脚本・監督はマリヤム・トゥザニ。本作が長編デビュー作とのこと。
原題は「Adam」。
昨年8月に劇場公開され、今月になってソフト化された。
物語
臨月のお腹を抱えてカサブランカの路地をさまようサミア。イスラーム社会では未婚の母はタブー。美容師の仕事も住まいも失った。ある晩、路上で眠るサミアを家に招き入れたのは、小さなパン屋を営むアブラだった。アブラは夫の死後、幼い娘のワルダとの生活を守るために、心を閉ざして働き続けてきた。パン作りが得意でおしゃれ好きなサミアの登場は、孤独だった親子の生活に光をもたらす。商売は波に乗り、町中が祭りの興奮に包まれたある日、サミアに陣痛が始まった。生まれ来る子の幸せを願い、養子に出すと覚悟していた彼女だが……。
(公式サイトより抜粋)
ふしだらな女を助けると
どうしてそんなことになったのかはわからないけれど、サミア(ニスリン・エラディ)は大きなお腹を抱えカサブランカの街に現れ、住み込みでの仕事を探している。とはいえ、そこはイスラム社会であり、未婚の母はタブーとされている。だからサミアのことを助けてくれる人はいない。小さなパン屋を営むアブラ(ルブナ・アザバル)も、サミアから働かせてほしいと言われた時は、人手は足りていると断ってしまう。
マリヤム・トゥザニ監督のインタビューによれば、モロッコでは「婚前セックスや中絶が違法」なのだそうだ。実際にはそれで逮捕されることはないそうだが、一部例外もあるらしい。モロッコのある女性ジャーナリストは、中絶手術をしたことで手術をした医師と共に逮捕されたとのこと。これに関して監督は、「「伝統的なジェンダー規範に外れた女性たちをいつでも逮捕できる」と世間に知らしめるために警察がしたことかもしれません。」と語っている。女性たちにとっては息苦しい社会であると言えるだろう。
劇中、サミアが「ふしだらな女」などと女性たちから非難される場面もあるところをみると、そうした女性を助けたりすると、助けた側も非難を浴びる可能性があるということなのかもしれない。だからアブラもサミアを助けることを躊躇したのだろう。しかしサミアは行くあてもないのか、街角で夜を明かすつもりで道端に座り込んでしまっている。そんなサミアの姿を見てしまったアブラは、見るに見かねてサミアを泊めてやることになるのだが……。
ふたりの共通点
本作は予告編を観ると、パン屋に転がり込んだサミアが、実はパンづくりがうまくて、その腕によってパン屋が繁盛するというハートウォーミングな作品みたいにも思えた。それはあながち間違いではないのかもしれないけれど、そんな予定調和な作品とはちょっと違う部分もある。
そもそもアブラはサミアに対して酷く不親切でもある。アブラはサミアのことをしばらく泊めてやることにするけれど、誰も助けてやる人がいないからしぶしぶという感じなのだ。だからサミアとしても肩身が狭いわけだけれど、娘のワルダがとてもお茶目でかわいらしく、サミアを笑顔にしてくれる。それでも、アブラは何かが癇に障ったのかサミアを追い出してしまったりもする。この時もワルダが「ママは冷たすぎる」と非難したことで、アブラは態度を改めることになり、出ていったサミアを連れ戻すことになる。
しかし、このアブラの冷たい態度にも理由がある。サミアは未婚の母という問題を抱えているが、一方でアブラにも辛い状況がある。アブラの夫は不慮の事故で亡くなってしまい、それ以来、アブラはひとり娘を抱え、パン屋を切り盛りしていくことで精一杯だったのだろう。
本作ではアブラは葬儀に立ち会うこともできず、亡くなった夫に近づくこともできなかったとされている。アブラをそれを「死を悲しむ権利もない」と評しているが、イスラム社会における女性の立場が弱いことは様々な映画でも描かれている。前回取り上げた『白い牛のバラッド』でも、主人公の女性は未亡人になると賃貸物件も借りられなくなるし、亡くなった旦那の弟と再婚させられそうにもなる。これは女性がひとりで生きていくということ自体が想定されてないということなのだろう。
