『秘密の森の、その向こう』 それぞれの気遣い

外国映画

監督・脚本は『燃ゆる女の肖像』などのセリーヌ・シアマ

原題は「Petite maman」。

物語

8歳のネリーは両親と共に、森の中にぽつんと佇む祖母の家を訪れる。
大好きなおばあちゃんが亡くなったので、母が少女時代を過ごしたこの家を、片付けることになったのだ。
だが、何を見ても思い出に胸をしめつけられる母は、何も言わずに一人でどこかへ出て行ってしまう。
残されたネリーは、かつて母が遊んだ森を探索するうちに、自分と同じ年の少女と出会う。
母の名前「マリオン」を名乗る彼女の家に招かれると、そこは“おばあちゃんの家”だった――。

(公式サイトより抜粋)

小さなお母さん

亡くなった祖母の家の後片付けに訪れたネリー(ジョセフィーヌ・サンス)と両親。その家は母親マリオン(ニナ・ミュリス)にとっては自分が生まれ育った場所で、そこを片付けるのが辛い様子で、次の日の朝、その家を出て行ってしまう。家に残された父親(ステファン・ヴァルペンヌ)とネリーはそんな母親のことを慮ってか、ふたりで後片付けに励むことになる。

ネリーが片付けの最中に出てきたゴム紐付きのテニスボールで遊んでいると、ゴムが千切れたボールは森の奥へと飛んで行ってしまう。ネリーがそれを追って森の奥へと進んでいくと、そこには母親が話していた小屋があり、その傍らには女の子が佇んでいる。

実はこの女の子はネリーの母親であるマリオン(ガブリエル・サンス)なのだ。しかし、そのマリオンはネリーと同じ年齢なのだという。つまりはネリーは森の中でなぜかタイムトラベルし、母親マリオンの子供時代にたどり着いてしまうのだ。このことはネタバレでもなんでもなく、原題の「Petite maman」にも示されている。字幕では「若いお母さん」となっていたけれど、「小さなお母さん」ということだからだ。

(C) 2021 Lilies Films / France 3 Cinema

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森がタイムマシン?

通常、映画の中でタイムトラベルを描く時には何かしらの装置が必要だろう。タイムマシンとしての『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンみたいなものだ。ところが本作ではそんな装置は一切登場しない。ネリーが森の奥に入っていくとタイムトラベルしてお母さんが小さかった頃へとたどり着くことになり、その家を抜け出して森を通ると、今度は祖母の遺品を片付けている元の家へとたどり着くことになる。この森は時間と空間を歪めてしまうのだ。

ネリーは森で出会った少女が何者なのか最初はわからない。ただ、雨宿りのためにその少女の家に行ってみると、その家が祖母の家とまったく同じであることに気づく。そして、その少女がマリオンという母親と同じ名前であり、少女の母親(マルゴ・アバスカル)が祖母と同じ杖を持っていることで、ネリーは自分がタイムトラベルしていることにも気づいてしまうのだ。

親というのはいつまで経っても親だし、子供からすれば産まれた時にはすでに大人の姿をしている。そして、親も子供の成長と共に歳を重ねていくわけで、その年齢差は決して埋まることはない。だから親にも子供の頃があったなんてことは不思議に思えるし、昔の写真なんかが出てきたりしてもリアリティがない気がしてしまう。そんなふうに感じるのは、映画を観ている自分がすでに大人になってしまっているからだろうか? 8歳のネリーは、小さなお母さんと一緒にいるという奇跡的な出来事をすんなりと受け入れてしまうのだ。

これがネリーが見た夢や幻想ではないことは、小さなお母さんであるマリオンがネリーの父親(つまりはマリオンの将来の旦那様ということになる)にも会っていることにも示されている。そんな意味では荒唐無稽なファンタジーと言えるのだが、ネリーと小さなマリオンの無邪気でありながらも真剣な様子を見ているとそれも許せるような気持ちになってくる。

