『よだかの片想い』 意外な成長?

日本映画

原作は直木賞作家・島本理生の同名小説。

監督は『Dressing UP』などの安川有果。本作は長編作品としては第2作。

脚本は『アルプススタンドのはしの方』などの城定秀夫

『寝ても覚めても』『愛がなんだ』などを手掛けたメ~テレと制作会社による「(not) HEROINE movies」の第2弾作品。ちなみに第1弾は『わたし達はおとな』

物語

理系大学院生・前田アイコ(松井玲奈)の顔の左側にはアザがある。幼い頃、そのアザをからかわれたことで恋や遊びには消極的になっていた。しかし、「顔にアザや怪我を負った人」をテーマにしたルポ本の取材を受けてから状況は一変。本の映画化の話が進み、監督の飛坂逢太(中島歩)と出会う。初めは映画化を断っていたアイコだったが、次第に彼の人柄に惹かれ、不器用に距離を縮めていく。しかし、飛坂の元恋人の存在、そして飛坂は映画化の実現のために自分に近づいたという懐疑心が、アイコの「恋」と「人生」を大きく変えていくことになる・・・。

(公式サイトより抜粋)

頑固さと繊細さ

『よだかの片想い』はアザを持つ女性を主人公とした“恋愛もの”ということになるけれど、それと同時にその恋愛を通して主人公が成長していく“ビルドゥングスロマン”ということになるだろう。ただ、その変化の仕方が私にはちょっと意外なものに感じられた。それに関しては後で触れることにする。

タイトルの“よだか”とは宮沢賢治『よだかの星』から採られている。この童話ではよだかは醜い鳥だとされていて、ほかの鳥たちからイヤがられている。なかでも似たような名前の鷹は特によだかのことを嫌っていて、鷹はよだかに改名することを要求する。

これに対してよだかは「そんなことをするなら死んだほうがマシです」と突っぱねることになる。最終的によだかは夜空に向かって飛んでいき星になるわけだが、よだかが自殺めいたことをすることになるのは鷹からの脅しがあったからだけではない。よだかは死にたくはないのだけれど、自分が生きていることで、羽虫や甲虫を食べることになるわけで、そのことがイヤになって星になったのだ。

よだかには鷹の要求に対して「死んだほうがマシ」だと突っぱねる頑固さと、自分が生きることでほかの生き物が犠牲にならなければならないという事実に感じ入ってしまう繊細さが同居している。本作のアイコという主人公もそんな両面を持っているようにも見えた。

(C)島本理生/集英社 (C)2021映画「よだかの片想い」製作委員会

アザとトラウマ

主人公・前田アイコ(松井玲奈)が過去のトラウマについて語る場面がある。小学校の授業で琵琶湖の話題になった時、周囲の男子がアイコのアザが琵琶湖に似ていると騒ぎ出したというエピソードだ。しかし、アイコは男子にアザのことをからかわれたことをトラウマと感じているわけではない。アイコはみんなの注目が自分に集まることに恥ずかしながらも心地よさみたいなものも感じていたのだ。

では、なぜその出来事がアイコにトラウマをもたらすことになったのかと言えば、担任の先生がアイコを庇おうとクラスメートに「お前らなんて酷いことを言うんだ」と怒鳴りつけたからだ。担任によって、アザがあることは「酷いこと」だとされてしまったわけだ。アイコ自身はそんなことを感じていなかったにも関わらず、担任の言葉がアザをマイナスのイメージで捉え、そのことによってクラスメートはアイコに対して変に気をつかうようになってしまったのだ。それ以来、アイコはアザを通して世の中を見ていくことになる。

コンプレックスは誰でも持っているものだが、それがアイコみたいに明らかに人目に付くような場合は、外見ではない別のコンプレックスを抱えた人とは状況が異なるだろう。アイコのアザは他人との関係にも影響する。アイコはこうしたトラウマもあって、アザのことなど関係なくごく自然に付き合ってくれるような人を選ぶようになる。アイコが大学院に進んだのも、アイコにとってそこがとても居心地がいい場所だったからなのだ。

アイコはアザを隠そうとしない。それはアザがアイコにとっては自然なものであるという意味でもあるのだろうし、小学校の担任がアザを「酷い」ものだとしたことへの反発があるのかもしれない。アイコは友達のまりえ(織田梨沙)に頼まれてルポルタージュの表紙になるが、その時の意志の強そうな目は世間の偏見と闘ってきたアイコの頑固な側面を見る思いがする。一方で、アザがあることで他人から変に気を遣われるのがイヤだというのは、アイコの繊細な側面を感じさせるのだ。

(C)島本理生/集英社 (C)2021映画「よだかの片想い」製作委員会

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恋愛というステップ

アイコが映画監督・飛坂(中島歩)のことが好きになったのも、飛坂がアザを自然なものとして捉えていたからだろう。飛坂はアイコに手鏡をプレゼントとして贈るのだが、アザのことをマイナスとして捉えていたとしたらそんなプレゼントはしないからだ。

アイコはそんな飛坂に告白して付き合うことになり、ふたりはごく普通に恋人らしいことをしてみたりもするのだが、本作のタイトルが「よだかの片想い」であるように、最終的にはふたりの恋愛はアイコの片想いで終わることなる。

アイコの想いが片想いであるというのは、飛坂には本命がいて、叶わぬ恋だったからだ。しかもそれは飛坂にとっての職業である映画だということになる。飛坂が監督することになった映画で、アイコをモデルとした主役を演じる女優の美和(手島実優)は、飛坂の元カノでもあり、アイコは美和からふたりの関係を知らされる。美和は、飛坂にとって本命は映画でありそれは揺るぎそうになく、だからこそ女優と監督という別の形を選んだと語る。この告白はアイコにとって決定的な出来事になる。

(C)島本理生/集英社 (C)2021映画「よだかの片想い」製作委員会

意外な成長?

