『ソフト/クワイエット』 単に声がデカいだけ

外国映画

監督・脚本はベス・デ・アラウージョ。これが長編デビュー作とのこと。

ブラムハウス・プロダクション製作の全編ワンショット&リアルタイム進行で描いたクライムスリラー。

物語

とある郊外の幼稚園に勤める教師エミリーが、「アーリア人団結をめざす娘たち」という白人至上主義のグループを結成する。教会の談話室で行われた第1回の会合に集まったのは、主催者のエミリーを含む6人の女性。多文化主義や多様性が重んじられる現代の風潮に反感を抱き、有色人種や移民を毛嫌いする6人は、日頃の不満や過激な思想を共有して大いに盛り上がる。やがて彼女たちはエミリーの自宅で二次会を行うことにするが、途中立ち寄った食料品店でアジア系の姉妹との激しい口論が勃発。腹の虫が治まらないエミリーらは、悪戯半分で姉妹の家を荒らすことを計画する。しかし、それは取り返しのつかない理不尽でおぞましい犯罪の始まりだった……。

(公式サイトより抜粋)

気焔を上げる差別主義者

彼女たちは自分たちがやっていることが世間的には間違っているということを理解しているのだろう。手作りパイには“鉤十字”のマークがあったり、「ハイル・ヒトラー!」というナチス式の敬礼も冗談としてやってみたりはするけれど、あくまでも本気ではないという感じに収めている。

それでもどこかでヤバいという感覚もあるわけで、だからこっそりと会合を開き、内輪だけで気焔を上げることになる。しかしそういう人たちが群れると気も大きくなるのか、ひとりだけではできないこともできてしまうことになる。

主人公であり視点人物とも言えるエミリー(ステファニー・エステス)は、旦那との間に子供ができないということにストレスを感じている。その原因がどこにあるかはわからないけれど、それは夫婦の問題であってほかの誰かのせいではないはずだが、彼女は自分の不遇感をほかの誰かのせいにしようとする

その時、ターゲットとされるのが有色人種や移民たちということになる。黒人たちが「ブラック・ライブズ・マター」と訴え、彼らの権利を主張しているけれど、彼女たちは「オール・ライブズ・マター」だと反論する。黒人が白人に文句を言うことは許されているけれど、白人がそんな主張をすると「ヘイトだ!」と叩かれる。そんなふうに自分たちの権利が脅かされていると感じていて、自分たちのほうこそ逆に差別されている被害者だという気持ちなのだ。

会合に集まったほかの面子も何かしら鬱憤を抱えていて、多文化主義や多様性が重んじられる現代社会にどこかで息苦しさを感じていて、それは有色人種や移民たちがのさばっているからだと感じている。これはもちろん勝手な思い込みなわけだけれど、そんな人たちが徒党を組むことになると、そうした思い込みも正当化されていくことになる。

(C)2022 BLUMHOUSE PRODUCTIONS, LLC. All Rights Reserved.

他愛ないイタズラのはずが

6人が集まった会合はすぐに解散を余儀なくされる。というのは、集会場所だった教会の関係者が彼女たちがいるやっていることを知り、出ていかなければ通報すると迫ったからだ。

エミリーたちは仕方なく二次会として場所を移動することになり、一部は離脱して残りはエミリーの自宅へと向かう。途中でメンバーのキム(デイナ・ミリキャン)の店でお酒を調達するつもりが、そこでアジア系の女性二人とトラブルになる。

徒党を組んで気が大きくなっていたキムは、アジア系の女性アン(メリッサ・パウロ)とリリー(シシー・リー)に絡み出すのだ。ヤバい輩に絡まれたら逃げてしまえばよかったものの、理不尽に差別される謂れもないリリーがエミリーの兄のことを持ち出して侮辱したものだから、余計に事は大きくなってしまう。

その場は何とか済んだものの、気が収まらなくなったエミリーたちは、そのアンとリリーの家まで行ってイタズラして思い知らせてやろうと言い出して盛り上がる。しかし、他愛ないイタズラのつもりが次第にエスカレートとしていき、とんでもないことになってしまう。

(C)2022 BLUMHOUSE PRODUCTIONS, LLC. All Rights Reserved.

