監督・脚本は『町田くんの世界』などの石井裕也。
英語タイトルは「All the Things We Never Said」。
「原点回帰、至上の愛」をテーマにしたプロジェクトの一環として製作された作品。石井裕也のほかに、台湾のツァイ・ミンリャンや、中国や香港やマレーシアなどの6名の監督が参加するのだとか。
物語
高校時代、幼なじみの山田厚久(仲野太賀)と武田(若葉竜也)はバンドを組んでいて、そのそばには奈津美(大島優子)がいた。夏には厚久と武田がパピコを買うと、奈津美はふたりから1本ずつ分けてもらい、必ず2本食べる。そんな関係の三人だった。
時が流れ、厚久と奈津美は結婚し、今ではふたりには5歳の娘がいる。しかし、その関係は順風満帆とは言えず、ある日、体調不良で厚久が仕事を早退して昼間に帰宅すると、奈津美は見知らぬ男と情事の真っ最中だった。厚久はショックのあまりに家を飛び出していくのだが……。
どんなふうに振る舞う?
奥様の不貞行為を目撃してしまった場合、旦那はどんなふうに振る舞うべきなのか。烈火の如く怒り出すべきか、取り乱して泣き出すべきか、あるいは冷静にその場を収め話し合いを持つべきか。正解はわからないが、実際にそんなことが起きたら、厚久と同様にその場から逃げ出してしまうのが一番リアルかもしれない。
結局、厚久は娘を迎えに行き、何事もなかったかのようなフリで戻ってくるのだが、奈津美の腹は決まっていたようだ。彼女はこの5年間のことを嘆き、自分が欲しかったのは同情ではなく愛だったと語り、あっさりと別れを切り出すのだ。その間、厚久はほとんど周囲の状況を理解しないかのように、呆然としたまま奈津美の宣告を黙ったまま聞くことしかできない。
離人症的に生きる
厚久と奈津美が結婚したのは、奈津美が抱えていた問題があったから。その詳細は触れられることはないが、厚久はほかに婚約者(柳生みゆ)がいたにも関わらず、恐らくかつてのしがらみもあって奈津美を選ぶ。厚久はその婚約者を愛していたようでもあり、その決断が間違いだったのかもしれない。しかし、気づいた時には奈津美には子供ができ、後戻りはできなくなっている。
それ以来、厚久は自分のしたいことはあきらめ、言いたいことも言わず、奈津美と娘のために生きてきたのだろう。感情を押し殺すことで現実との間に壁が生じるのはままあることで、厚久はそんな離人症的な状態だったのかもしれない。
厚久は世話になったおじいさんの話を兄(パク・ジョンボム)とするのだが、写真には残っているおじいさんが本当に存在していたのかどうかをあやしんでいる。どのみち自分たちも死んだ後にはそんな曖昧な存在になると引きこもり状態にある兄に語り、引きこもりもあまり気にしないほうがいいとアドバイスする。厚久はそんなふうに思うことで自分のがんじがらめの状態を慰めているようでもある。
※ 以下、ネタバレもあり!
言いたいこと
この約90分の『生きちゃった』の脚本を、石井裕也は3日で書き上げたという。その最初の情熱が冷めないうちに製作された本作は、石井裕也が「言いたいこと」だけははっきりしている。それはただひとつで、「日本人は言いたいことすら言えない」ということになるだろう。
いつからそういうことになったのか、あるいは何がその原因となっているのかもわからないが、日本においては沈黙こそが美学であり、おしゃべりは否定される。そうした状況が長く続くと、美学である沈黙を守るうちにしゃべるテクニックは失われ、コミュニケーションが必要とされる時にもうまくしゃべることができなくなる。そんな状態が今の状況なのかもしれない。
外国語と歌によって
ただ、例外的に「言いたいことが言える」時があることも本作では示されている。ひとつは外国語を習得すること。日本語ではなくほかの言語を使うと、スラスラと恥ずかしげもなく言いたいことが言えるのだ。厚久と武田はバンド活動を止め、起業を目指して中国語と英語を学んでいる。それは外国人の顧客を獲得するためなのかもしれないが、日本語そのものが不自由を抱えていると示唆しているのかもしれない。
もうひとつの例外は歌かもしれない。言いたいことをしゃべることは難しくても、歌にすれば表現することが可能ということだ。かつては厚久はバンドで武田と共に歌を歌っていた。本作の冒頭では声高らかに「夏の花」という曲を歌うシーンが少しだけ挿入されている。しかもその曲は奈津美に対して歌ったものだったのだ。
また、本作ではレ・ロマネスクという音楽ユニットのライブで普段言えないことを言ってもらい溜飲を下げるシーンもあるし、『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』でも路上ライブの歌手がみんなに向けた応援歌を恥ずかしげもなく歌っていた。石井裕也は言いたいことが言えない日本人でも、メロディに乗せれば言いたいことが伝えられると感じているようだ。
生きちゃった
本作の登場人物は厚久や引きこもりの兄を筆頭に口ごもるばかりなのだが、例外的なキャラクターもいる。それは厚久の両親(嶋田久作と伊佐山ひろ子)だ。母親などは奈津美に対して料理の味がマズいと平気で伝える。相手のことなど気にせずに、言いたいことを言ってしまう人間なのだ。なぜ厚久の両親だけは、外国語や歌に頼らなくとも平気で言いたいことが言えるのか。それは両親はどこか狂っているからだ。
本作の後半では「言いたいことが言えない」ということが悲劇を生むことになり、それが連鎖するようにして厚久の兄や奈津美を巻き込んでいくことになるが、それに対する厚久の両親の態度はちょっと普通ではない。悲劇を悲劇として理解していないのか、感情が麻痺して何でも平気になったのかはわからないのだが、どこか狂っているように見えるのだ。そして狂っているからこそ「言いたいことが言える」のだ。つまり石井裕也は日本人は狂うほかないと言わんとしているわけだ。
ラストのシークエンスでは厚久が娘に対して言いたいことを言おうとし、それを武田が見守ることになるのだが、ふたりは共にその大いなる挑戦に感動の涙でグチャグチャだ。しかし観客としては、その滑稽な姿を笑うべきだったのかもしれない。ほとんど狂気のようにならなくては、言いたいことが言えないというのは異様だからだ。
日本人としては「言いたいことが言えない」というシチュエーションには私自身も身につまされるところがあるけれど、本作が提示するそれに対する処方箋はなかなか厄介だ。日本人が抱えたこの問題にはまだまだ特効薬はないということなのだろう。
本作で大島優子演じる奈津美は生きたいという欲望に溢れている人物だった。厚久や武田が躊躇してばかりで行動に移さないのとは対照的だ。しかし奈津美の行動力は彼女をどんどん転落させていくのが皮肉だ。
そんな奈津美の姿を見ていたのが厚久であり武田だが、男たちの腰の重さは奈津美が若くして不幸にも死んでいく様子を呆然と眺めさせる。タイトルの「生きちゃった」という言葉は、そんな男たちの素朴な感想なのだ。
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