アイコは自ら飛坂との別れを選ぶことになるわけだが、そこには心境の変化がある。これは飛坂との恋愛によって、アイコが自分自身をより肯定できることになったということが大きいだろう。

ちなみに安川有果監督の前作『Dressing UP』(現在U-NEXTにて配信中)は、モンスターが登場したりもする意外性のある映画だが、その中心では厄介な自分を受け入れることを描いていたとも言える。本作のアイコも飛坂に受け入れられることで、自信を得てもっと前向きになったということなんじゃないだろうか。

上述したアイコの二面性だが、これは本人にとっても無理があったのかもしれない。というのは、アザのことで人から気を遣われたくないと思いつつも、そのアザを一切隠さないというのは矛盾しているからだ。しかし、アイコは飛坂との恋愛を通して、アザに対してもっと柔軟に考えられるようになる。それまではアザは自然のものだから隠す必要はないという意識があり、それが余計にアイコを縛っていたわけだが、そうした呪縛から自由になるのだ。

(C)島本理生/集英社 (C)2021映画「よだかの片想い」製作委員会

そんなアイコの成長=変化のきっかけのもう一つには、ミュウ先輩(藤井美菜)のことがあるだろう。彼女はアイコのアザを気にせずにあちこち連れ回してくれるお節介な人だ。そんな彼女は事故によって顔にやけどを負うことになってしまう。ミュウは自ら顔に傷を負うことで、今までアイコに対して無神経だったかもしれないと謝罪する。しかしアイコとしては、アザのことなんかを気にせずに自然に接してくれる彼女は大事な存在だったのだ。

ミュウは「人間は裸で生きるわけじゃないんだから」と語る。この言葉はやけどの跡を隠すために自分に言い聞かせるものだったかもしれないのだが、アイコがアザを化粧で隠すという一歩を踏み出すのにも一役買うことになる。つまり本作におけるアイコの成長というのは、化粧でアザを隠すようになるだけ、、であるとも言える。

私が意外だと感じたのは、この部分だ。それというのも私はアザが出来たら隠すことは当然だと思っていたからだろう。最終的にそこに至るのではなく、アザが大きくなったことに気づいた最初の段階で試されるものだったのではないか。そんなふうに感じていたのだ。

しかしながら本作を振り返ってみると、アイコは自らアザを隠さないことを選んでいて、そこからスタートして紆余曲折を経て「化粧で隠してもいいんだ」というところへたどり着いたわけで、たどり着いたところは同じでも、アイコには大きな葛藤があったということにようやく気づかされることになったのだ。私が本作のラストを意外なものと感じていたのは、アザを「酷い」ものだとするような偏見に囚われていたということだったのだろう。

(C)島本理生/集英社 (C)2021映画「よだかの片想い」製作委員会

解放感のあるラスト

ラストはミュウとアイコがサンバを踊るシーンだ。それまでのアイコは自分の居心地のいい場所で消極的に静かに生きていくことを望んでいたはずだが、最後のアイコはもっと前向きに人生を楽しむことを求めるように変わったと言えるだろう。夕方の逆光の中で踊るアイコの姿には、それまでの狭苦しい研究室から抜け出した解放感があってちょっとしたカタルシスがあったと思う。

城定秀夫の脚本は原作の説明的な部分を削ぎ落とし、アイコの変化を原作にはなかったサンバのステップという動きで示してみせた。ちなみに私は映画の後に原作を確認したのだが、そこにはもっと明確にアザを「酷い」ものだとするような偏見に対しての怒りが書かれている。城定はそれを言葉では表現せずにアイコの表情や態度で示そうという脚本にしている。

安川有果監督の演出もそんな脚本に応える仕事をしていた。アイコが飛坂との関係で愕然とさせられたのが、美和から飛坂の本命の存在を打ち明けられる場面だった。しかしその本命というのは映画だというのだから、これは撮り方によってはコメディになってしまうかもしれない。

この場面がアイコにとって衝撃的だったと観客にも感じられるのは、台詞が伝えてくる内容とそれを聞いているアイコの映像が微妙にズレていくような演出になっていたからだろう。衝撃の度合いが大きいと、人は自分が認識する外界の世界が途端によそよそしいものに感じられてくることがある。ここで狙っていたのはそんな感覚であり、美和から伝えられた内容よりも、その撮り方でアイコの心情をうまく観客に伝えていたんじゃないだろうか。

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