『遺灰は語る』 達観した視点

外国映画

監督・脚本はパオロ・タヴィアーニ。パオロ・タヴィアーニは『父/パードレ・パドローネ』『グッドモーニング・バビロン!』などのタヴィアーニ兄弟の弟。兄のヴィットリオが2018年に亡くなったため、初めて単独での監督作品ということになる。

ベルリン国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。

原題は「Leonora addio」。このタイトルはノーベル賞作家ピランデッロの小説から採られたとか。曖昧な言い方なのは、日本語の記事がなくてきちんと確認できてないから。とにかく本作の内容とは関係ない原題となっているようだ。

物語

映画の主人公は、1936年に亡くなったノーベル賞作家ピランデッロの“遺灰”である。死に際し、「遺灰は故郷シチリアに」と遺言を残すが、時の独裁者ムッソリーニは、作家の遺灰をローマから手放さなかった。戦後、ようやく彼の遺灰が、故郷へ帰還することに。ところが、アメリカ軍の飛行機には搭乗拒否されるわ、はたまた遺灰が入った壺が忽然と消えるわ、次々にトラブルが…。遺灰はシチリアにたどり着けるのだろうか——?!

(公式サイトより抜粋)

主人公は遺灰?

かつて話題になった『死体は語る』という本があったけれど、本作は『遺灰は語る』だ。もちろん実際には遺灰は何も言わないのだが、本作ではピランデッロ(声:ロベルト・エルリツカ)というノーベル賞作家の亡霊が、自分の遺灰の行方を見守っていく形になっている。

ピランデッロの遺灰は数奇な運命を辿る。ノーベル賞作家という経歴は滅多にあるわけではないわけで、その遺灰はすぐに安らかな眠りにつくことはなかったのだ。そんなふうに言うと堅苦しいけれど、ピランデッロはすでに亡霊になっているわけで、政治とか時代の流れによって流浪していく遺灰の行方をあまり気にしている感じはしない。本作はのん気でちょっとおかしな旅を追う映画となっているのだ。

生前のピランデッロ自身は遺体は火葬し、遺灰も残さないことを望んでいたようだ。それでも自分の死が周囲にとって大きな影響を与えることを理解していたからか、一部譲歩もしている。もしそれが叶わぬならば、次善の策として故郷のシチリアの岩の中に閉じ込められることを望んだのだ。

しかし当時はファシストの時代だ。独裁者のムッソリーニはそれすらも許さず、ピランデッロの死はファシスト党のために利用され、その遺灰はローマの墓地に留め置かれることになった。そして、それから年月が流れ、独裁者が亡くなり、ようやく遺灰はシチリアへと向かうことになる。

(C)Umberto Montiroli

遺灰との珍道中

シチリアの特使(ファブリツィオ・フェラカーネ)は小さな骨壺に入っていた遺灰を、ギリシャ式の大きな壺に入れ替え、それを木箱の中に厳重に詰め込み運んでいくことになる。しかし飛行機で真っ直ぐにシチリアへと向かうはずが、迷信深い乗客たちが縁起が悪いと騒ぎ出し、特使は列車での移動を余儀なくされる。

列車の中では木箱が消えてなくなるトラブルに見舞われたりしながらも、長旅の末ようやくシチリアへ到着する。そこでもギリシャ式の壺に祈ることなどできないと司祭が騒ぎ出し、壺は子ども用の小さな棺へと収められる。それは子どもたちにとっては愉快なことだったようで、「小人の葬式みたい」と笑えてしまう出来事になってしまう。

シチリアに着いても、すぐに事は終わらない。彫刻家が見栄えのいい岩を選定し、それをオブジェとして整えるのにさらに15年もの月日が流れたらしい。そんな気の長い旅の末、ピランデッロの遺灰は生前彼が望んでいた場所へと収まることになる。 

(C)Umberto Montiroli

自由な語り口

本作は遺灰の旅を描くことになるわけだが、もともとはピランデッロの原作を映画化したタヴィアーニ兄弟『カオス・シチリア物語』のエピローグとして考えていたものらしい(私は観てないけれど)。

