『ヴィレッジ』 東京になくて田舎にあるもの

日本映画

監督は『新聞記者』『ヤクザと家族 The Family』などの藤井道人

企画・製作・エグゼクティブプロデューサーは、『新聞記者』や『ヤクザと家族 The Family』など河村光庸

物語

夜霧が幻想的な、とある日本の集落・霞門村。神秘的な「薪能」の儀式が行われている近くの山には、巨大なゴミの最終処分場がそびえ立つ。幼い頃より霞門村に住む片山優は、美しい村にとって異彩を放つこの施設で働いているが、母親が抱えた借金の支払いに追われ希望のない日々を送っている。かつて父親がこの村で起こした事件の汚名を背負い、その罪を肩代わりするようにして生きてきた優には、人生の選択肢などなかった。そんなある日、幼馴染の美咲が東京から戻ったことをきっかけに物語は大きく動き出す――。

(公式サイトより抜粋)

村ぐるみの違法行為

主人公の片山優(横浜流星)は村に縛られている。母親(西田尚美)がアル中のギャンブル好きで借金を拵えてしまい、優はその借金を肩代わりさせられているからだ。優の職場は霞門村のゴミの最終処分場で、そこは村長の大橋修作(古田新太)の肝いりで誘致されたもので、村の悪い輩が群がるような場所でもあるようだ。

昼は真っ当なゴミ処理施設だが、夜になるとこっそりとヤバい廃棄物を埋め立てる違法行為が行われているのだ。そこにはヤクザ者の丸岡(杉本哲太)も関わっており、そのことは村長も当然知っている。村ぐるみで違法行為に手に染めているのだ。

優にとってはそこは地獄のような場所だ。現場を仕切っているのは村長の息子で巨漢の透(一ノ瀬ワタル)で、優は毎日のように同僚から殴られたりしている。というのは優は殺人犯の息子だからで、そのために村では白い目で見られ、それでも逃げ出せないまま日々を耐えているという状況なのだ。

ところがそんな地獄の風景が一変することになる。きっかけは優の幼なじみである美咲(黒木華)で、彼女は一度東京へ出たものの地元である霞門村に戻ってきたのだ。美咲は親のつてでゴミの最終処分場へ就職すると、優のことを積極的に登用することになり、それによって優の立場は一変していくことになる。

(C)2023「ヴィレッジ」製作委員会

邯鄲の夢というモチーフ

この変化はかなり急で、それまでの展開からすれば違和感もある。美咲と優は霞門村の名物となっているたきぎ能をふたりで稽古したりしていた仲らしい。美咲は優の辛い立場を知り彼を助けることになる。

優も最初は「同情される義理はない」みたいなことを言って突っぱねているのだが、あっという間に優が陥落してふたりは男女の関係になる。美咲に支えられるようにして優は見事に立ち直り、一気に地獄の状況を脱してしまうことになるのだ。

優はその後に処分場の広報担当みたいな役割を任され、テレビに出演したりする人気者になる。そうするとなぜか母親もアル中を克服したようで、すべてがうまく回るようになるのだ。この急激な変化には薄ら寒いものを感じていたのだが、これはもちろん狙ってのことなのだろう。というのも本作は「邯鄲かんたん」という能が重要なモチーフとなっているからだ。

劇中でも「邯鄲」の概要について美咲の言葉で説明がなされることになる。主人公の男は邯鄲という場所で宿をとるのだが、その際、食事の前に「邯鄲の枕」というものを借りて眠ることになる。するとなぜかその男は帝の地位につくことになり、50年もの間、栄華を極めた暮らしを送ることになる。ところがその男が目覚めてみると、未だ米も炊きあがっていないほどの短い時間だったことが明らかになる。栄華の50年は「一炊の夢」だったという夢オチということになる。

優にとっては美咲が「邯鄲の枕」であり、短いながらも地獄から抜け出したという夢を見ることになるわけだが、結局はそれも一時的なものであり、元の状態に戻ってしまうというのが本作ということになる。

(C)2023「ヴィレッジ」製作委員会

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同調圧力のビジュアル化

村の神社の鎮守の森には巨大なゴミ処理施設が鎮座している。そしてそこからは延々と霧のような排煙が立ち上り、村の空気を暗いものにしている。優にとっての地獄の底のようなゴミの埋め立て地には、さらに穴が開いていて優にはほかの人には聞こえない変な息遣いが聞こえてくる。

こんな陰鬱な村がなぜか観光地として人気になるというもの嘘っぽいのだが、ある出来事によって取り繕ったものが剥がれ落ちるかのようにして村の綻びが一気に露呈することになってしまう。

