『ミッドサマー』 自分はそのままに世界を変える

外国映画

『へレディタリー/継承』アリ・アスター監督の最新作。

タイトルは「Midsommar」で、スウェーデン語の「夏至祭り」とのこと。

物語

家族を亡くしたダニー(フローレンス・ピュー)は、恋人クリスチャン(ジャック・レイナー)やその友人と共にスウェーデンを訪れる。ホルガと呼ばれる村で90年に一度行われる祝祭を体験するためだ。クリスチャンたちは大学で文化人類学を研究していて、そのフィールドワークの目的も兼ねているのだ。

美しい花々が咲き、白い服装に身を包んだ心優しい住民たちが歌い踊るそのコミューンは楽園のような世界だった。しかし、儀式が始まると状況は一変する。

アリ・アスターの最新作

アリ・アスター監督の前作の『へレディタリー/継承』は評判が高かったようだが、個人的には受け付けない部分があった。とても怖い作品ではあるのだが、通常のホラー映画の枠組みから外れていくような部分があり、ホラー映画を丹念に追っていない者としては、その展開の突飛さについていけなかったのかもしれない。

その意味では本作も同様かも。幸福を絵に描いたような楽園の雰囲気からして既にかえって不気味なのだが、最初のショックとして登場するのが、儀式での崖からの飛び降りのシーン。この時点で世界の違いに歴然とさせられ、このコミューンのヤバさにも気づきそうなものだが、なぜかそうはならない。

というのは、クリスチャンたちは研究の目的があるから、自分たちの文化とは全く違う世界をかえって受け入れようとするからだ。これは文化人類学が抱える文化相対主義というやつで、自分たちの文化が普遍的とは言えないという留保から、彼らのコミューンにおける異常な祝祭も一つの文化であると認めざるを得ないのだ。

このコミューンでは72年のサイクルが一つのサイクルとなっていて、その年齢に達した者は自殺して次の世代に生まれ変わるらしい。しかも自己破壊に失敗した者には、丁寧に他の者が引導を渡しているわけで、法治国家としては許されない行為にも思える。それでもクリスチャンたちは滅多に見られない奇祭に好奇心を駆られ、そのコミューンの異様さには目をつぶってしまうのだ。

この祝祭の描写は、北欧神話から採られた由緒のあるネタから構築しているらしいのだが、どこか嘘っぽいものに感じられた(もちろん映画だから嘘なのだけれど)。スウェーデンを舞台にした作品だからか、ベルイマンと同じイングマールという名前の登場したりもするものの、スウェーデンにあんなコミューンが存在し得るとは思えないからだ。もっとも『ウィッカーマン』『グリーン・インフェルノ』のようなジャンルだとすれば当然のことなのかもしれない(どちらも観ていないからよくわからないが)。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2019 A24 FILMS LLC. All Rights Reserved.

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ダニーのラストの笑み

本作は夏至祭の陽光とは正反対の暗い雪の舞う場面から始まるのだが、これは主人公ダニーの薄暗い精神そのものを示していたのかもしれない。ダニーの妹は双極性障害を患っていて、両親を巻き添えにして自殺してしまう。それを知ったダニーは今までよりもさらに精神的に不安定になる。このダニーの叫び声が悲痛なもので、観客としては冒頭からかなり嫌な気持ちにさせられる。

しかし本作は、そんな精神を病んだダニーが、ホルガというコミューンでなぜか快復してしまう話になっている。思い返してみると『へレディタリー/継承』の主人公ピーターも、精神的には最悪の状況へと追い込まれていくのだが、ラストではなぜかいつの間にか救われてしまう。

ピーターは最悪の状況から抜け出し、元の状態へと戻るわけではない。ピーターが置かれた状況は変わらないのだが、悪魔崇拝によって世界のほうが変化するから、最悪の状況が最高の状況へと裏返るような形になるのだ。常識的な観客として理解し難い部分はそこにあったのかもしれない。今振り返るとそんなふうに思える。

『ミッドサマー』に戻ると、ホルガの村に入るシーンでは、カメラがひっくり返り天地が逆転する(しかも本作ではこれ以降、元の世界に戻ることはない)。この天地逆転の映像はかなり不快なものだ。ダニーにとってのホルガの村も最初は不快なものであったはずだ。家族を喪ったダニーは、目の前で飛び降り自殺を目撃してパニックに陥るのだが、それが祝祭の日々を過ごすうちにいつの間にかに快復し、最後は笑みを浮かべるようになる。

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自分はそのままに世界を変える

そもそもダニーはクリスチャンにとってお荷物でしかなかった。友人たちと居る時にも平気で何度も電話をかけてくるダニーは、精神的に不安定で厄介な女性だったからだ。スウェーデンに同行させたのも行きがかり上仕方なかったからで、クリスチャンはダニーと別れたくとも別れられずにうんざりしているのだ。

一方でダニーからしてみれば、クリスチャンは彼女の病気を理解しようとしない酷い男ということになるのかもしれない。クリスチャンはダニーの病気には無関心なのに、見知らぬ村の異文化の理解には熱心だからだ。ダニーはクリスチャンが村の女性とセックスする姿を目撃し、最後はクリスチャンを捨ててホルガの村の女王として君臨することになる。

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このホルガのコミューンが異様なのは、ここでは「個」という考え方が希薄なところだろう。クリスチャンはある女性とセックスするのだが、その場所ではほかにも何人もの女性が周囲を取り囲み、喘ぎ声を上げている。ここでは「個」は存在せずに、女性という「類」だけがあるのかもしれない。だから子供を孕む行為も女性たちが一体化して行われるし、ダニーが悲しむ時はみんなが一体となって悲しむことになる。

もともとダニーが居た元の世界では「個」はとても重要で、それぞれの多様性を認めるという価値観も広まっている。その反面自己主張も強くなり、クリスチャンは研究の面で折れ合うことができずに友人の一人と対立したりもする。

そんな価値観と正反対なのがホルガのコミューンで、ここでは「個」は存在しないから、意見の相違などもあり得ない話ということになる。ダニーは最終的に「個」が強調される元の世界よりも、コミューンのみんなと一体化した世界を選ぶことになる。

『へレディタリー/継承』では悪魔崇拝によって世界が変化することで主人公は救われたわけだが、『ミッドサマー』では別の価値観を持つコミューンへと移行することで世界の側が変わり、メンヘラ女性ダニーは自分を肯定することになるのだ。

ちなみに監督のアリ・アスターは、ダニーという女性に自分の姿を投影しているようだ。そして、自分の失恋の話をこの作品に盛り込んでいるのだという。つまり本作はフラれた恨みであり、一種の意趣返しということになるわけだが、どうしようもない自分をそのままに世界を変えようとするというのは結構危なっかしいとも思う。

個人的にはホルガ村のみんなが一体化した世界におぞましいものを感じた。これは『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画にも近い考えにも思えたからだ。

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