途中まで主人公みたいにも感じられた特使はシチリアまででフェードアウトしてしまうし、彫刻家の役割も重要ではない。様々な人の手を借りてその遺灰は収まるべきところに収まる。それだけの話だ。

イタリアの戦後史を振り返るような映像もある。この一部は『戦火のかなた』『情事』というイタリア映画の名作の引用も交じっていたようだ(どちらも観たはずだが、気がつかなかったけれど)。そうかと思うと、列車の中では戦争が終わったばかりだからなのか、ピアノを伴奏になぜか無表情で踊っている若者がいたりもする。何だか脈絡がないエピソードが続いていくようにも見えるのだ。

イタリア人男性が収容所で出会ったというドイツの女性と結婚するために列車に乗っているのだが、ふたりは列車の中の暗闇で愛し合ってしまう。パオロ・タヴィアーニ監督のインタビューによると、このエピソードは脚本にはなかったものの、撮影現場のふたりの雰囲気がよかったから付け加えたらしい。老練な監督によって、かなり自由に作られた作品なのだ。

その自由さはエピローグにも現れている。というのは、遺灰のエピソードとは無関係な短編が最後に付け加えられているからだ。

岩のオブジェに入りきらなかったピランデッロの遺灰を誰かが海に撒くことになるのだが、地中海が出てくると唐突にモノクロからカラーへと変わる。この青い色合いが鮮烈なのだが、そこから急にピランデッロが生前最後に書いたという短編が始まるのだ。

(C)Umberto Montiroli

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短編『釘』

シチリアからブルックリンに移民としてやってきた少年バスティアネッド(マッテオ・ピッティルーティ)。シチリアには母親を残してやってきた。というか父親が息子を母親から引き離して連れてきたのだ。

成長したバスティアネッドは父親がブルックリンでオープンした店で張り切って働いている。その日も音楽に合わせて踊ってみせて客を喜ばせるのだが、その後になぜか殺人事件を起こしてしまう。

バスティアネッドの前で二人の少女が奇声を発しながらケンカをしていると(少女の奇声が禍々しい)、通りかかった荷馬車が太い釘を落としていく。バスティアネッドはそれを見ると、釘を拾い上げ、赤毛の少女に突き刺したのだ。

バスティアネッドは警察に「定め」だと語るだけ。バスティアネッドはその後に刑期を終えると、死ぬまで毎年自分が殺した赤毛の女の子の墓参りに行っていることが示される。

(C)Umberto Montiroli

達観した視点

のんびりとした遺灰の旅から、理解しかねるような少年の殺人事件。これらは何の関係もない。強いて言えば、バスティアネッドが言うように、どちらも「定め」だったということなのだろうか?

この「定め」というバスティアネッドの台詞は、英語では「on purpose」となっているようだ。意味としては「わざと」ということになるらしい。始めから決められていたことだから、意図してやったんだということになるのだろうか?

冒頭ではピランデッロのノーベル賞受賞の様子が引用され、その後に死の床にあるピランデッロの姿が描かれる。きちんと整えられた無機質な部屋のベッドに横たわるピランデッロの姿は、『2001年宇宙の旅』のボーマン船長の最期とも重なってくる。

(C)Umberto Montiroli

まもなく死ぬであろうピランデッロの近くには子どもたちがいる。子どもたちは最初は幼いのだが、ベッドのピランデッロに近づくに連れて年老い、ピランデッロの手を握る時には白髪混じりになっている。人生なんてあっという間ということなのかもしれない。

『2001年宇宙の旅』のボーマン船長がその後にスターチャイルドとなって地球を見守っていたように、本作のピランデッロは遺灰の旅を見守ることになる。その視点はどこか達観したものがある。そんな立場からすると、遺灰の行方がどうだとか、少年の突発的な殺人なんかも、すべてが「定め」られていたことであると感じられるのだろうか。そのあたりは何だかよくわからないのだが、本作は自由で意外性があって、意味はわからなくとも楽しめた作品だった。

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