監督・脚本は『さすらいの女神たち』などのマチュー・アマルリック。
原作はクロディーヌ・ガレア戯曲「Je reviens de loin」。
原題は「Serre moi fort」で、これを英語にすると「Hold me tight」になる。
主演は『ファントム・スレッド』や『ベルイマン島にて』などのヴィッキー・クリープス。
何をやり直すのか?
冒頭は、ポラロイド写真で神経衰弱をするクラリス(ヴィッキー・クリープス)のシーンから始まる。ところがクラリスは途中で嫌気が差したのかすべてをぐちゃぐちゃにし、「やり直す」と叫んでいる。一体何を「やり直す」のかわからないまま、その後、クラリスはこっそりと家を出ていくことになる。ぐっすり眠っている旦那と子供たち2人を残して……。
なぜクラリスは家出しなければならなかったのか。その理由が明かされることのないままに映画は進んでいく。彼女はガソリンスタンドで誰かと会い、海へと向かうことを話す。一方でクラリスが消えた家では、母親がいない生活がスタートする。家出はいつものことなのか、特段ビックリした様子もない。
ところが前半のある時点で、クラリスは「家出したのは私ではない」などと言い出すことになる。これは一体どういうことなのか?

(C)2021 – LES FILMS DU POISSON – GAUMONT – ARTE FRANCE CINEMA – LUPA FILM
あらすじは1行だけ
公式サイトにある「あらすじ」は、たった1行だけで終わっている。「家出をした女性の物語、のようだ」、これだけだ。もっと情報があっても良さそうなものだけれど、なぜかこれだけしか提示されないし、予告編では監督も「彼女に何が起きたのか、映画を見る前の方々には明らかにしないでください」と語っている。
本作ではある秘密が隠されている。だから、本作は何も知らないで観たほうが、驚きはあるのだろう。とはいえ、その秘密を知らずに観ると、なかなか難解であるかもしれない。
感覚としてはアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』みたいなものを感じた。難解な映画としても知られる『去年マリエンバートで』は、一度観ただけでは何が描かれているのかよくわからないのだが、現在と過去に加え、男の側の回想と女の側の回想が複雑に絡み合っているということらしい。
マチュー・アマルリックの前作『バルバラ 〜セーヌの黒いバラ〜』も、物語をわかりやすく語るというものとはかけ離れていた。『バルバラ』は有名なシャンソン歌手の伝記映画を撮る舞台裏を描いた作品と言える。しかし単純に映画撮影の舞台裏を描くわけではない。
この映画では、バルバラというシャンソン歌手の伝記の層と、それを演じることになる女優の層、それらが曖昧になっていく。その女優はバルバラを演じているのではなく、バルバラ本人になってしまったかのように勘違いしていくし、それを撮る監督もその女優をバルバラと同一視するようになっていく。伝記映画とその舞台裏、それらがシームレスになっていくところが特徴的なのだ。
※ 以下、ネタバレあり!

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悲しい女の物語
ここでネタバレしてしまうと、実際に家から消えたのはクラリスではなく、クラリス以外の3人だったということになる。3人は雪山で遭難し、遺体は春にならないと出てこないということらしい。このあたりの時間経過というものはあまりハッキリとはしないのだが、とにかくクラリスは家にひとり残されることになる。ただ、それはあまりに耐え難いことだろう。そのことがクラリスを家から遠ざけることになる。
クラリスは家出をし、ひとり旅に出る。そして、クラリスが去った家では、残された3人がクラリスのいない生活を送っていくことになる。当然ながらこれはクラリスの妄想だ。しかし、そんな妄想に逃げ込むことでしかクラリスは生きていけないような状態にあったということであり、本作は悲しい女の物語なのだ。冒頭のクラリスが「やり直す」と言っていたのは、家族を復活させるための妄想の展開がうまく行かなかったということなのだろう。だから再びそれを「やり直す」ことになるわけだ。
つまり本作は、クラリスが家を出てひとりで旅をしているという現実と、家に残された3人の家族という妄想とが交じり合って展開していくことになる(加えておけば、クラリスと旦那との出会いなどの過去も含まれてくる)。しかもその妄想の中で子供たちは成長していく。
子供たちが生きていたらこうなっていたかもしれない、あるいはこうなって欲しかった、そんな想いが妄想をさらに進めるのだ。クラリスが現実世界で観たピアニストのマルタ・アルゲリッチのドキュメント映画は、クラリスの妄想へ影響を与え、娘は急にピアノがうまくなり、ついには自分の娘がマルタ・アルゲリッチ本人になるまで進んでいく。

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「意識の流れ」の映像化
本作はそんなふうにクラリスが生きる厳しい現実と、それを耐え抜くための妄想が渾然一体となって描かれていくことになる。小説の世界では「意識の流れ」という手法があるけれど、本作はその手法を映画的に応用したということになるかもしれない。
人の意識は明確な筋道を立てて流れていくわけではない。現実世界に意識がある時もあれば、ちょっとした瞬間に想いは過去に向かっていくこともある。そして「あの時、こうすればよかった」といった後悔の念は、もしかしたらあり得たかもしれないという妄想の世界へ誘うことになる。本作はクラリスという女性の「意識の流れ」をそのまま映像化したような映画となっているのだ。
正直に言えば、私は一度観ただけなのでよくわかっていない部分もある。何度か観てみないと詳細を把握するのは難しいのかもしれない。とはいえ、本作は映像と音楽がうまく交じり合っていて心地よく感じる瞬間がある。
娘が演奏する様々なピアノ曲は本作の基調のように鳴り響いているし、予告編でも使用されているThe Brian Jonestown Massacreの「Open Heart Surgery」とか、クラリスが歌うことになるJ. J. Caleの「Cherry」のシーンがとてもいいのだ。だから、全体的にはよくわからないとはいえ、もう一度観てみたいという感覚を生むことになっているのかもしれない。
家で過ごしている3人の家族の姿は、実はクラリスの妄想だったわけだけれど、最初はそれは秘密にされている。それでもその映像がどこかで外部の世界とリンクしているように描かれている。これはクラリスがいる現実世界とのリンクだったということなんだと思う。後半では旦那のマルク(アリエ・ワルトアルテ)とクラリスがテレパシーで通じ合っているようにも見えて、このあたりはちょっと不思議な感覚だった。そのうちもう一度観てそのあたりの感覚を確認してみたい。
実はマチュー・アマルリックは役者としては知っていたけれど、監督としても活躍していることは知らなかった。今回慌ててU-NEXTで配信していた『バルバラ 〜セーヌの黒いバラ〜』と『さすらいの女神たち』を観た。
『さすらいの女神たち』は落ちぶれた元テレビ・プロデューサーがショー・ガールたちと旅に出る話だ。この映画も明確な筋はないのだが、音楽の使い方がうまいし、もの悲しさを感じさせるラストがとてもいい。役者の片手間の仕事とは思えない仕上がりぶりで、カンヌ国際映画祭では監督賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。もともとマチュー・アマルリックは役者よりも作り手になりたかった人なんだとか。それはこの『彼女のいない部屋』の出来上がりを見ても感じられると思う。
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