『選ばなかったみち』 一人が二つの場所を同時にoccupyする

外国映画

監督・脚本は『オルランド』『耳に残るは君の歌声』などのサリー・ポッター

原題は「The Roads Not Taken」。これはロバート・フロストの詩「The Road Not Taken」から採られている(本作は「The Roads Not Taken」となっていて複数形)。

物語

ニューヨークに住むメキシコ人移民レオ(ハビエル・バルデム)は作家であったが、認知症を患い、誰かの助けがなければ生活はままならず、娘モリー(エル・ファニング)やヘルパーとの意思疎通も困難な状況になっていた。
ある朝、モリーはレオを病院に連れ出そうとアパートを訪れる。モリーが隣にいながらもレオは、初恋の女性と出会った故郷メキシコや、作家生活に行き詰まり一人旅をしたギリシャを脳内で往来し、モリ―とは全く別々の景色をみるのだった―。

(公式サイトより抜粋)

現実世界と記憶世界

レオ(ハビエル・バルデム)は認知症を患っている。ヘルパーの助けがなければ生活もままならないような状況だ。娘のモリー(エル・ファニング)はその日、父親レオを病院へと連れ出すのだが、レオが歯医者でおもらしをしてしまうなど、たびたびの災難に見舞われる。本当は午後から仕事に向かおうとしていたモリーだが、レオを放っておくこともできずに、結局レオに1日付き合うことになる。

レオはすでに意思疎通が難しいような状態だ。言葉をかけてもはかばかしい返事もなく、時に単語を発したりするものの、どこか苦しいのかいつも唸っている。レオは現在ニューヨークの線路脇の部屋で暮らしているけれど、脳内では過去の記憶の中を巡っている。本作はモリーが奮闘する現実世界と、レオがさまようことになる過去の記憶が並行して描かれていくことになるのだ。

(C)BRITISH BROADCASTING CORPORATION AND THE BRITISH FILM INSTITUTE AND AP (MOLLY) LTD. 2020

老人は過去の夢を見るか?

医者は直接レオに話しかけるのではなく、介助者のモリーに話しかけ、レオのことをどこか別の場所にでも居るかのように“彼”と呼ぶ。モリーはそれにイラつくわけだが、意思疎通が難しいわけでそれも致し方ないのかもしれない。

モリーは「パパはここに居るのに」と訴えるけれど、レオの別れた妻でありモリーの母親であるリタ(ローラ・リニー)は、レオが「ここに居ない」と認めてしまっている。レオは今ここに居ても、心では過去の記憶の中をさまよっているからだ。

レオが思い浮かべている過去は、移民としてアメリカに渡る前のメキシコ時代のことと、作家時代のギリシャ旅行のことだ。メキシコ時代においては、初恋の女性ドロレス(サルマ・ハエック)とのことが蘇っている。とはいえそれは甘美な想い出ではない。ドロレスとレオの間には子供がいたのだが、その子供は交通事故で死んでしまったからだ。そして、ギリシャ旅行では、作家という仕事のために家族を捨てていた頃が振り返られる。レオはそこで娘モリーと同じ年頃の女の子とたまたま出会い、レオが家族を捨てたことを非難されることになる。

(C)BRITISH BROADCASTING CORPORATION AND THE BRITISH FILM INSTITUTE AND AP (MOLLY) LTD. 2020

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「選ばなかったみち」とは?

タイトルともなっている「選ばなかったみち」というのは、上述したレオの過去の二つの記憶のことなのかとも思ったのだが、よく考えるとこれは違う。というのも、「選ばなかったみち」というのは、可能性としてはあったけれど幻に終わったものだからだ。「選ばなかったみち」のほうを選んだとしたらどうなったのかは誰にもわからないのだ。だから「選ばなかったみち」を描こうとすれば、それは妄想になってしまうだろう。

もちろんそういう方法も可能ではある。たとえば濱口竜介監督のオムニバス作品『偶然と想像』では、「あり得たかもしれない別の現実」を一瞬の妄想と現実との並列で描いてみたり(第1話)、それを演じることで今ここに再現しようと試みたりもしている(第3話)。

ここで「選ばなかったみち」を妄想として描くとすれば、ドロレスと一緒にメキシコに残るという道となり、仕事のために家族を犠牲にする生活を続ける道ということになるだろう。しかしレオはそんな妄想に浸っているわけではなく、自らの人生の決定的な分岐点へと至る記憶を辿り直しているのだ。

