『Here』 ここにも、あそこにも?

外国映画

監督・脚本はバス・ドゥボス。この人はカンヌ国際映画祭やベルリン国際映画祭などで注目されているベルギーの監督。本作は長編第4作で2023年製作の最新作。

第73回ベルリン国際映画祭エンカウンターズ部門にて最優秀作品賞&国際映画批評家連盟賞(FIPRESCI賞)をダブル受賞した。

主演は『ゴースト・トロピック』にも警備員役で顔を出しているシュテファン・ゴタ

物語

ブリュッセルに住む建設労働者のシュテファンは、アパートを引き払い故郷のルーマニアに帰国するか悩んでいる。姉や友人たちにお別れの贈り物として冷蔵庫の残り物で作ったスープを配ってまわる。出発の準備が整ったシュテファンは、ある日、森を散歩中に以前レストランで出会った女性のシュシュと再会。そこで初めて彼女が苔類の研究者であること知る。足元に広がる多様で親密な世界で2人の心はゆっくりとつながってゆく。

(公式サイトより抜粋)

お散歩ムービー?

主人公であるシュテファン(シュテファン・ゴタ)は、仕事が休みになりバカンスに向けて準備中だ。部屋をしばらく空けることになるために、冷蔵庫の中身を空にしようとスープを作り、友人たちに配って回っている。

彼は休みの日に家にいると寝てしまうらしく、起きると外に出て、知らない場所を歩き回るらしい。そんな散歩中に出会ったのがシュシュ(リヨ・ゴン)という女性だ。

シュシュは苔類の研究者で、おばさんが中華料理の店をやっていて、いつもそこでご飯を食べている。シュテファンはたまたまその中華料理店でシュシュと出会い言葉を交わすのだが、その後、散歩中に森の中でシュシュと出会い親しくなる。

前作の『ゴースト・トロピック』は、電車を乗り過ごしてしまった主人公が夜の街を歩くことになる一種のロードムービーのような作品だった。ただ、主人公はまっすぐに家に向かうというよりは、あちこちをそぞろ歩いていく感じでもあり、道中にかつての職場を覗いてみたりしていた。『Here』の主人公シュテファンもあてもない散歩が好きなようで、歩き回るうちにシュシュと出会うことになるのだ。

©Quetzalcoatl

移民の多い街ブリュッセル

ベルギーのブリュッセルという場所は移民が多い場所なんだとか。ベルギー映画と言えばダルデンヌ兄弟の映画くらいしか知らないのだけれど、『その手に触れるまで』ではイスラムの少年が描かれていたし、『トリとロキタ』は不法移民の黒人たちの物語だった。ベルギーでは移民の存在はごく当たり前ということなのだろう。

『Here』のシュテファンはルーマニアからの出稼ぎ外国人労働者ということになる。シュテファンはまだベルギーに腰を落ち着けるかどうかはわからないから、今のところは移民とは言えないのだろう(国籍を移して永住することになれば移民ということになるらしい)。

一方でシュシュは中国系移民の二世ということになる。そんなふたりがブリュッセルという場所で出会うことになる。ふたりはベルギーでは外国人あるいは移民ということになり、自分の居場所ということを考えざるを得ない状況ということなのかもしれない。

しかし、ふたりには違いもある。というのはシュテファンは自分の意志でベルギーにやってきた外国人労働者だけれど、シュシュの場合は親の世代がベルギーにやってきて、シュシュはもしかしたらベルギー生まれなのかもしれない。こうした移民第一世代と第二世代の違いは『ゴースト・トロピック』でも描かれていたことでもある。

©Quetzalcoatl

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Here, There and Everywhere

シュテファンはベルギーの部屋から街並みを見下ろして「ここがオレの居場所だ」などと言っている。しかしこれは自分にそう言い聞かせているということなのか、実際には自分の居場所で悩んでいるらしい。

バカンスに故郷のルーマニアに戻ろうかどうかと悩んでいるし、それと同時に姉には故郷に戻ってベルギーには帰って来ないかもしれないなどと言ってみたりするのだ。ベルギーとルーマニアのどちらが自分の居場所なのか、“ここ(here)”がそうなのか、“あそこ(there)”がそうなのか、そんなことを感じているのだろう。

一方でシュシュは奇妙なことを語っていた。ある日、突然、物の名前が消えてしまったというのだ。物の名前が消えてしまうと、見えているものは変わらないはずなのに、それが違った“何か”として見えてくる。そんな瞬間があったというのだ。そして、その瞬間には、すべてのものが一様になり、わたしは“here”にいるし、“there”にもいるように感じられる。そんな奇妙なことが生じたらしい。

このシュシュに起きた出来事にはもう少し説明が必要かもしれない。これは禅仏教における「無分節」の状態と似たようなことなのだろう。禅の境地においては、「山は山にあらず」「川は川にあらず」という状況になるという。言葉は対象物を分節化し、対象を「山」や「川」に切り分けることになるのだが、禅の境地ではそうした境界が消える瞬間がある。この状態を井筒俊彦は「無分節」と表現した(鈴木大拙なら「無分」と呼ぶのだろう)。

この境地では物事の境界線というものがなくなり、「わたし」や「あなた」もなければ、「山」も「川」もないように感じられ、すべてのものが「わたし」に、すべてが「一つ」になったように感じられるらしい。シュシュに起きた現象もそうした境地を指しているということだろう。

こう感じられる瞬間は、シュシュにとっては自分の居場所というものを肯定できる瞬間になるだろう。“here”に居ようが“there”に居ようが同じことになるわけだから。

©Quetzalcoatl

もっとも、これは私の解釈であって、バス・ドゥボス監督が禅仏教の影響を受けているか否かは知らない。それでも似たようなことを考えているということなのだろうと推測する。

シュテファンとシュシュは“here”というものの捉え方が違っていたけれど、ふたりが出会ったことで、多分、シュテファンはベルギーこそが自分の居場所だと感じたということなのだろう。だからこそ最後にシュシュにもスープをプレゼントすることになるのだ。

バス・ドゥボス監督の二作品を続けて観たのだけれど、描かれているのは些細な出来事の連続なのだが、いつの間にかに夢幻の世界に入り込んでいくような瞬間があった。その瞬間が心地いいのだ。

本作においてはシュテファンは夢の中で緑色に光る“何か”を見つけることになる。それは宝物のように見えたのだが、もしかすると苔のことだったのかもしれない。シュシュは「小さな森」と苔のことを表現しているけれど、本作のカメラが捉える苔の姿はとても美しいものがあり、ふたりがそれに魅了されるのもわかる気がした。

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