『朝が来る』 二つの立場

日本映画

原作は直木賞作家・辻村深月の同名小説。

監督・脚本は『萌の朱雀』『光』などの河瀨直美

物語

栗原佐都子(永作博美)と夫の清和(井浦新)は、6歳になる息子の朝斗(林田悠作)と一緒に平穏な日々を過ごしていた。ところが最近になって頻繁に無言電話がかかってくる。一体誰の仕業かと考えていると、いつもの無言電話の相手は、突然「子どもを返してほしいんです。それが駄目ならお金をください」と言い出す。

実は朝斗は養子であり、その電話の相手は朝斗の母親を名乗っている。朝斗を貰い受ける時に一度だけ会ったことのある幼い母親は、そんなことをするようには見えない真面目そうな少女だったので、佐都子はその意図をはかりかねるのだが……。

ミステリー風の導入部

「子どもを返してほしい」という何らかのトラブルを思わせる出来事からスタートするわけだが、その謎が解決するのは映画の最後になってからだ。前半では、まず佐都子と清和という夫婦が養子を迎えることになるまでの事情が描かれていく。

ふたりは三十代も半ばを過ぎて「子どもがほしい」と改めて考え、夫婦で検査をしてみたところ、夫の清和の無精子症が判明する。不妊治療に夫婦で取り組んでみたもののそれも叶わず、たまたまテレビで養子縁組のことを知り、その制度で朝斗を迎えることになったのだ。

ちなみに日本では養子制度は「普通養子縁組」と「特別養子縁組」という二種類あるとのこと。「普通養子縁組」は養子と実親との関係はそのままに、養親との親子関係をつくるもので、家の存続を目的とした制度。一方で、「特別養子縁組」は実親との親子関係を断ち切り、養親が養子を実子と同じ扱いにする制度。劇中でも解説されているが、「特別養子縁組」は、何らかの要因で親と一緒に暮らせない子どもが、親を見つけるための制度となっている。親が子どもを見つける制度ではないのだ。

佐都子と清和は「ベビーバトン」という団体の力を借り、朝斗と「特別養子縁組」をすることになるわけだが、その際に朝斗の産みの母である少女とも顔を合わせている。その少女は手放すことになった子どもに向けての手紙まで用意していて、やむを得ない事情があることを窺わせた。そんな少女の姿からは脅迫めいた電話をかけてくる様子など想像できないものだったのだ。

佐都子は夫と共に電話の相手と会ってみることにするのだが、朝斗の母親を名乗る女性はかつての少女とはまったくの別人のように見え、ふたりは「あなたは誰ですか?」と問い質すことになる。佐都子の家の情報を入手した別人が金を目当てにそんなことをしていると思ったのだ。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2020「朝が来る」Film Partners

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産んだ側の事情

朝斗の母親を名乗った女性は何者なのか。そうしたミステリーとして展開していくわけだが、後半になるとその謎を宙吊りにした形になるのでちょっと戸惑う。というのは、後半は朝斗の母親となる前の片倉ひかり(蒔田彩珠)の物語から始まるからだ。

中学生のひかりはバスケ部の麻生巧(田中偉登)と付き合うことになり、幸せな時を過ごし子どもを授かる。その後は堕胎することの可能な時期も過ぎていたことから、ベビーバトンの寮で世間から隠れて朝斗を産むことになる。

世間知らずの中学生だったひかりは、そこで今まで会ったことのなかった女性たちと出会う。そこにいたのはひかりと同じ境遇の女性たちだが、ひかりのような真っ当な家庭から来ている者よりも、もっと波乱万丈の人生を送っている女性が目立つ。山下リオ演じる先輩妊婦は、風俗関係の仕事で妊娠する羽目になってしまい父親が誰かわからないのだという。

本作はこのあたりで観客をミスリードしている。そもそも朝斗の母親を名乗って脅迫してきた女性は後ろ姿だけしか示されていないから、観客もその女性が先輩妊婦なんじゃないかと思ってしまうのだ。しかし、実際にはその女性はひかり本人だったのだ。黒髪の真面目そうな少女が、髪を染め派手なスカジャンという出で立ちとなって現れたものだから、佐都子たちもまったく別人だと勘違いして、朝斗には「広島のお母ちゃん」と告げていたひかりのことを突き放してしまったのだ。

(C)2020「朝が来る」Film Partners

転落の人生?

