。ルパートは彼のことを支えにして生きていたようなものだったからだ。
それから10年の年月が流れ、ルパートはドノヴァンと同じく役者となり、彼とやり取りした手紙を公開した本を出版することに……。
きっかけはディカプリオ
本作は、かつて『タイタニック』で人気者となったレオナルド・ディカプリオに、当時8歳だったグザヴィエ・ドランがファンレターを送ったことから構想された作品だという。ドラン作品はいつも監督本人の個性と切り離せないような作品になっていて、セクシュアリティの問題と母親に対する複雑な感情が描かれるのは本作でも共通している。
本作におけるジョン・F・ドノヴァンというキャラは、スターでありながら同性愛者であることに苦しむことになるわけだが、これは若くして成功を収めたドラン本人とも重なる。さらにもうひとりの主人公であるルパート少年も、かつてディカプリオに憧れたドランそのものの姿であるのであろうし、子役としてキャリアを始めた部分でもよく似ている。つまりはどちらのキャラもドランの分身ということなのだ。
死と生
本作では、成人しジョン・F・ドノヴァンについての本を出版したルパート(ベン・シュネッツァー)が、あるジャーナリスト(タンディ・ニュートン)からインタビューを受ける部分が「枠物語」となっている。そこで語られるのがルパートから見たジョン・F・ドノヴァンであり、テレビ界のスターとは別のものを抱えた姿ということになるだろう。
しかし、手紙の内容は映画のなかではほとんど触れられない。ただ、最後の手紙だけが観客には示されることになるのだが、それによるとドノヴァンは自ら命を絶ち、そのことをわざわざルパートに知らせてきたようにも見える。
似た者同士であるドノヴァンとルパートは、同じように同性愛者であり役者になるわけだが、ドノヴァンは死を選び、ルパートは生を選ぶことになる。というよりも、ドノヴァンの死の詳細を知っていたからこそ、ルパートは生を得ることができたということなのだろう。ルパートはドノヴァンの死から何かを学んだのだ。
ドノヴァンの葛藤
ドノヴァンはテレビ界のスターになり、あちこちでもてはやされるのだが、実際のドノヴァンはテレビのなかの偶像とは異なる。同性愛者であることが表沙汰になれば、スターの座から引きずり落されることになる。だからドノヴァンは好きな男性との関係をもダメにしてしまう。「スターという地位」と「自らのセクシュアリティ」を秤にかけて、ドノヴァンは前者のほうを選択したわけだが、そのこと自体が彼にとって苦痛となり、死を選ぶことになってしまう。
ドノヴァンが同性愛者であることがわかり、そのことでトラブルが生じると、キャシー・ベイツ演じるマネージャーは彼のもとを去っていく。それは彼女が「嘘をつくことができない」からだった。また、冒頭で示されるH.D.ソローの言葉も「愛より金より名声より真実が欲しい」というものだった。
ドランにとっての真実というのは、自分のセクシュアリティに正直であることなのだろう。実際にドラン本人は同性愛者であることをカミングアウトしている。しかし、それでもそのことで苦しんでいる人がいることも確かで、そんな世の中に苛立ってもいるのだろう。
本作の枠物語であるインタビューの場面では、ジャーナリストがドノヴァンの話にそもそも興味を持っていないことにルパートは怒りをぶちまける。これはドランの怒りでもあるのだ。
「世界」と「自分」
本作のジャーナリストは政治問題などを扱うのが使命だと考えていて、仕事とはいえスターのゴシップネタに付き合っている暇はないという態度だ。ジャーナリストとして、よりよく世界を変えることを目指しているのだろう。しかしそれならばルパートにとっても目的は同様で、ドノヴァンや自分のような性的マイノリティの人たちが差別を受け苦しんでいるわけで、ルパートはそれを変えようとしていると訴えるのだ。
思えば前作のタイトルは「たかが世界の終わり」だった。『たかが世界の終わり』は主人公が病気で死ぬことから「世界の終わり」になるわけだが、ここでは「世界の終わり」よりも自分が家族にさえも理解されないことのほうが痛みを伴うものとして描かれていた。「世界」よりもまずは「自分」のことのほうが切実だから、「たかが世界の終わり」というタイトルだったんじゃないだろうか。
ルパート=ドランの怒りもこれと同じで、世界では政治の問題などで苦しんでいる人が多いかもしれないけれど、その一方でごくごく個人的な問題で苦しんでいる人だっているわけで、それは同じように重要なんじゃないか。だからセクシャリティの問題で苦しんだドノヴァンのことも聞く価値があるというわけだ。
演出など
本作はそんなテーマを登場人物の顔にクローズアップで迫る演出で描いていく。これは前作と共通しているわけだが、極端な言い方をすればあまり芸のないやり方とも言える。前作のときも感じたが、外連味のようなものが失われているように思えた。
それでもクローズアップにこだわるのは、ドランが考えるテーマの重要性からすれば表情を追うだけでも十分に魅せられるという判断なのかもしれない。ただ、それが観客にとってはどうかと問われると、ドノヴァンの話に興味がなかったジャーナリストと同様で、ナルシスティックな「個人」の問題を押し出してくる作品を、自分のものとして引き寄せて感じられない人も多いのかもしれない。
そもそも本作はジェシカ・チャステイン主演というアナウンスがなされていた作品で、それが出来上がってみれば彼女のシーンはすべてカットされたのだとか。作品としてまとめるのに苦労したということなのだろう。本作では、「スタンド・バイ・ミー」をバックにした、ルパート少年とナタリー・ポートマン演じる母親との感動的な場面があるのだが、それもどこかとってつけた感があるのは否めなかった。
それから本作はドラン最初の英語作品ということ。『トム・アット・ザ・ファーム』ではアメリカという国に対して批判的にも見えたのだけれど、本作ではアメリカに対する愛情が溢れている。そもそものきっかけはディカプリオだし、冒頭の引用もH.D.ソローだし、ラストでは『マイ・プライベート・アイダホ』そっくりのシーンまで用意している。ドランのアメリカに対する感情は、母親に対する複雑な感情とよく似ているのかも。
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