『ディーパンの闘い』や『パリ13区』などのジャック・オーディアールの1994年の監督デビュー作。
原作はテリー・ホワイトの『真夜中の相棒』。
原題は「Regarde les hommes tomber」で、「男たちの凋落を見よ」といった意味合いになるらしい。
本作はレンタル店なんかでも見かけないレアな作品。たまたまWOWOWでやっていて、観てみたらとてもよかったので……。
物語
中年セールスマンのシモンはミッキーという刑事と出会い、彼の手伝いをすることに。ところがミッキーは事件に巻き込まれて植物状態になってしまう。一方、うらぶれた初老の賭博師マルクスは、たまたま出会ったジョニーという青年になぜかなつかれてしまい……。
交差する二組の男たち
最初はシモン(ジャン・ヤンヌ)という男の話から始まる。彼はずっとセールスマンをしてきたらしい。生きるために何でも客に売りつけてきたと自負していて、今は印刷関係なのか「何でも印刷する」などと営業している。しかし歳のせいか“老い”を感じているようで、いわゆるミドルエイジ・クライシスの状態にある。そんな時に出会ったのがミッキー(イヴォン・バック)という刑事だ。
ミッキーはシモンに「踊れ」とそそのかす。しかし、シモンはそれを「興味がない」などと言って頑なに断ることになる。「誰も見てないじゃないか」とミッキーは言うのだが、シモンは「そんなことは関係ない」とつれない態度なのだ。ミッキーは日々を楽しんでいるのに対し、シモンはとても憂鬱そうだ。ところがそのミッキーは突然、事件に巻き込まれて植物状態になってしまうことになる。
『天使が隣で眠る夜』には、もう一組の男たちが登場する。それが初老の賭博師マルクス(ジャン=ルイ・トランティニャン)と、“ジョニー”と呼ばれることになる青年フレデリック(マチュー・カソヴィッツ)だ。マルクスがヒッチハイクで車を拾っていたところ、ジョニーと同乗することになり、なぜかジョニーはマルクスになついてしまうのだ。
ジョニーはちょっと頭が弱い。それに対してマルクスは姑息な人間で、ジョニーからも金を巻き上げようと考えている悪い奴だ。それでもジョニーはなぜかマルクスのことを頼りにし、彼のそばを離れようとしない。ジョニーはマルクスに突き放されると子犬みたいな目をして彼を見つめることになり、そうするとさすがのマクルスも放っておけなくなってしまい、何となく二人は一緒に旅をすることになる。
本作では、シモンとミッキー、マルクスとジョニー、この二組の男たちの物語が交差していくということになる。
※ 以下、ネタバレもあり!
二組に共通するもの
刑事であるミッキーは撃たれて植物状態になってしまい、彼の仕事を手伝っていたシモンはその犯人を追うことになる。そして、同時並行的に描かれていくのが、マルクスとジョニーの姿ということになる。
この二組がどんなふうに結びつくのかという点がひとつの謎となっている。しかし、そのこと自体はさほど重要なことではないと思うので、ここでネタバレをしてしまうけれど、シモンが追っていた犯人というのは、マルクスとジョニーだったということになる。
実はこの二組の時間軸はズレている。このことはマルクスとジョニーが登場する時にすでに字幕で示されている(観ているうちに忘れてしまうのだけれど)。時間の流れに従って物語を整理してみれば、マルクスとジョニーが出会い、訳あってふたりは殺し屋の仕事をすることになる。そんな仕事の中でたまたまミッキーを撃つことになってしまったというのが、冒頭近くで描かれる事件ということになる。その後、ミッキーのことを撃った犯人をシモンが捜すことになり、最終的にはマルクスとジョニーのところへとたどり着くことになる。
ただ、本作では犯人捜しが主題となっているわけではないだろう。二組の男たちを同時並行的に描いていくことで、そのどちらの関係にも共通するものが見えてくることになるのだ。それはそれぞれの男同士のつながりということになるわけだが、これは単に友達というわけでもないけれど、どこかでそれ以上のものを感じさせるような関係ということになるだろうか。
男たちの関係性
ジョニーとマルクス
