『ルクス・エテルナ 永遠の光』 地獄巡りという恍惚

外国映画

『アレックス』CLIMAXクライマックス』などのギャスパー・ノエ監督の最新作。

サンローランのクリエイティブディレクター、アンソニー・ヴァカレロによるアートプロジェクトの一環として製作された中編。このプロジェクトの次の作品にはウォン・カーウァイが起用されるのだとか。

ドストエフスキーの言葉

作品が始まる前に引用されるのはドストエフスキーの言葉(詳細は忘れた)。てんかん持ちだったとされるドストエフスキーは、『白痴』の中で主人公をてんかん持ちにして、「てんかん前の恍惚」について語っている。

てんかん患者がその症状に襲われ、痙攣する様子は映画などでは目撃することもあるが、その様子を見ていると恐ろしいことにしか見えないし、さぞかし本人は苦しかろうと思える。しかし、それを経験していない人には信じがたいかもしれないけれど、てんかん前のある瞬間には恍惚があるとされるのだ。『白痴』にはこんなふうに書かれている。

もしその一瞬に、つまり、発作直前の、意識の残っている最後の瞬間に、《ああ、この一瞬のためなら全生涯を投げ出してもいい!》とはっきり意識的に言うことができれば、もちろん、この一瞬それ自体は全生涯に値するものなのである。

『白痴』(新潮文庫 訳:木村浩)

最初に引用されたものがそんな恍惚についての言葉なわけだから、本作で描かれるものもそんな瞬間なのかと思っていたのだが、結局のところギャスパー・ノエが描くのはいつものような“地獄巡り”ということになるのがおもしろいところ。

というかそもそものドストエフスキーの言葉もあやしいもので、「てんかん前恍惚」と言われるものは滅多にないものなのだとか。だからそれがドストエフスキーの創作なのではないかという話もあったのだとか。それについての真偽は不明だが、普通の人が恐怖に感じることも、特殊な人には恍惚に感じられるということがあるのかもしれない。そしてギャスパー・ノエはどう見ても特殊な人なわけで、だから彼にとっては“地獄巡り”こそが恍惚としたものに感じられるのかもしれない。

(C)2020 SAINT LAURENT VIXENS LES CINEMAS DE LA ZONE

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撮影現場という地獄

本作ではベアトリス・ダルが初監督作として魔女狩りを題材にした映画を撮るという設定で、それに主演するのはシャルロット・ゲンズブールであり、それぞれが本人役で登場する。『アメリカの夜』のような撮影裏話的なものなのだが、そこに様々な思惑やアクシデントが絡んでくる。

プロデューサーは監督を降板させたいと思っていて、撮影監督はベアトリスのことが気に入らないらしく自分勝手に現場を仕切ろうとする。さらに部外者が入り込んで、シャルロットを自分の作品に引き抜こうと画策してみたり、そのシャルロット自身はトラブルに巻き込まれたらしい娘のことが気にかかり携帯電話を手放せないでいる。

撮影現場ではそれぞれが自分の思惑で勝手に動き回り、あちらこちらで様々なことが同時に進行していく。その様子をスプリット画面で追っていくことになるわけだが、同時進行する二画面にそれぞれの字幕が被さってくるわけで、真っ当にそれを追うことはかなり難しい。とりあえず言えるのは、撮影現場は渾沌としていて、地獄のような場所だということだ。監督であるベアトリスも自分ではどうすることもできずに、撮影所内を彷徨して頭を抱える有り様なのだ。

そんな混乱の中で撮影はスタートし、シャルロットを磔にするシーンとなるのだが、機材トラブルで照明がおかしくなり、赤と青と緑の光が点滅する中で永遠に磔にされたままかのような状態で映画は終わる。

磔のシーンを撮りたかっただけかと思わせるような話で、ほとんどそのワン・アイディアで押し切っていく。ラストの光の点滅シーンは、端的に言えば真っ当に見られるものではない。これまでもギャスパー・ノエの作品にはドラッグの酩酊かのような場面は多々あったわけで、それを極端な形にしたのかもしれないのだが、太陽の光を正視できないのと同じでやり過ぎてスクリーンを正視できないのだ。光線過敏症でなくともどうにかなってしまうんじゃないかと心配になる。あまりに退屈だとか、ゴア描写がグロテスクでとか、様々な理由で見られない映画はあるかもしれないが、本作は描かれているものよりも光の過剰さによって肉体的に拒否反応を起こしそうなくらいだった。

(C)2020 SAINT LAURENT VIXENS LES CINEMAS DE LA ZONE

映画と現実

本作はふたりの女優の会話から始まるのだが、そこではベアトリスがシャルロットに「磔って最高よ、あなたはまだ経験ないの?」みたいに話している。ここでのふたりの会話はアドリブっぽく感じる。ふたりは実際に自分が出演した映画について語っているんじゃないだろうか。女優たちは映画とはいえ擬似的な現実を体験することになるのだ。

映画はもちろん虚構のものだが、撮影現場においては実際にリアルにそれを再現しようとするわけで、磔のシーンを撮るとすれば当然ながら女優は磔にされることになる。本作で引用されているカール・テオドア・ドライヤー『怒りの日』では女優の迫真の演技が見られるらしいのだが、それはなぜかと言えば、撮影時にはその女優は実際に2時間も磔のままにされていたからなのだ。映画の撮影現場は異様な世界なのだろう。

本作ではギャスパー・ノエ監督自身は作品内に登場することはないわけだが、繰り返し“地獄巡り”を描く彼は、役者を自分の分身として映画撮影という地獄を楽しんでいるようにさえ見えた。もっとも観客がその地獄を楽しめるかは疑問だが……。

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