(C)BRITISH BROADCASTING CORPORATION AND THE BRITISH FILM INSTITUTE AND AP (MOLLY) LTD. 2020

レオの人生には二つの決定的な分かれ道(分岐点)があった。それがメキシコ時代とギリシャ旅行の時だ。ドロレスと一緒にメキシコに留まることもできたはずだが、レオは移民としてアメリカへ渡ることを選んだ。そして、アメリカでリタと結婚し、モリーが生まれることになった。

その後、レオは作家の仕事のために、家族を犠牲にしていた。その頃、旅に出たギリシャで、レオは出会った女の子に小説の話をする。移民の男が人生の最後に「故郷に戻るのか、それとも移民として死ぬか」、小説のラストとしてどちらがいいだろうか。レオは彼女にそんな問いかけをするのだ。それに対して女の子は故郷に戻るには「遅すぎる」と語る。これは故郷に戻っても誰も待っていないということでもあるが、「選ばなかったみち」を選び直すことはできないということを示していたのかもしれない。多分、これによりレオはモリーのそばに戻ることになったのだろう。

結局はレオは二つの分岐点を経て、今、モリーと一緒にニューヨークの一室にいる。最初はレオを演じたハビエル・バルデムの無表情と唸り声のせいもあり、レオの過去が後悔に結びついているのかと感じていたのだが、それは間違いだったのかもしれない。もちろん「選ばなかったみち」を選んでいたらという「もしも」を思い浮かべることはあるだろう。しかし、レオは過去を振り返り、大きな分岐点までの道を辿ることで、今の位置を改めて確認していたのかもしれない。だからレオは後悔に駆られているのではなく、現在時を肯定したかったんじゃないだろうか。レオが最後にモリーの名前を呼ぶことも、そうした意味だったからこそ感動的なものとして響くのだ。

(C)BRITISH BROADCASTING CORPORATION AND THE BRITISH FILM INSTITUTE AND AP (MOLLY) LTD. 2020

漱石の言葉から

二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」、夏目漱石はこんな言葉を書き残している。これは『こころ』などで描かれる三角関係に関する漱石の認識とも言えるわけだが、同じ場所を二人がoccupyすることの不可能性を示している。

しかしこれは当たり前のことでもある。単に物理的に無理な話だからだ。これを本作に当てはめてみれば、一人が二つの場所を同時にoccupyすることの不可能性ということになるだろう。

父親の介護とやりたい仕事、その両方をすべてモリーがこなすことは物理的に無理な話なのだ。一方を選べば、もう一方は選べないのだから。本作のラストシーンでは、モリーが分裂したかのように、レオの隣に寄り添いつつ、同時に仕事に向かおうとしている。これは当然ながらあり得ない事態である。それでも人はそれを願わずにはいられないのだろう。

『選ばなかったみち』は監督サリー・ポッターの実体験に基づいているらしい。実際には彼女の弟が若年性の認知症になって、それを介護することになったらしい。それだけに本作は切実なものを含んでいる。ただ、一般的な評判はあまり芳しくはない。ボケ老人と娘の1日を追うだけでは盛り上がりには欠け退屈だということなのかもしれない。

しかしながら、弱っていく親を近くで見ている世代としては、とても身につまされるものがあったと思う。そんな気持ちにさせてくれたのもハビエル・バルデムは演技があったからだろう。心ここにあらずといったほうけた顔は、あまり身近には見たくはないものだった。

エル・ファニングはサリー・ポッターとのコンビの2作目。『ジンジャーの朝 〜さよなら、わたしが愛した世界』でも、親との関係に悩む娘ジンジャーを演じていた。こちらでも父親に泣かされることになるのだが、そのしゃくりあげるような大泣きが真に迫っていてもらい泣きしてしまった。
本作のモリーは父親レオに付き添うために仕事を失って泣くことになり、「パパが理解できない」とつぶやくことにはなるのだが、何だかんだ言いつつも仕事と介護を両立させようと苦悩する理想的な娘像と言えるかもしれない。エル・ファニングは2012年の『ジンジャーの朝』の時よりは大きくなったとはいえ、大きな口を開けて笑う様子などはあどけなさも感じられてやっぱりかわいらしい。

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