『マイ・ブロークン・マリコ』 弱さを押し付けるとは?

日本映画

原作は平庫ワカの同名漫画。

監督は『百万円と苦虫女』『ロマンスドール』などのタナダユキ

物語

ある日、ブラック企業勤めのシイノトモヨ(永野芽郁)を襲った衝撃的な事件。それは、親友のイカガワマリコ(奈緒)がマンションから転落死したという報せだった――。彼女の死を受け入れられないまま茫然自失するシイノだったが、大切なダチの遺骨が毒親の手に渡ったと知り、居ても立っても居られず行動を開始。包丁を片手に単身“敵地”へと乗り込み、マリコの遺骨を奪取する。幼い頃から父親や恋人に暴力を振るわれ、人生を奪われ続けた親友に自分ができることはないのか…。シイノがたどり着いた答えは、学生時代にマリコが行きたがっていた海へと彼女の遺骨を連れていくことだった。道中で出会った男・マキオ(窪田正孝)も巻き込み、最初で最後の“二人旅”がいま、始まる。

(公式サイトより抜粋)

壊れているのは?

タイトルからすれば壊れているのはマリコ(奈緒)のはずだが、マリコの死を知るとシイノ(永野芽郁)は途端にタガが外れたように壊れる。営業の仕事は放り出し、クソ上司の叱責は適当に受け流し、ある行動に移ることになる。

シイノは躊躇なしに怒涛のように突き進んでいく。包丁を携えてマリコの家に乗り込むと、骨壺を奪還して啖呵を切るのだ。マリコの父親(尾美としのり)はマリコを虐待し、レイプしてきた毒親だ。そんな輩に弔われるなんて「白々しくてヘドが出る」とぶちまけるのだ。

そして、シイノはすべてを捨ててマリコと旅に出る。骨壺と銀行通帳とマリコからもらった手紙だけを持って、彼女が行きたいと言っていた“まりがおか岬”へと向かうのだ。

(C)2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会

骨壺との旅

親友の骨と一緒に旅をするという話だと予告編で知り、『ガルシアの首』とか『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を思い浮かべた。もちろん現代日本では生首や死体と旅をすることはあまりに非現実的なので骨壺になっているが、どの作品も主人公が物言わぬ相手に話しかけながら旅をしていくという点では共通しているからだ。

もう亡くなったマリコとは言葉を交わすことは叶わない。だからシイノは独りで骨壺に話しかけることになる。そうすると過去の出来事が蘇ってきてシイノは過去のマリコと出会うことになるのだ。

旅の最初にバスに乗った時、観客はシイノの膝に乗っている幼いマリコの姿を見ることになる。マリコは今では焼かれて骨壺に小さく収まっているから、そんなふうに抱えることができるのだ。それはマリコが守るべき対象だと示している。マリコは子供の頃から父親から虐待を受け、シイノはそれを知りつつも、無力でマリコを助けることはできなかった。そのことがシイノに骨壺奪還をさせることになるのだ。

しかし、旅が進むにつれ、それだけではない姿も見えてくる。シイノが苛立つのは、次第にマリコのきれいな姿しか見えなくなってくることだ。亡くなった人を美化するということはあるだろうし、そうすることで遺されたほうも安心できるということなのかもしれない。

とはいえ、シイノにとってのマリコは単なる守るべき弱い存在というだけではない。シイノには自分には「マリコだけだ」という想いがある。一方でマリコはシイノに彼氏ができたら自殺すると脅しつつも、自分には彼氏がいて、その彼氏からもDVを受けてシイノに泣きついてきたりもする。とにかくはた迷惑で「めんどくせー女」なのだ。それでもシイノはマリコから離れることはできなかったということなのだろう。

(C)2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会

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弱さを押し付けるとは?

シイノは、マリコに対して周囲の男性たちが「自分の弱さを押し付けた」と評している。これはどういう意味だったのだろうか?

マリコの父親は彼女を壊れさせた張本人と言える。彼のやったことは完全にアウトで、それに関しては弁解のしようもないだろう。それでもこの父親はそんな娘の仏壇の前で涙を流してみたりもする。父親は自分の弱さをマリコに押し付け、そのマリコを虐待することでどうしたかったのだろうか? そして、シイノとマリコとの関係にもそれと同様のものがあるということだったのだろうか?

シイノとマリコの関係にはある種の共依存があるようにも見えたのだが、シイノを演じた永野芽郁はそれとはちょっと違うものを感じていたようだ。そんなふうに規定の言葉にあてはめてしまうことのできないような関係だったということなのかもしれない。とにかくそんな様々な疑問が解消することもないままに頭の中を渦巻いている感じだ。

(C)2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会

漫画に何を付け足すか

原作の漫画は話題の作品だったらしい。「文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞」を獲得したとかで、とても評判だったとのこと。監督のタナダユキもほかの人に撮られたくないという気持ちでこの作品に挑んだということだから、原作を気に入ってということだろう。

ちなみにタナダ監督の前作『浜の朝日の嘘つきどもと』には後日談のドラマ版(現在U-NEXTにて配信中)があり、そこでは主人公が骨壺を抱えて登場する場面がある。『浜の朝日の嘘つきどもと』も主人公が亡き恩師の願いのために一肌脱ぐという話だった。

『マイ・ブロークン・マリコ』の原作の発売と『浜の朝日の嘘つきどもと』のドラマ版の公開はほぼ同じ頃なので影響関係はないのかもしれないけれど、亡くなった友人のためにという想いでは重なっているとも言えるわけで、タナダ監督が原作に惹かれたのはそのあたりにもあるのかもしれない。

私は映画の後に漫画も読んでみたのだが、映画はかなり原作に忠実に作っていることがわかる。ラストで舞うマリコの骨や、たまたま出会ったマキオ(窪田正孝)の言葉などまったくそのままだ。ただ、原作のあまりの短さからかちょっと付け足しているところはある。

シイノはすべてを捨てて旅に出たはずが、旅の後では呆気なく日常生活が戻ってくる。そのあたりのエピソードは追加されている。ほかにも“まりがおか岬”へと向かうバスの中でひとりの少女が丁寧に描写されているけれど、結局はシイナが手を振って別れただけだったりするのは、劇場公開の長編として帳尻を合わせるための時間調整みたいなものだったのかもしれない。とはいえそれも原作のイメージを変えるようなものではない。

正直に言えば、映画のほうはシイノのマリコへの感情がうまく伝わって来ずに空回りしているような気もして、あまり入り込めなかった。シイノはマリコに劣らず壊れているわけだけれど、原作漫画ではそれがデフォルメされた絵によって感じられることになっていたんじゃないかと思う(グチャグチャな心の内をグチャグチャな顔が示す)。映画ではそれを現実の役者が演じることになるわけで、デフォルメした絵のような表現は難しかったのかもしれない。何かしらほかの部分でそれを補うものがあってもよかったんじゃないかとも思うのだけれど、これは端的に漫画原作を実写映画化することの難しさでもある。原作リスペクトが強いだけに余計にそれが“縛り”になってしまっていたのかもしれない。

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