出産後のひかりの人生は転落の物語に映る。高校にも行かずベビーバトンで働き、その後は新聞配達をして生活することになり、そこで出会った女性に騙され借金を背負うことになってしまう。

そのことが原因となって佐都子に対して脅迫めいたことをすることになるわけだが、ひかりは借金取り(青木崇高若葉竜也)に「なぜ私がこんな目に遭うの?」と問うと、借金取りは「バカだからだろ」と言い捨てる。確かにひかりは利口ではないが、本作はひかりのような立場の女性に対して同情的に描かれている。ひかりは騙されたのを知ってもその女性を責めないのだ(スカジャンはこの女性から譲り受けたものだろう)。ひかりは彼女の境遇を知っているから、彼女のしたことを責める気になれないのだ。

追記:映画の後で原作を読んだのだが、この点が原作との一番の相違点だったかも。原作では騙した女性はそのまま逃走してしまい、ひかりがその女性を許すようなこともない。その意味でも映画版のほうが、ひかりのような立場に追い込まれた人たちに同情的に感じられた。

朝斗を譲り受けてからの6年の歳月が、ひかりの外見を変貌させるわけだが、そのヤンキー風のルックスはかつてのひかりを知っている者にとっては転落の人生に見えるのかもしれない。確かにそういう側面はあるわけだが、ひかりはベビーバトンで出会った先輩妊婦をカッコいいと思っていて、彼女の真似をしているうちにそんな風貌になってきただけで、やさぐれて非行に走ったわけではないのだ。

(C)2020「朝が来る」Film Partners

「自然の営み」と「人間の営み」

『朝が来る』では、物語の合間に繰り返し自然の描写が挟まれる。冒頭では赤ちゃんの鳴き声をバックに生命の源である海の映像が描かれる。中盤でのひかりが赤ちゃんを産むシーンでは、ひかりの住まいがあると思われる奈良の山や鹿などが描かれる(奈良はもちろん河瀨監督の地元でもある)。また、ベビーバトンの寮は瀬戸内海が見える場所にあり、穏やかな海の風景が何度も登場する。河瀨監督の過去の作品、たとえば『2つ目の窓』では、人間が自然そのものとつながっているという点が強調されていた。

本作においては、それと同時に示されるのが、都会のビル群の様子や、建設中のビルなど、人間が行う様々な営みだ。佐都子の住まいである高層マンションは、木々の枝の向こう側に捉えられ、その後にマンション内部にカメラが入ると、そこでは佐都子が観葉植物に水をやっている。ここでは「自然の営み」と「人間の営み」が共存していることが示されているんじゃないだろうか。

子どもが産まれるのは「自然の営み」だが、それだけで生きていけるわけではない。佐都子がチャレンジする人工受精は「人間の営み」だが、それが自然に反しているとして否定されるわけでもない。そのどちらもが必要なのだ。

ただ、現在では「人間の営み」の重要度が増してきているのかもしれない。人間社会で生きていくには偏差値の高い大学に入学し、一流の企業に入るといった正規ルートとされているものがあり、それから脱落することは自分に不利になる。ひかりの姉は京大を目指しているほど真っ当な家庭だったわけで、ひかりもそうした正規ルートに戻ることを要求され、朝斗の父親(つまりひかりの彼氏)もそれを受け入れて正規ルートに戻っていってしまう。

ひかりも「自然の営み」と「人間社会の営み」との間で選択を余儀なくされる。そして、一度は世間体を気にする両親のゴリ押しもあり人間社会の側に傾くわけだが、子供を産んだことをなかったことにして正規ルートに戻るのが許せなかったのだ。