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自滅していくエミリーたち

最初は、『ソフト/クワイエット』が多様性を重んじる傾向に対しての反感を描く作品なのかと思ったのだが、それは勘違いだったようだ。もしかするとそういう反感を持つ人だっているかもしれないけれど、本作の白人至上主義者たちはあまりに極端にも感じられる。端的に言えばバカ過ぎるのだ。しかし、それは本作が意図したものだろう。

時代に逆行するような極端に差別的な人物を描くことで、そのおぞましさをイヤというほど見せつけ、それによって今の多様性を重んじる流れが社会としてあるべき姿であることを感じさせることになっているのだ。多様性とは正反対の凝り固まった考えを描くことで、逆に多様性というものが求められていると示そうというわけだ。自分たちの主張の正しさを訴えるのではなく、相手の主張のバカバカしさで自滅させようとするのだ。

というのも本作のベス・デ・アラウージョ監督はアジア系で、劇中で差別主義者たちの餌食となるアジア系の女性二人と同じ立場にいるからだ。これまでの経験が彼女にこんな映画を作らせているということなのだろう。

ベス・デ・アラウージョ監督はこの映画の制作に取り掛かったとき、「なぜこの映画を作りたいと思ったのか」という質問をよく受けたらしい。この質問には「なぜこんな胸クソ悪い映画を作りたいのか」、そんな疑問が含まれているようにも感じる。

本作を観た人の多くは「一体、何を見せられているんだろう」といった感覚に陥るんじゃないだろうか。それほど胸クソ悪い展開が続くからだ。しかも本作はワンカットで撮られていて、観客もおぞましい差別の現場に付き合わされ、逃げることができないような気持ちにされる。本作はそれによってより一層効果的に、差別というものへの反感を観客に醸成しようとしているということになる。

しかし、私の個人的な感覚では、白人至上主義者たちがあまりにもバカ過ぎて、差別する側とされる側の構図が単純になり過ぎていたようにも思えた。エミリーたちは映画の中盤あたりで、すでに引き返せないところまで来てしまっている。そのため、それ以降の展開はある程度予想出来るわけで、結末がわかりきった消化試合を眺めているような感覚にもなってしまった。そうなるとワンカットでの撮影も緊張感よりも間延びした部分が気になるようになり、わざわざそんな手法を選択する意味合いもよくわからなかったのだ。

(C)2022 BLUMHOUSE PRODUCTIONS, LLC. All Rights Reserved.

単に声がデカいだけ

白人至上主義者だってあれほどバカばかりではないんじゃないだろうか。当然ながら差別はもってのほかだし、差別する側は非難されて然るべきだけれど、その怒りが先に立ち過ぎていたようにも感じた。

エミリーは「アーリア人団結をめざす娘たち」という会合について、ソフトでクワイエットに進めていきたいと語っていたわけだが、それがいつの間にかに阿鼻叫喚の地獄絵図のような状況になってしまう。その中で最も気焔を吐くことになったのがレスリー(オリヴィア・ルッカルディ)だろう。もっと彼女のことを深く描いていたらおもしろかったんじゃないだろうか。

ちなみにレスリーは見た目は白人のようにも見えるけれど、キムの店ではアンたちに「自分だって白人じゃないじゃないか」とも言われていた(ように記憶している)。レスリーを演じている役者さんがどんな人種なのかもよくわからないけれど、本作のチラシを見るとレスリーはなぜか黒人に見えるほど顔が汚れている。白人のエミリーと有色人種のレスリーの争いみたいな絵面になっているのだ。白人至上主義者たちの中に有色人種であるレスリーが混じっていて、そのグループを最終的には仕切ることになってしまうということが意図されていたのだろうか。

ちなみに彼女たちの会合の名前にも使われている“アーリア人”という言葉は、ヒトラーが使っていた意味合いでの“アーリア人”ということになる。ヒトラーが言うところの“アーリア人”のイメージは、金髪碧眼の白人ということらしい。そのイメージに一番近いのはエミリーだし、多分、エミリーもそれを自覚している。

しかしヒトラーは金髪碧眼ではなかったようだし、“アーリア人”という概念に対して何かしらのコンプレックスがあるということなのだろう。ヒトラーと“アーリア人”の関係は、レスリーとエミリーとの関係とも重なってくるんじゃないだろうか。

レスリーは自分の古着屋の仕事のモデルになってくれないかとエミリーを誘っていて、エミリーに憧れを抱いているように見える。ところがレスリーはラストの騒ぎの中で白人至上主義というものを徹底していないエミリーを恫喝し、その場を仕切るようになっていく。

ただ、それはレスリーが深い“何か”を持っているわけではない。レスリーは単に声がデカくて態度もデカい。それだけなのだ。声がデカい人の意見が通ってしまうことはよくあることだけれど、レスリーがどうしてそんな差別主義者になったのかという背景が見えてくればもっとおもしろいものになっていたかもしれないとも思う。あるいは監督としては、差別主義者なんてものは浅はかなものだという認識なのかもしれないけれど……。

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