ベルリン国際映画祭金熊賞&観客賞にノミネートされたイラン映画。
監督・脚本はベタシュ・サナイハとマリヤム・モガッダム。ふたりはプライベートでもパートナーとのこと。マリヤム・モガッダムは本作の主人公ミナを演じている。
物語
テヘランの牛乳工場で働きながら耳の聞こえない幼い娘ビタを育てるミナは、1年前に夫のババクを殺人罪で死刑に処せられたシングルマザー。
今なお喪失感に囚われている彼女は、裁判所から信じがたい事実を告げられる。ババクが告訴された殺人事件を再精査した結果、別の人物が真犯人だったというのだ。賠償金が支払われると聞いても納得できないミナは、担当判事アミニへの謝罪を求めるが門前払いされてしまう。理不尽な現実にあえぐミナに救いの手を差し伸べたのは、夫の旧友と称する中年男性レザだった。やがてミナとビタ、レザの3人は家族のように親密な関係を育んでいくが、レザはある重大な秘密を抱えていた。やがてその罪深き真実を知ったとき、ミナが最後に下した決断とは……。
(公式サイトより抜粋)
死刑制度の問題点
死刑制度は日本では残っているけれど、先進国では廃止されることのほうが多いようだ。そんな中でイランは死刑数が世界第2位とのこと(ちなみに1位は中国)。これには「同害報復」という考え方が関わっているようだ。いわゆる「目には目を」というやつであり、人を殺した者は同じように死刑に処されることになる。
日本での死刑に対する受け止められ方を見てみると、「場合によっては死刑もやむを得ない」と考える人が約80%になるということで、多くの人が死刑を容認しているということになる。それでも、死刑制度には問題もある。それは後になって裁判が間違いだったことがわかった時にもう取り返しがつかないということだ。
『白い牛のバラッド』における冤罪の詳細は軽く触れられるだけであまり重要な部分ではないのだが、とにかくミナ(マリヤム・モガッダム)の夫は無実の罪で処刑され、1年後に冤罪だったことが判明する。裁判を行った側はそのことに対して過失を認めている。そして、日本円にすれば2500万円ほどの賠償金も支払われることにはなるけれど、死刑制度そのものに問題があるということにはならない。
イスラム教徒は「インシャ・アッラー」という言葉を日常的に使うらしい。この言葉を直訳すれば「神が望むなら」という意味とのこと。世の中に起きる出来事のすべては「神の思し召し」ということになり、本作において証人が嘘をついてミナの夫が冤罪で処刑されたことも、それが後になって無実の罪だと判明したことも、すべてが「神のご意志」ということで済まされてしまうのだ。
本作ではミナの夢として、処刑場に立つ白い牛が印象的に捉えられている。イスラム教においては、牛は犠牲として神に捧げられるものとされる。そして、白という色は無垢ということを示す。つまりはタイトルの「白い牛」とは、無実の罪で処刑された夫のことを指しているのだ。
裁く側の罪悪感
ミナは賠償金などでは納得せずに、裁判で判決を下した判事を相手に謝罪を求めようとするのだが、本作の中心となるのはレザ(アリレザ・サニファル)という男とミナとの関わりのほうになる。
突然現れたレザは、処刑されたミナの夫の友人だと打ち明ける。そして、借りていた金を返しに来たと語る。それからレザは、ミナと耳の聞こえない娘のことを色々と気に掛けることになるのだが、実はレザには秘密があったというのが本作のキモとなる。
レザの秘密に関しては、観客にはすぐに明かされることになる。レザはミナの夫を裁いた判事の1人だったのだ。ところがそれが冤罪とわかったことから、レザは罪悪感を覚えたということなのだろう。彼は自分の贖罪のために、ミナの前に現れたのだ。
しかし、レザはそのことをミナに隠している。その意図としては、レザがミナの夫を処刑した張本人だとわかれば、ミナに援助を受け取ってもらえないということだったのかもしれない。
イスラム圏の映画を観ると、女性たちはかなり不自由で弱い立場にあることを度々感じる。本作でも、ミナは親族以外の男性を家に入れたことが問題となって家を追い出されたりすることになるし、未亡人ということを理由に賃貸物件も借りられなくなる。
そうした苦境の中で、なぜかレザだけはミナに親切にしてくれ、空いている部屋を貸してくれたりすることになる。弱い立場に置かれているミナが、親切にしてくれるレザに信頼を寄せるようになり、深い仲へと発展していくのは当然だと言えるかもしれない(ミナがヒジャブを取り去り、口紅を塗るシーンはミナの決断を表している)。
しかしながらミナはレザの抱えている秘密を知らない。ミナがそれを知った時にどうするのか? ミナは夫を処刑する判断を下したレザを赦すことができるのか? 観客の興味としては、その点に集中することになるだろう。
視点のブレ?
監督でもあり主演女優でもあるマリヤム・モガッダムには、父親を政治犯として処刑されたという過去があるとのこと。政治犯としての処刑は、本作に描かれたような冤罪とは異なる。それでも政治犯はその後の政治の動きによって、たとえば政権が変わるとか大きな変化があったとしたら、もしかしたら赦されるということもあったのかもしれない。とはいえそれも生きていればの話であり、死刑にされてしまえば取り返しがつかなくなることは言うまでもない。つまりは本作で訴えたいことは、死刑制度の“不可逆性”ということになるだろう。
ところが本作で中盤を支配しているのは、レザという男の贖罪になっている。レザは知らなかったとはいえ冤罪を導いてしまったという罪悪感に駆られている。そんなレザの葛藤のほうが前面に来てしまっているのだ。レザの息子が兵役に行き死体となって戻ってくるというエピソードも、レザにとっては「神の報い」とも感じられているわけで、ここではほとんどレザが中心にいるとも感じられる。もちろん不完全な人間が人を裁くということにも問題はあるわけだけれど、だとすれば始めからレザを主役として据えるべきだろう。
そして、ミナがレザの秘密を知るのはラスト直前となる。ミナがレザを赦すのか否かという葛藤については、意外とあっさり済まされているのだ。その意味で本作は視点がブレているようにも感じられてしまった。
ラストはヒッチコックの『断崖』の有名なラストと同様のサスペンスとなっている。ミナは毒入りなのかもしれない牛乳をレザへとふるまうことになるわけだが、この結末を観ると、ミナは心情としてはレザを赦すことが出来ていないようにも見えてしまう。つまりは単なる個人的な恨み節みたいにも思えてしまうのだ。たとえばアスガー・ファルハディの『別離』や『セールスマン』のように、イラン社会における問題点を浮かび上がらせるような作品とまではなっていないんじゃないだろうか。
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