『パワー・オブ・ザ・ドッグ』 “有害な男らしさ”の被害者は?

外国映画

原作はトーマス・サヴェージが1967年に発表した同名小説。

監督は『ピアノ・レッスン』などのジェーン・カンピオン

一部で劇場公開されているが、12月1日よりNetflixで配信が開始される。

古臭い時代に留まろうとするフィル

舞台は1920年代のアメリカ・モンタナ州。牧場を経営するフィル(ベネディクト・カンバーバッチ)とジョージ(ジェシー・プレモンス)の兄弟。そこにのちにジョージと結婚することになるローズ(キルステン・ダンスト)と、その息子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)が絡んでくる。

最初に感じるのはフィルとジョージの距離感だろうか。イエール大学出の秀才で何でも器用にこなし、若いカウボーイたちにカリスマと見なされて慕われる兄のフィルと、ちょっと愚鈍な弟ジョージ。フィルはいつも弟ジョージのことを気にしているのに、ジョージはそれを疎ましく思っているようでもある。

ふたりは25年も一緒に仕事に励み、夜は同じベッドで寝るという密接な関係だ。フィルはなぜか風呂に入ることを拒み、いつも汚れたままの格好だが、ジョージはこざっぱりしたスーツを着ている。古臭い時代に執拗に留まろうとするフィルに対し、ジョージは時代に合わせた生き方を望んでいるように見える。その点がふたりの距離感につながっている。

そして、ふたりの距離をより遠ざけることになるのがジョージの結婚だ。ジョージはフィルに断りもなく、宿屋を経営している未亡人ローズと結婚する。それまで常に一緒だった兄弟の間に割り込むことになったローズは、最初からフィルに目の敵にされることになる。

日本では嫁をいびるのは姑と相場が決まっているようだが、本作では小舅のフィルがローズを追い詰める。ローズのピアノ演奏の練習に、フィルはバンジョーで対抗する。ローズの拙いピアノに対し、フィルは流暢なバンジョーを披露し、ローズの気を挫くことになる。フィルはローズのことを、ジョージの金を目当てとしている女狐と見て、嫌悪感を隠さないのだ。

※ 以下、ネタバレもあり! 結末にも触れているので要注意!!

Netflix作品『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

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「犬の力」とは?

結末から振り返って考えてみると、本作はローズの障害物となっているフィルを、息子のピーターが排除する物語と言える。「犬の力」という不思議なタイトルは、旧約聖書の詩篇22章20節から採られている。日本語訳では「私の魂を剣から、私の命を犬の力から救い出して下さい」となり、これだけでは意味不明だが、ここでの「犬の力」とは邪悪なもののことを指しているのだという。つまりは本作における「犬の力」とはフィルのことを指し、ピーターがその邪悪な力からローズを救い出す物語ということになる。

ただ、観客はすぐにそうした物語とはわからないだろう。ピーターの目的が途中まではよくわからないからだ。ラスト近くになってピーターがフィルを排除しようとしていることが判明し、ようやくピーターの意図していたことが理解されることになるからだ。

それでもピーターは冒頭から「母親の幸せがすべて」と語っていたし、フィルと一緒の時も野に咲く花を愛でていた。フィルに女々しいと揶揄された花をピーターがずっと手放していなかったところから推測するに、ピーターはフィルを排除するという真の目的を隠し、自らをエサとしてフィルに近づいたということなのだろう。

Netflix作品『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

“有害な男らしさ”の被害者は?

フィルは誰にも言えない秘密を抱えていた。それは彼が同性愛者であるということだ。フィルが古臭いカウボーイのまま過ごしているのも、ジョージと過去を振り返りたがるのも、そこにはブロンコ・ヘンリーという伝説のカウボーイがいるからだ。

しかしながらその時代に同性愛というものはオープンにできないものだっただろう。フィルは同性愛者であるということを隠すため、女々しさを嫌い、必要以上に男らしさを誇示しようとする。それが風呂に入らず、悪臭を放ったままでいるといった行動となる。そうしたフィルの男らしさは弟のジョージにとっても、ジョージの妻となったローズにとっても障害となってくる。

本作に関する批評において多くの評者が取り上げている言葉がある。「トキシック・マスキュリニティ(Toxic Masculinity)」という言葉だ。日本語に訳せば“有害な男らしさ”ということになる。男はこうあらねばならないといった考えを押し付けてくる社会的な圧力のことを指すのだという。

フィルの凝り固まった考えがジョージやローズの障害ともなっていて、本作においてはフィルは「犬の力」つまりは邪悪なものとされている。しかしながら害のある存在となっていたフィル自身も、“有害な男らしさ”というものの被害者と見えてくるところに本作の眼目があったように感じられる。