『ヴィレッジ』は、撮影終了後に亡くなられた河村光庸プロデューサーが企画から関わっているようで、その意向が大きく作用していることが推測される。河村プロデューサーは藤井道人監督とのコンビで撮った『新聞記者』や、そのドキュメンタリー版とも言える『i-新聞記者ドキュメント-』では、あからさまに政権批判を展開していた(『i』は同調圧力についての映画でもあった)。もちろん本作にも世の中に訴えるべきものがあるのだろう。

本作の霞門村では、祭の際には村人みんなが能面を被って行進する。多分、このイメージが河村プロデューサーが求めたものなのだろう。劇中では美咲がこの行列に対して次のように語る。「この風景が怖かった。全員が同じ表情で、同じところに向かうの」。この姿はもちろん霞門村だけではなく、日本そのものの姿ということだろう。

かつての戦争の時代には、戦争に反対する少数の意見は非国民として封殺されることになり、そのまま勝てない戦争に突き進んでいってしまった。そうした日本社会の同調圧力が能面での行進という不気味なビジュアルで表現されているのだ。

だとすれば本作では村社会の同調圧力を唾棄すべきものとして描いていきそうなものなのだが、そこが曖昧な形になっているようにも思えた。というのは、本作では村の同調圧力を描くと同時に、村の伝統である薪能という芸能のほうは受け継いでいくべき価値のあるものとして描かれているようにも感じられるからだ。村社会の同調圧力は否定しつつも、伝統芸能だけは受け継ぐなどという器用なことができるのかどうなのかはわからないけれど、どこかチグハグな印象でもあったのだ。

村上龍はかつて『五分後の世界』という小説の最後に能舞台をロケットランチャーで破壊してみせた。これはもちろん村社会的なものを否定してみせたということだったのだろう。河村光庸は村上龍とほとんど同世代だが、村社会にも受け継ぐべきものもあるという判断だったのだろうか。

(C)2023「ヴィレッジ」製作委員会

東京になくて村にあるもの

本作の登場人物では優の父親が同調圧力に抵抗した人物と言えるわけだが、その父親の最期は悲惨なものとなる。しかし、実は同調圧力に屈しなかった人物がもうひとりいて、それは美咲の弟の恵一(作間龍斗)だ。

恵一は村ぐるみの違法行為を暴くような行動に出てしまうのだが、これは単に恵一がいわゆる“聖なる愚者”的な存在だったからだろう。周囲の空気をまったく読めていなかったから、同調圧力というものも感じていなかったのだ。

だから恵一の場合は抵抗したというわけではなく、間違ってそんなことをしてしまっただけということだろう。そんな恵一はエンドロール後のシーンで、村から出ていくことになる。彼が今回の騒動で学んだことは、村から逃げ出すべきだということだったのかもしれない。

しかし、そんなことは最初から明らかなはずで、本作はわざわざそれを改めて確認してみせた形とも言える。美咲は東京で精神を病んで霞門村に戻ってきた。美咲が久しぶりに優に会った時の会話では、優の「ここ(霞門村)には何もない」という言葉に対し、美咲は「東京にも何もなかった」と返すことになる。しかし、誰もが気づいているように、村には東京にはないものがある。それは煩わしい人間関係というものだ。

田舎の多くの村が過疎化していくのは、仕事がないということも当然あるだろうが、それだけではなく都会のほうが煩わしいことが少ないということでもある。美咲と優が一時的に勝ち得た生活をぶち壊すことになったのは、美咲に執着している透という厄介者だった。しかしこういう輩は程度の差はあれどこにでもいる。そして彼みたいな輩に対処するのに一番簡単なのは、すべてを捨ててそこから逃げ出すことなのだ(優は無気力でそんな行動すらもしなかったということだろう)。

劇中の美咲の解説によれば、能面は見る角度によって様々な顔を見せる。それと同じように能舞台そのものも見る人によって違って見えるということらしい。私にとっては本作の村社会に対する態度が曖昧なものに感じられたのだけれど、別の人が見ればそれが両義的なものとして解釈されることになるということなのかもしれない。もちろんこれも言い方次第なわけだけれど、個人的にはあんな煩わしい場所に留まるということにリアリティを感じられずあまり刺さってこなかった。

木野花が演じた村の長みたいな大橋家の長老は、すべてを見通しているように見えて結局何もしないのだが、彼女がこの騒動をどんなふうに見ていたのかが気になった。

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