ジョニーはマルクスに対して「愛してる」などと言ってみたりもするわけだが、頭の弱いジョニーはそれがどんな意味の“愛”なのかは自分でもよくわかってないのだろう。だからこれは同性愛というわけではない。
ジョニーは性的な欲望に駆られることはないらしく、娼婦と寝る機会をマルクスが用意してもそれを断ってしまったようだし、当然ながらマルクスに対してそんな欲望を抱いているわけもない。一方のマルクスだって「ガキを連れ歩く趣味はない」などとジョニーを突き放していたわけで、彼に対して妙な気持ちを抱くこともないだろう。それでいてほかの誰かとジョニーが一緒だと、嫉妬に狂ったかのように怒り出したりもするわけだが……。
マルクスはいつの間にかになついてしまったジョニーを邪魔くさいとは思っていても、ジョニーがマルクスのために何でも差し出してしまう“純真さ”みたいなものは信用している。ジョニーは「ダチだから」という理由だけで、自分の損得などは考えずにマルクスのために殺し屋の真似事すらしてしまうのだ。
そして、マルクスはジョニーにそんなことをさせる自らの“ゲスっぷり”を自覚している。だからこそ「なぜ自分なんかと一緒にいる?」とジョニーに問いかけたりもする。それでもジョニーはマルクスを疑うことはないわけで、マルクスにとってジョニーは守らなければいけない大切な存在になっていくのだ。だからジョニーがヤクザ者たちに痛めつけられて参っていた時には、ジョニーが自分の隣で眠ることを「好きにしろ」と許すことになる。邦題の“天使”というのは、マルクスにとってはジョニーのことを指すことになる。
ミッキーとシモン
さらに、もう一組の男たちについてだが、シモンにとっての“天使”はミッキーということになるのだろう。ミッキーは植物状態になってしまいベッドに横たわったままだけれど、物言わぬ彼のそばで彼に語りかけることになり、そのベッドの隣で添い寝してみたりもすることになるのだ。
シモンは“老い”を感じていて、夢の中では奥さん(ビュル・オジエ)がほかの男に抱かれる姿を見て申し訳なさそうにしている。この夢の描写がシモンの精力の減退を示すだけのものなのか、あるいは彼が異性愛者ではなかったかもしれないということなのかはよくわからないけれど、シモンがミッキーを魅力的だと感じていたことは確かだろう。
ちなみにミッキー自身は、情報屋との関係などからすると同性愛者だったのだろう。シモンは同性愛者について何も知らず、犯人を追うと共に、同性愛者が何を考え何をしているかなどを調べようとしている。これは植物状態になってしまったミッキーが、本当はどんな男だったのかということを知りたかったということなのだろう。そして、シモンは仕事などすべてを捨て去ってまで、ミッキーを撃った犯人を捜そうとするのだ。
シモンのミッキーに対する感情がそのまま同性愛に結びつくのかどうかもよくわからない。もしかするとシモンはミッキーに対して、自分にないものを感じて彼に憧れていたということなのかもしれない。
様々な“愛”の形
この二組の男たちの関係性を一体どんなふうに表現するべきなのか。“ホモソーシャル”なのか、“ブロマンス”なのか、そのあたりは私にははっきりとはわからないけれど、本作が描こうとしているのは男たちのそんな不思議な結びつきということなんじゃないだろうか。
とにかくジョニーを演じたマチュー・カソヴィッツがとてもいい。マチュー・カソヴィッツはこの作品の後に『憎しみ』を監督として大ヒットさせることになるけれど、役者としてとても魅力的だ。彼が演じたジョニーは寂しがりの子犬みたいなかわいさで、あんな目で見つめられたらマルクスみたいな擦れっ枯らしでも心を動かされざるを得ないというのも頷けるのだ。
この“放っておけない”という気持ちもやはり広い意味での“愛”ということになるのだろうし、そんな意味では本作はやはり様々な形の“愛”を描いていたということなのだろう。
ジャック・オーディアールはジョニーとマルクスを演じた、マチュー・カソヴィッツとジャン=ルイ・トランティニャンのコンビが気に入ったのか、監督第2作の『つつましき詐欺師』も同じ二人組の作品になっているようだ。この作品もレアもので、なかなか観られそうにないけれど……。
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