(C) 2021 Lilies Films / France 3 Cinema

シスターフッド

セリーヌ・シアマの映画では男性の影が薄い。というか、ほとんど邪魔者扱いされている場合もある。前作の『燃ゆる女の肖像』では、主人公である画家とモデルとなるお嬢様とその召使いの3人の女性の関係が描かれていた。3人は主人が去った屋敷で女だけの親密な関係性を築いていくことになるのだが、その関係が終わる瞬間は、出来上がった肖像画を運ぶための男性が屋敷に現れた時として示されている。ここでは男性は女性たちの関係を邪魔するものになっている。

ちなみにセリーヌ・シアマの過去作品には邦題で『ガールフッド』(原題は「Bande de filles」で、「女の子たちの集団」みたいな意味らしい)という作品もあって、セリーヌ・シアマの作品において女性たちの関係性が重要であることはここにも示されている。デビュー作の『水の中のつぼみ』も同じように3人の女性の関係が描かれていて、セリーヌ・シアマの映画ではいわゆる“シスターフッド”がテーマとなっているということなのだろう。この言葉は「女性同士の連帯・親密な結びつきを示す概念」とされるものだ。

(C) 2021 Lilies Films / France 3 Cinema

それぞれの気遣い

『秘密の森の、その向こう』でも父親の影は薄い。祖母の家までの道中でも、母親とネリーがお菓子を食べながら仲が良さそうな雰囲気を出しているのに対し、父親は荷物を乗せたトラックでふたりの車を先導しているだけでその時点では何者なのかもわからないのだ。この父親は『ガールフッド』の強権的な兄のように女性に対しての何かしらの壁になるわけではないけれど、母親がいる時はあまり目立たない存在なのだ。本作はあくまで祖母と母親、そしてネリーという女性3人の関係が重要になっていると言える。

ネリーは亡くなった祖母に「さよなら」を言えなかったことを後悔しているし、祖母の死後それを悲しんでいる母親のことも気にしている。ネリーは8歳のマリオンが小さなお母さんであることに気づくけれど、そのことを秘密にしておいてもよかったはずだ。それでもその秘密を彼女に打ち明けるのは、ネリーの小さなお母さんに対しての気遣いであったようにも感じられた。その頃のマリオンは手術を控えていて、それを怖がっていた節があり、それは死に対する恐怖にもつながってくる。しかしそんな彼女が将来ネリーを産むことになるとすれば、手術には問題がないということを示すことになるからだ。

一方でマリオンもネリーの抱えた不安を気遣っている。ネリーは家を出て行ってしまった母親のことを気にしているのだが、その母親(つまりは将来のマリオン)の悲しみはネリーのせいじゃないと優しく声をかけるのだ。ここでは母と娘の関係というよりも、もっと対等でより親密な関係になっているし、それぞれが互いを気遣っていると言えるんじゃないだろうか。本来は年齢差や母と娘という役割から実現が難しかったのかもしれないけれど、本作ではタイムトラベルによってふたりは今まで以上のつながりを実現したということなのだろう。

本作は子供たちの映画だからもっとはしゃぎ回るシーンがあってもよさそうなものだけれど、意外と静かな作品になっている。ネリーとマリオンを演じているのは、ジョセフィーヌ・サンスガブリエル・サンスという双子だが、とても醒めて見える瞬間もある。それでもクレープを作るシーンのように、急に子供らしい笑い声を上げる時もあって、そういう場面は素の部分が垣間見えていたのかもしれない。

双子のふたりの顔がほとんど見分けられないからか、本作では衣装によってふたりを区別している。青のネリーに対して、赤のマリオンという住み分けになっているのだが、クレープ作りの時はふたりとも緑系統の衣装になっている。この色使いは『燃ゆる女の肖像』の時と同じだ。セリーヌ・シアマはこのそれぞれの色に何かしらの意味を込めているということなのかもしれない。

前作も余計なものがなかったが、本作も音楽がかかるのはエンドロールを除けば1カ所だけで、それがふたりの最後のかけがえのない時間を盛り上げることになっている。73分という潔いくらいの上映時間もアリだし、繊細で複雑な大人の女性を描いた『燃ゆる女の肖像』よりもシンプルなこっちのほうが好み。

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