『アイヌモシㇼ』 熊送りを再現する

日本映画

監督・脚本の福永壮志は、これまではニューヨークで活動していたようだが、北海道出身とのこと。デビュー作は『リベリアの白い血』で、本作は長編第2作。

トライベッカ映画祭では審査員特別賞を受賞した。

アイヌの歴史

北海道には行ったこともないし、アイヌに関してもほとんど何も知らないので、付け焼刃で調べてみると、1869年に明治政府が蝦夷地を北海道として日本に編入したのをきっかけに同化政策が行われたらしい。その頃できた法律には「北海道旧土人保護法」というものがあり、驚くことに1997年まで廃止されなかったという。アイヌを保護するという名目だが、“旧土人”と名付けているあたりで差別的なものを感じさせる。明治政府はアイヌの人たちに日本語を押し付け、彼らの生活習慣を和風に変えることを強制したのだ。

イーストウッドの傑作をリメイクした、日本版の『許されざる者』(李相日監督)では、1880年の北海道が舞台となっていた。そこではもともと北海道に住んでいたアイヌの人たちが、後からやってきた日本人に虐げられている様子が描かれていた。

その時代からすでに140年もの時が流れているわけで、現状ではそんな酷いことはないと思うのだが、日本に無理やり編入させられたアイヌ側の気持ちには複雑なものがあるだろう。日本の中である程度は日本の文化に同化して生きていかなければならないのと同時に、アイヌ独自の文化を守らなければならないという意識もあるからだ。

(C)AINU MOSIR LLC/Booster Project

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アイヌ文化に対する若者たちの態度

舞台となる北海道阿寒湖畔のアイヌコタンという集落では、アイヌの民芸品を売る店など観光業が生業となっている。本作の主人公のカント(下倉幹人)の家もそうした店を母親エミ(下倉絵美)が経営している。そこでは観光客はアイヌの人たちを物珍しそうに見て写真を撮ったり、さらには「日本語お上手ですね」などと勘違いした言葉を投げかけてくる。

アイヌ語はユネスコによって消滅の危機にある言語とされているらしく、本作に登場するアイヌの人たちもほとんど日本語しか話さない。集落ではアイヌ語を外国語のように勉強してみたり、儀式の際にはアイヌ語の祝詞をカンニングする様子も描かれている。

そんなわけでカントとしては、アイヌという民族意識はあまり強くなかったのかもしれない。かつてとは違い、今では日本の情報どころか、海外の文化にも簡単に触れることができる状況にあるからだ。14歳のカントは、みんなでロックバンド結成し、チャック・ベリーをコピーしたりもしている。亡くなった父親がアイヌの文化を守る活動に熱心だったのは知っているが、それよりも音楽のほうが楽しいと感じる今どきの若者なのだ。

進路について担任から聞かれた時には、カントは「アイヌコタンから離れられればどこでもいい」などと語り、母親から問い質される。カントはアイヌコタンがどこか普通とは違うと感じていて、いつも「アイヌ関係のこと」をさせられるのを煩わしく感じていたのだ。

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年老いた世代はいかにして伝統を守りつつ生計を立てるかを考えるが、若い世代には別の葛藤があるのだろう。若い世代はそれほど日本人との差を感じない分、少数民族として特別視されることを心地よく思わないのかもしれない。

若者たちのアイヌ文化の受容に関しては、バンドのメンバー間でアイヌという出自を積極的にアピールするか否かで意見が分かれる場面にも表れている。カッコよければどちらでもいいという意見もあるが、アイヌという特殊性をアピールするのは嫌だと語るメンバーもいる。これは日本人という意識が強いからかもしれないし、キワモノ的に目立つよりも音楽性そのもので訴えたいといった感覚なのかもしれない。

同じく少数民族を題材にした映画『サーミの血』では、少数民族のサーミの血を引く主人公は、少数民族として差別されることに怒りを感じつつも、同時に支配民族であるスウェーデン人に対して憧れを抱いていた。そして、スウェーデン人に交じって生きていくために、サーミ族としてのアイデンティティを捨てて生きることを選択する。カントの葛藤はまだ人生の選択につながるような切迫したものではない。それでもカントがアイヌという自らのアイデンティティに関して抱える問題もこれに通じたものがあるのだ。

イオマンテという儀式

本作のクライマックスではアイヌの伝統的な儀式であるイオマンテが描かれることになる。子熊から育て上げてきた熊を殺すというのが、その祭礼のあらましだ。

そもそも「アイヌ」とは「人間」のことを意味し、それは「カムイ」と呼ばれる「神や霊的存在」と対になる言葉だという。そして、熊や動物たちもカムイが仮の姿となって「アイヌモシㇼ(人間の世界)」に現れたものだと考えるのだという。その熊を丁重に葬り「カムイモシㇼ(神の世界)」に送り返してやることで、人間たちの評判を聞いたカムイがまた人間たちのところへやってきてくれる。そんなふうにアイヌでは考えられ、イオマンテの儀式を受け継いできたのだ。