Netflix作品『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

抗(あらが)えない時代と場所

カウボーイたちを主人公にしたゲイ・ムービーとして真っ先に思い浮かぶのは『ブロークバック・マウンテン』ではないだろうか。その『ブロークバック・マウンテン』は1960年代から始まる物語で、ワイオミング州を舞台としていたが、それでも同性愛に対する風当りは強いものがあった。『パワー・オブ・ザ・ドッグ』はそれより昔の1920年代(場所はワイオミング州の北隣のモンタナ州)だから、同性愛に対する偏見もより一層強かったことは想像に難くない。

映画の『ブロークバック・マウンテン』では曖昧にされていたが、その原作では主人公の一人が亡くなったのは同性愛者に対するヘイト・クライムによるものだったことが明白に書かれている。そうした時代と場所だったからこそ、本作のフィルは自らの性的指向を隠すために、男らしさの鎧を身につけることになったわけだ。

本作は過剰な男らしさを身にまとったフィルが邪悪なものとされ排除される物語だが、それと同時にフィル自身も“有害な男らしさ”の被害者として同情的に描かれている。目的のためとはいえ、ウサギを解剖してまで計画を進めようとするピーターの冷静沈着さよりも、フィルのほうが人間的に見えてくるのだ。

フィルは自分だけの秘密の場所に隠れ、ブロンコ・ヘンリーのイニシャルが刺繍されたスカーフで自慰に耽る。このシーンは本作において最も印象深いシーンと言えるかもしれない。もう亡くなった愛しの人を懐かしむような振る舞いは、普段のフィルなら唾棄すべき女々しい行動だろう。フィルはそうした姿を隠していたわけだが、ピーターはフィルの秘密を知ると、そこに付け入ることになる。

ピーターはフィルとブロンコ・ヘンリーとの関係を理解し、自らかつてのフィルの立場に収まろうとする。フィルは立場を変え、ブロンコとの関係を新たにやり直す機会にまんまと乗せられることになってしまうわけだ。フィルは最期までピーターに自分が結った縄を贈ることを望みつつ死んでいく。フィルは自分が誰に殺されるか理解していたのだろうか? あるいは理解しつつも進んで罠にかかったのだろうか。そんなことまで感じさせるほど、最期のフィルは弱々しく女々しい姿で退場していくことになるのだ。

Netflix作品『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

山肌の艶めかしさ

本作は12月1日よりNetflixで配信開始になるとのことだが、一部劇場でも公開している。自分が劇場で観てしまったから言うわけではないけれど、本作は劇場の大きなスクリーンで観ても損はない作品となっていたと思う。

本作ではモンタナ州の自然の風景が美しく切り取られていて、そこが見どころでもあるからだ。フィルは山の風景をじっと眺めていて、そこにほかの人には見えない“何か”を見ている。そのことはブロンコ・ヘンリーとフィルだけの秘密だったわけだが、なぜかピーターはその“何か”を言い当てる。そこに見えるのは犬が吠える姿だったのだ(私自身もピーターの言葉で初めてその犬の姿に気がついた)。このシーンは女々しいと揶揄していたピーターを、フィルが見直した瞬間だったのだろう。

こうした山並みの風景は、カウボーイたちの乗る馬の毛並みと重ね合わせて描かれているようにも感じられた。だから山肌が馬の肌と同じように艶めかしい感じがしてくるのだ。これは大きなスクリーンでなければ感じ取れない質感だったかもしれない。その山に犬が吠える姿が浮かび上がる様子はちょっとした驚きであり感動でもあった。フィルがブロンコ・ヘンリーからその犬の姿を教わった時の感動が再現されたようでもあり、それがフィルをピーターの罠へと誘うものとなっていく。フィルにとってはまさに弱い部分をピーターに突かれたというところだったのかもしれない。

ちょっと前の『クーリエ:最高機密の運び屋』での熱演も忘れがたいけれど、邪悪とされるほどの男らしさを誇示しつつも、実は誰にも言えない秘密を抱えた、複雑な男フィルを演じたベネディクト・カンバーバッチはやはり巧い。

追記:映画の後に原作を読んだのだが、同性愛的な描写はかなり抑えられている。フィルがスカーフと戯れる場面は映画独自のものだし、ブロンコ・ヘンリーがフィルの命を助けるために裸で温めてくれたという告白もない。原作では「ひとつになりたいと思った」といったことが書かれているが、これもフィルのブロンコ・ヘンリーに対する憧れとも感じられなくもない(同じような男になりたいという)。

その意味では映画はより踏み込んだものになっている。最後のフィルが縄を結うシーンは性的なものを感じさせる艶めかしいものになっていて、回しタバコをするピーターとフィルの関係もあやしさを感じさせる。

本作はNetflixで配信しているので原作を読んだ後にもう一度鑑賞したのだが、ピーターはフィルを殺すための生皮を提供する際に、なぜかそれを躊躇しているシーンが挿入されている。ウサギを殺すのに躊躇がないピーターも、さすがに人間となると躊躇するということなのか、それともフィルに対して障害物というだけではない複雑な感情を抱いていたのか、そんなことも感じさせた。冷静沈着に見えたピーターにもそんな側面があったのは、結末を知ってから観直してみないとわからない部分だったかもしれない。

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