『モロッコ、彼女たちの朝』におけるアブラのどこか頑なな態度は、そうした社会で娘を抱えてひとりで生きる女性だからこそなのだ。アブラは普段ほとんど笑顔を見せないし、仕事仲間でもあり親切にしてくれるスリマニという男性に対しても酷く冷たい。イスラム社会で女手ひとつで生きていくためには強くならなばならず、そのことがアブラを冷たい人にしてしまっているのだ。未婚の母という境遇に翻弄されるサミアと同様に、未亡人という立場のアブラも、イスラム社会において辛い状況に置かれている女性という点では共通しているということなのだ。
取っ組み合いからダンスへ
本作が素晴らしかったのは説明的な台詞もなく、観客に登場人物の内面を想像させるように描いているところだろうか。
強い女性であらねばならないという意識から自らの心を閉ざしてしまっているアブラは、娘の名前になっているワルダという有名歌手の音楽を一切聴こうとしない。それによって夫が生きていた頃のことを想い出してしまうからだ。サミアはそんなアブラに強制的にその音楽を聴かせるという荒療治を敢行することになる。
最初は「曲と止めて」と「いや、聴きなさい」という応酬で、ふたりは取っ組み合いのようになる。しかし、その取っ組み合いはいつの間にかにふたりが組んでダンスをしているようになり、アブラは次第に曲に身を任せていくことになる。アブラが心を開いていく場面を、そんなふうに動きで表現していたところが見事だったし、とても感動的なシーンとなっていたと思う。
最後の選択は?
最後に描かれるのは、サミアが産んだ子供をどうするかという部分だが、それに対しては明確な答えは示されない。イスラム社会では未婚の母から産まれた子供は、“罪の子”とされて後ろ指を指されて生きていくことになる。それを避けるためには、産まれた子どもを養子に出す必要がある。そうすればその子供は引き取ってくれた夫婦の正式な子供として認められることになるのだという。
本作はサミアの葛藤の部分をとても丁寧に描いている。サミアは情がうつるからなのか母乳をあげるのをずっと躊躇っている。それでも子供は泣き出すし、ほかにその子供を助けてやれる人は誰もいないわけで、サミアは泣きわめく子供を前にどうすべきか散々迷うことになる。最終的にサミアは子供に乳を与え、“アダム”という名前を付けることになる。しかし、映画はその後のサミアの決断を示すことなく、サミアがこっそりとアブラの家を出ていくところで終わる。
予定調和のハッピーエンドにするならば、サミアがアダムを自分で育てることを決意するところで終わるべきのかもしれない。しかし、モロッコの現実はそんな絵空事のようなラストを選択させるものではなかったということなのだろう。
本作はサミアの苦悩を最後に延々と示す。その苦悶の表情はかなり辛いものがあり、サミアがその後に何をしようとしているのかを示しているようでもある。たとえサミアがどんな決断をしたとしても、その選択がどれほど辛いものだったかということがここに表現されていたんじゃないだろうか。そんなわけで最後はかなりシビアな現実を見せられる形にはなるけれど、地味ながらとてもよく出来た作品だったと思う。
モロッコを舞台にした映画なら有名な『カサブランカ』をはじめ数多くあるけれど、モロッコ製作の長編映画が公開されるのは日本では初めてのことらしい。それだけに現地の人しか知らないような風景が見られる貴重な映画となっているのかもしれない。チョコや蜂蜜をつけて食べるクレープのようなムスンメンや、手延べ麺を焼いたような珍しいルジザなど、モロッコ独特のパンもとても美味しそう。
このルジザというパンは伝統的なパンで、劇中でもサミアが子供の頃におばあさんから教わったものとされている。ワルダはサミアが作ったルジザがとても大好きで、その作り方をサミアから教わることになる。伝統というものは必ずしも悪いものではないけれど、一方でイスラム社会における女性の立場のように変えていかなければならないものもあるということなのだろう。
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