二つの立場

本作は最後に希望が用意されている。佐都子がひかりの存在に気づき、その手を差し延べることになるからだ。人間社会を生き抜くにはそれなりに力が必要だが、正規ルートから脱落したひかりはその力からは遠い。一方で佐都子にはそうした経済力がある。前半では、高層マンションにおける高層階と低層階の経済格差が仄めかされるが、佐都子は高層階の裕福な側だったのだ。そして裕福だからこそ、養子を迎え入れる準備があったわけだ。

養子制度は「子どもを手放さなければならない親」と、「子どもが産めない親」という、二つの立場によって成り立っている。しかし両者は普通関わり合うことはない。恐らく両者が関わるとトラブルが生じるケースがあるからだろう(劇中のベビーバトンには裁判資料もあった)。それでも両者がいなければ成り立たない制度であることも確かなのだ。

両者は接する機会がないから、互いのことを本当に理解することもない。しかし本作では佐都子がひかりの立場に理解を示す。逆にひかりが佐都子の立場を理解しているのかと言えば、そんなことはないわけだが、借金や生活のために四苦八苦しているひかりよりも、佐都子のほうが他人を理解するための余裕はあるだろう。だから最後は佐都子がひかりに手を差し延べる姿が描かれることになる。ここには製作陣の希望が込められているのだろう。

(C)2020「朝が来る」Film Partners

河瀨直美の最高傑作?

『朝が来る』はすでに一度は安田成美と川島海荷主演でテレビドラマ化されてもいるとのこと。それでも河瀨直美監督が本作を映画化したかったのは、「親との生き別れ」という河瀨直美が過去のドキュメンタリー作品『につつまれて』でも扱ったテーマが、本作で描かれる養子制度と直接結びついたからなのだろう。河瀨直美自身も親と生き別れる形になり、子どもがいなかった大伯母夫婦と養子縁組したのだという。つまりは河瀨直美は本作を自分のものとして受け取っているのだ。

河瀨直美は本作において重要なのは「息子のまなざし」だとも語っている。実際に朝斗のおぼろげな視界に母親の姿が映るというシーンもあるし、ラストも朝斗が初めて見つめる産みの母のひかりの姿で終わっている。この「広島のお母ちゃん」に向ける朝斗のまなざしは、かつて生き別れた父親に向ける河瀨直美のまなざしとも重なってくるようにも感じられ、それだけに情感に満ちた感動的なラストだった。

それから本作では河瀨直美が自身初の劇映画『萌の朱雀』でも取り入れていた、フィクション作品の中にドキュメンタリーを融合するという手法がより洗練された形で取り入れられている。

ベビーバトンの集会での子供を迎え入れた家族の証言は、実際の当事者の発言をそのまま利用しているのだと思われる。また、マホという妊婦の誕生会の場面では、ベビーバトンの代表(浅田美代子)がドキュメンタリーの取材を受けているという設定で、フィクション作品内部にドキュメンタリー作品が混在したような形にもなっている。この場面は役者さんが演じているのだと思うのだが(追記:葉月ひとみという女優さんらしい)、それがドキュメンタリー作品のインタビューに答えている素人のようにも見える。

本作はもちろんフィクションだが、その中にドキュメンタリーの要素が取り入れられ、同時にドキュメンタリーを模したフィクションの部分もあり、それらすべてがシームレスにつながるようになっているのだ。河瀨直美がこれまでの作品で培ってきた手法が遺憾なく発揮され、河瀨作品の中でも最上の作品のひとつになっていたんじゃないかと思う。

最後に付け加えておくと、ひかりの変貌を違和感なく演じていた蒔田彩珠の好演があったからこそ、ラストが情感豊かなものになったのだろうと思う。切羽詰まって脅迫めいたことをしてしまったひかりが、自ら朝斗の母親ではないと否定するところが泣かせる。

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