『ツリー・オブ・ライフ』などのテレンス・マリックの最新作。
カンヌ国際映画祭ではエキュメニカル審査員賞を受賞した。
原題は「A Hidden Life」。
物語
1939年のオーストリアの山あいの小さな村ザンクト・ラーデグント。フランツ(アウグスト・ディール)はファニ(ヴァレリー・パフナー)と結婚し、幸せな日々を送っていた。しかし、村全体が雲の上にあるような場所にも戦争の足音が近づきつつあった。
1943年、フランツにも召集令状が届く。フランツはヒトラーに対して忠誠を誓うことを拒否し、逮捕されることを選ぶことになるのだが……。
実在の人物の物語
実在した農夫フランツ・イェーガーシュテッターの人生を描いた伝記映画。フランツは第二次大戦中に良心的兵役拒否を貫き、死刑に処された人物だ。彼はその後の2007年にカトリック教会から殉教者として認められることに。
ただ、本作ではそのことには触れられず、最後にジョージ・エリオットの言葉を示して終わることになる。フランツのような“名もなき生涯”を生きた人があったからこそ、戦争の時代を経験しながらも世の中がそれほどは悪くならずに済んだとまとめられる。本作は通常の歴史には登場しないような人物に脚光を浴びせる作品となっている。
独特なスタイル
テレンス・マリックは『ツリー・オブ・ライフ』以降、美しい映像と登場人物のモノローグを連ねる独特なスタイルを堅持している。このスタイルは詩的イメージが続く映像世界と言えば聞こえがいいが、多くの観客にとってはどんな物語が描かれているのかを追っていくのが困難で、眠りを誘うこともしばしばということになる。
本作においてもそのスタイルは維持しているのだが、この作品に限っては実在の人物の人生をトレースしていくわけで、テレンス・マリック作品としては取っつきやすい作品と言えるかもしれない。
それでも上映時間は173分とかなりの長尺なので、ちょっと覚悟は必要かもしれないが、「良心的兵役拒否を貫き死刑にされた」というわかりやすい物語があるために、『聖杯たちの騎士』や『トゥ・ザ・ワンダー』のように途中で迷子になるようなことはないだろうと思う。
本作の舞台はオーストリアの山あいの小さな村だ。背景にはアルプスの気高い山々が見え、雲の上に浮かんだような緑に溢れた世界はただひたすらに美しく、まるで天国のような雰囲気すら感じさせる。このロケーションの素晴らしさもあって、長尺も何とか耐え得るものになっているんじゃないだろうか。
良心的兵役拒否
フランツは戦争で人を殺すことをしたくないし、ヒトラーに忠誠を誓うこともできないと判断し、良心的兵役拒否を貫くわけだが、それには大きな代償が伴う。兵役は国のための義務だと考える村人たちからは裏切り者だと罵られ、フランツだけではなく家族の者まで村八分に遭うことになる。さらに本来であれば信徒であるフランツを守るべきである教会としても、国に協力しなければその教会の存続が危うくなるとなれば、宗教的な信念は後回しにされ、現実的に生き延びることが優先されることになる。
しかしフランツは自分の意志を貫く。それ以上に頑なになることは死刑となるとわかっていても、フランツは決して信念を曲げることがない。周囲も彼を説得しようと試みる。抵抗しても無駄なことになると諭してみたり、上辺だけを取り繕う道があることを示したりもするのだが、結局はそれも拒否してフランツはギロチンによって処刑されることになる(前半に登場する大鎌はギロチンの刃を思わせなくもない)。
Wikipediaの情報や映画評論家の町山智浩の解説によれば、実在のフランツ・イェーガーシュテッターはもっと粗野な人物だった時代もあるようだし、熱心なキリスト教徒となるのも奥様の影響があってのことらしい。しかし、本作において描かれるフランツは、生きるか死ぬかという葛藤よりも変わらぬ信念のほうが強調されているように見える。
信仰心に関して奥様からの影響があることは、映画のなかではフランツの母親から奥様ファニへの非難めいた言葉のなかに少しだけ感じ取ることができるが、どちらかと言えばフランツは一貫して信念を貫き通し、決して揺らぐことなどなかったようにも見えるのだ。終始神のことを念頭に置き、現実世界を見限るように「いつかまた会える」と語るフランツの言葉は、『ツリー・オブ・ライフ』のラストとも照応し合っているようにも感じられた。
“祈り”としての映画
本作は獄中にいるフランツと、家庭を守ることになるファニの手紙のやり取りが中心となっていく。その手紙の言葉は当然ながら相手に向けて書かれたものなのだが、その先には神のことを見据えているようでもある。『トゥ・ザ・ワンダー』のときにもテレンス・マリックの作品が祈りのようなものだと感じたのだが、本作でもそれは同様だったと思う。
ファニは夫の兵役拒否に理解を示し、それを貫くことを応援するのだが、同時に「善人に悪いことが起こるはずもない」などとも書いている。この言葉は夫のフランツを励ますものでありつつも、神に対する恨み節のようにも聞こえないでもないからだ。それでも神はそうした祈りに応えることもなく、沈黙を続けることになる。
個人的にここで思い出されたのは遠藤周作が原作を書き、マーティン・スコセッシが映画化した『沈黙 -サイレンス-』だった。遠藤が描いたのは日本的な神のあり方であり、母性すら感じさせる遠藤の神は、踏み絵を前にした主人公に赦しの言葉を与えることになる。
『名もなき生涯』における神が一切その恩寵を感じさせないまま終わるのと比べると、神というものの理解の仕方の違いを感じさせる。やはり日本人が捉える神は正統派とは異なるということなのかもしれない。
カトリック教会は遅ればせながらフランツのことを殉教者として認めたということだが、これはフランツのように「強き者であれ」ということなのだろうか? これはなかなか常人には難しいことではあるだろうと思う。やはり『沈黙 -サイレンス-』が示していたように、「弱き者の居場所」があるほうに共感を覚えてしまうのだが……。
ちなみにテレンス・マリックの次の作品『The Last Planet』ではキリストが登場するというのだが、一体どのようなキリスト像を描くことになるのだろうか。
コメント