『山女』 弱者に犠牲を強いる権力者

日本映画

監督・脚本は『アイヌモシㇼ』などの福永壮志

脚本にはNHK連続テレビ小説『らんまん』を書いた長田育恵も参加している。

本作にはNHK BSで放送されたテレビ版があるらしいが、それは75分という短いバージョンで、本作は98分とのこと。

物語

18世紀後半、東北。冷害による食糧難に苦しむ村で、人々から蔑まされながらもたくましく生きる凛。彼女の心の救いは、盗人の女神様が宿ると言われる早池峰山だった。ある日、飢えに耐えかねた凛の父親・伊兵衛が盗みを働いてしまう。家を守るため、村人達から責められる父をかばい、凛は自ら村を去る。決して越えてはいけないと言い伝えられる山神様の祠を越え、山の奥深くへと進む凛。狼達から逃げる凛の前に現れたのは、伝説の存在として恐れられる“山男”だった…。

(公式サイトより抜粋)

ルーツである日本

『キネマ旬報』(2023年7月上・下旬合併号)のインタビューによると、福永壮志監督は16年という長い間ニューヨークで活動していたとのこと。そして、そこで映画も学ぶことになるわけだが、そのうちに自らのルーツである日本のことを意識することになったようだ。日本を離れていたからこそ日本人ということを意識することになり、今度は逆に日本のことを知りたいと考えることになったようだ。

ちなみに本作の前に長編デビュー作の『リベリアの白い血』を観たのだが(現在はAmazonプライムにて配信中)、この長編デビュー作でも故郷のことは重要な要素となっている。しかし、『リベリアの白い血』の主人公の故郷は日本とはまったく関係ない。

この作品は主人公はアフリカのリベリア共和国の人で、仕事を求めてニューヨークへと渡ることになる。リベリアはアメリカと関係が深い国で、公用語も英語だから主人公はすぐにニューヨークで仕事を始めることになるのだが、それでも故郷のことは切り離すことができない。というよりも故郷は亡霊の如くに付きまとうことになる。こんな故郷とのつながりが福永監督が日本を離れて感じたことだったのだろう。

そして、福永監督は長編第2作として、出身地である北海道のことを取り上げた『アイヌモシㇼ』を撮ることになった。さらに今回の『山女』では、先ほどインタビューの言葉を引用すれば「日本や日本人といったものの源流に触れたい」と感じ、柳田國男『遠野物語』からインスピレーションを受けた物語を綴ることになったというわけだ。

(C)YAMAONNA FILM COMMITTEE

柳田國男の霊魂観

柳田國男は『先祖の話』という本でこんなことを書いているらしい。私自身は『遠野物語』は読んだのだが(口語訳がとても親しみやすい)、『先祖の話』は読んでいないのでその本の紹介文から引用させてもらうと、「人は死ねば子孫の供養や祀りをうけて祖霊へと昇華し、山々から家の繁栄を見守り、盆や正月にのみ交流する――膨大な民俗伝承の研究をもとに、日本人の霊魂観や死生観を見いだす。」のだそうだ。

この先祖が近くの山から子孫を見守っているという霊魂観は、日本人なら多くの人がそんなふうに教わってきたことだろう。お盆になるとキュウリの馬とナスの牛を供えるのも、それに乗って先祖がやってくることになっていたからで、そうした霊魂観をごく自然に受け入れてきたわけだ。

『山女』もそんな霊魂観に基づいて作られている。冒頭、凛(山田杏奈)は口減らしのために村人が殺した赤子を川に流しにいく。凛の家は曾爺さんが犯した罪によって、今も差別される状態にある。田畑は奪われ、村の汚れ仕事を押し付けられているのだ。凛は亡くなった赤子を川に流すのだが、「次は人に生まれてきたらダメだよ」と優しく言って聞かせている。

この川は遠くにそびえる早池峰山はやちねさんの麓へと流れていくように見える。実際には川が山に向って流れるわけはないわけだが、映画ではそんな位置から画面が構成されている。亡くなった赤子が流れていく場所も、祖先たちが眠る早池峰山であるということが示されているのだ。そして、凛はそんな祖先たちが見守っている早池峰山に向って合掌することになるわけで、柳田國男が書いた日本人の霊魂観というものを意識させる冒頭となっているのだ。

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化け物を作り出す人間の話

タイトルの“山女”とは一体何か? “山姥やまんば”というのは山に住む妖怪のことを言うらしく、ちょっと前には女子高生の見た目が“山姥”風だったりして話題にもなったわけだけれど、山女というのはリアルな存在だ。柳田國男は遠野地方に住んでいる人たちからの聞き書きで『遠野物語』を編纂した。実際に山女や山男とされるような人がいたということだろう。

本作では凛が山女となるわけだが、それには理由がある。凛の村は大変な冷害に苦しんでいて、それでなくとも厳しい村の生活はほとんど破綻状態にある。その上、凛の家は先祖の罪によって理不尽にも差別された状態にある。その怒りが父親・伊兵衛(永瀬正敏)に盗みを働かせることになるわけだが、それはすぐに露呈してしまう。

家から盗人が出たとなればさらに立場は酷いことになる。それでも力のある父親がいれば、目の悪い弟を食べさせていくことは可能かもしれないが、非力な凛にできることには限度がある。そんなことを思ったのか、凛は咄嗟に父親の身代わりとなってしまったため、村に居られなくなってしまったのだ。