熊を殺すという行為そのものは残酷なものかもしれない。けれどもそれはアイヌの文化を知らないからこそ理解できないということもあるのだろう。日本の捕鯨を欧米の人が認めないのと同じで、それぞれの文化に対する理解と寛容さが欠けているのかもしれない。本作ではカントが川で釣り上げた魚を捌くシーンはあるが、熊送りの儀式の撮影では実際には熊を殺していない。かつて資料用に撮られたビデオの映像は出てくるが、現実世界でイオマンテという儀式を実行するためには問題があるのだ。

アイヌコタンは観光を生業にしているから、世間からの評判には敏感にならざるを得ない。かつて実際にイオマンテを復活させようと試みた時も、途中でアイヌ住民からも反対意見が出て頓挫したらしい。だから本作は映画というフィクションの内部で、実際には実現することが難しい熊送りの儀式を精確に再現しようとしているのだ。

儀式復活賛成派の代表格であるデボ(秋辺デボ)は、アイヌの伝統を守るためにも、その中心的な祭礼であるイオマンテが欠けていることにやはり物足りないものを感じている。そんなこともあるからか、本作ではアイヌコタンの人たちが全面的に協力している。映画の撮影とはいえ、熊送りの儀式を再現することはアイヌの伝統を守ることにつながると感じたからなのだろう。本作では集落の人たちは総出で参加し、一昼夜をかけた荘厳な儀式の様子が丹念に描かれている。

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熊と人間の関係

中沢新一の著書『熊から王へ――カイエ・ソバージュ〈Ⅱ〉』では、アイヌではなくイヌイットの熊送りに関して論じている(このシリーズはどれも興味深い話が満載で、宗教に関心のある人にはお薦め)。そこでは熊と人間は同等の存在だということが強調されている。中沢新一はそうした関係を「対称性」という言葉で示す。今では人間が万物の支配者のようなフリをし、動物と人間の関係は「非対称」なものになってしまっているが、もともと神話の世界の頃は「対称性」を有していて同等な存在だったというのだ。

『アイヌモシㇼ』においても、熊と人間が同等だということが示されていたように感じた。子熊のチビを見つめるカントの表情を捉えたシーンでは、チビとカントの姿が同等に扱われている。檻の中のビチの姿と、それを見つめる檻の外のカントは、共に鉄柵越しに撮られている。わざわざカメラを檻の中に設置して撮っているのだ。だから子熊とカントの関係は、檻の内と外というよりはどちらも同等の存在のように見えるのだ。

そんな子熊が儀式によって殺されることを知ったカントは反発することになるが、非力な子熊と一緒で結局儀式を止めることはできない。カントはこの時点ではアイヌの儀式に関して反感を抱いている。自然の中の見えない存在と語り合うアイヌの老婆や、亡くなった先祖たちが暮らす場所につながる穴など、アミニズム的な世界観を嘘っぽく感じていたのだろう。

しかし、カントは森の中で不思議な体験をすることになり、アイヌの文化や儀式を受け入れたようにも見える。自らのアイデンティティとしてのアイヌの伝統を受け入れる瞬間がとても説得的に描かれていたと思う。

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存在感のある素人たち

本作では役者ではないアイヌの人たちが多く登場する。主役のカントを演じた下倉幹人もアイヌの血を引いているし、母親のエミ役は彼の実の母親が演じている(アイヌの楽器を扱うミュージシャンでもあるという)。それからカントにアイヌの文化を教えようとするデボ役として、秋辺デボが存在感を示した。デカい身体にモジャモジャの髭で、ゲスト出演している芸達者なリリー・フランキーと相対するシーンでもまったく物怖じしない風格なのだ。ちなみに、秋辺デボは『許されざる者』にも顔を出していたのだとか。

アイヌコタンの人たちがイオマンテに関して議論する場面は、実際にアイヌコタンの人たちが台本なしで演じたらしい。かつても似たような議論が実際に交わされたことがあったようで、本作はドキュメンタリー的な手法をうまくフィクションの中に取り入れていて、河瀨直美監督の『萌の朱雀』の一場面を思い出した。

最後に一つだけ残念なところを挙げるとすれば、本作が84分と短すぎるところだろうか。子熊が成長していく過程をもっとゆっくりとした時間で見られたら、尚一層素晴らしかったんじゃないかと思うのはちょっと望みすぎだろうか。

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