凛は神隠しにあったことにして、自ら村の境界線を越えて山へと入っていく。本作では“村”と“村の外”ということが明確に意識されている。村の外れには“しめ縄”が張ってあり、それは神社の鳥居のような役割をしている。そして、その先にあるほこらも似たようなもので、そこから先は村人たちが立ち入ってはいけない場所とされているのだ。

山が立入禁止とされているのは、そこが多くの獣たちの住む場所であり、狼などの住処でもあるから単純に人間には危険であるからでもあるのだろう。そんな場所に好き好んで住む人はいないわけだが、凛は山に入るほかなくなったというわけだ。ところが狼に襲われそうになった時、山の中から何者かが出てきて凛のことを助けることになる。それが伝説の存在として恐れられる“山男”だったのだ。

山男(森山未來)は超人的な力を持っているようにも見えるけれど、どこかの村から山に逃げ込んできた単なる男に過ぎないのだろう。これは『ウィッチ』で魔女とされた少女が森の中に逃げ込むのと同じだろう。村の人たちは共同体から誰かを弾き出すことによって魔女を産み出し、山女・山男を産み出しているということなのだ。

福永監督はインタビューでこれに関して、「化け物の話ではなく、それを作り出す人間の話」だと語っている。化け物を作り出すのが、その周囲の人たちだというのは、最近の『怪物』にも通じることだろう。

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弱者に犠牲を強いる権力者

凛は一度は山女として生きる決心をしたわけだが、さらに村の都合によって翻弄されることになる。村は冷害を治めるために“人柱”を必要とし、村長(品川徹)は村人の娘の中からひとりの犠牲者を出すことを決めたからだ。

村長は「村のために決断することが必要だ」と訴えるわけだが、それに対し村人のひとりは「村っていうのは俺たち村人のことだろう?」とつぶやく。村長とその助手の男(でんでん)は村のためと言いつつも、我が身の安泰ばかりを考えているわけで村人が反感を覚えるのも無理はない。

こんなふうに村での生活は雁字搦めだ。凛のことが気になっている泰蔵(二ノ宮隆太郎)は、家のために凛のことを諦め、権力者に近い位置にいる春(三浦透子)と結婚することになる。生きていくためには、それに従うしかなかったからだろう。同じように凛は「村のために」更なる犠牲を強いられるようになるのだ。

本作は18世紀末、つまりは江戸時代の頃の話だ。しかしながら現代と変わらないこともある。権力者たちは自己保身に恋々とし、「国のため」「家のため」といった名目で、弱き者たちに犠牲を強いているということだ。たとえばコロナ禍の日本で政府がやったこともまた、弱者の切り捨てなんじゃないのかと訴える『夜明けまでバス停で』などとも共通するところがあるのだろう。

凛の父親・伊兵衛は、先祖の罪によって自分たちが不遇な扱いを受けることに対して怒りを露わにする。これは尤もだけれど、その一方では凛よりも長男のことを優遇するわけで、「家の存続」のためには凛の犠牲は仕方がないとも考えているのだろう。村の中の弱者は伊兵衛一家だけれど、その中でも女性は最も弱い立場にあるということだ。

伊兵衛は凛を村に“人柱”として差し出した後、それによって田畑が取り返せることになったと、凛が「立派なお役目」を果たすことを褒め上げることになるわけだが、この時の伊兵衛の顔は暗闇に隠れて一切何も見えない。これは伊兵衛が自分の心の内を隠したかったからなんじゃないかとも思えた。どんな顔をしてそんな酷いことを言えるのだろう、そんな言葉が思い浮かんでくるような状況だからだ。

(C)YAMAONNA FILM COMMITTEE

映画的なビジュアル?

“山男”とは一体どんな存在だったのだろうか? 凛は山で生きるために山男に身を任せることを選んだのかもしれないのだが、山男はもはや人間的な関係性なんてものを超越しているようでもある。そんな意味ではいわゆる仙人のような存在なのだが、山男はかすみを喰って生きているわけではないわけで、動物の生肉をそのまま喰らっていたりもする。

それでも山男と凛がしばしの間暮らした時間は、平穏な時が流れていて、凛も村に居た時の汚れが浄化されたような表情をしていた。『ひらいて』の暗い目が印象に残っている山田杏奈は、本作ではほとんど笑うことすらないのだがやはり力強い目が印象的だった。

“人柱”として天の神様に捧げられる凛だが、その捧げ方が“火刑”だったのはちょっと意外にも感じられた。頼み込んで“人柱”になってもらうにも関わらず、“火刑”というのはあまりにも残酷だからだ。調べてみると江戸時代には“火あぶり”にされる人もいたようだが、それは付け火(放火)のような罪を犯した者に限られるとのことで、ここでは時代考証よりも映画的なビジュアルを重視したということだろうか。名作として名高い『裁かるるジャンヌ』のように、“火刑”にもだえ苦しむ女性の姿は壮絶だしインパクトがあるからだ。

本作は日本のルーツに迫るような作品となっているわけだが、スタッフには外国人と思しき名前が並んでいる。アレックス・チャン・ハンタイのアンビエントな音楽もよかったと思う。

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