『午前4時にパリの夜は明ける』 なぜ80年代なのか?

外国映画

監督・脚本は『サマーフィーリング』『アマンダと僕』などのミカエル・アース

ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品作品。

原題は「Les passagers de la nuit」。

物語

1981年、パリ。結婚生活が終わりを迎え、ひとりで子供たちを養うことになったエリザベートは、深夜放送のラジオ番組の仕事に就くことに。そこで出会った少女、タルラは家出をして外で寝泊まりしているという。彼女を自宅へ招き入れたエリザベートは、ともに暮らすなかで自身の境遇を悲観していたこれまでを見つめ直していく。同時に、ティーンエイジャーの息子マチアスもまた、タルラの登場に心が揺らいでいて…。
訪れる様々な変化を乗り越え、成長していく家族の過ごした月日が、希望と変革のムード溢れる80年代のパリとともに優しく描かれる。

(公式サイトより抜粋)

“喪失感”という共通点

ミカエル・アース監督の過去の2つの作品、2015年製作の『サマーフィーリング』と、2018年製作の『アマンダと僕』(日本での公開はほぼ同時期)は、どちらも大切な人を亡くした喪失感を描いている。『サマーフィーリング』の主人公は恋人を亡くし、『アマンダと僕』の主人公は仲良しだった姉を亡くして遺された娘を引き取ることになる。

それに対して『午前4時にパリの夜は明ける』では誰も死ぬことはない。だから、先の2作品とはちょっと毛色が変わった作品なのかとも思っていたのだが、“喪失感”という部分では共通しているのかもしれない。

冒頭のエリザベート(シャルロット・ゲンズブール)は離婚したばかりの時だ。旦那は別の女性と住むために家を出ていったらしい。フランス、中でもパリなんかでは離婚家庭は珍しくないわけで、旦那との別れなど大した問題ではなさそうにも思える。二人の子どもがあっけらかんとそれを受け入れていることからも、そんな印象が漂ってくるのだが、なぜかエリザベートはかなり心を痛めているらしい。彼女は父親の前でメソメソといった感じで泣いてみせたりするのだ。

エリザベートにとって旦那は、これまでで唯一の男性だったらしく、そんなことも影響しているようだ。旦那は去ってしまったとはいえ、エリザベートが乳癌に侵され片方の乳房を切除した時も支えてくれた人であり、恨みよりも寂しさのほうが先に立つのかもしれない。

40歳(?)を越えてエリザベートは伴侶を失い、まだそれなりに手のかかる子どもたちの世話もしなければならない。旦那との別れだけではなく、先行きに対する不安も彼女を泣かせることになるのだ。本作は、そんなエリザベートの回復の物語とも言える。

(C)2021 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

タルラに手を差し伸べる

本作は1981年のミッテラン大統領が当選した時から始まる。エリザベートは旦那が家を出たことで岐路に立たされ、同じ頃、後にエリザベートと関わることになるタルラ(ノエ・アビタ)は初めてパリにやってきたらしく、地下鉄の線路がどこにつながるかを確認している姿がある。

1984年、エリザベートは経済的な理由で仕事を探し始める。ところが彼女は働いたことがなく、初めての仕事はエリザベートの凡ミスによって初日でクビになってしまう。そんな苦労の末、ようやく見つけた仕事がラジオ番組のスタッフだ。

夜あまり眠れないエリザベートは、深夜に起きてタバコをふかしながら深夜放送を聴いていたらしい。エリザベートはその仕事でリスナーとして番組に参加したタルラに出会う。エリザベートは寝る場所がなかったタルラを家に連れて帰り、空き部屋をしばらく貸すことになる。

エリザベートがタルラを気にかけたのは、自分も辛い時を過ごしたからだろうか。タルラはエリザベートの二人の子どもとも親しくなり、家族のような関係になっていくことになる。

タルラは路上生活者になる寸前だし、様々な問題を抱えてもいる。それでもエリザベートはそれに対して説教することはない。ただ、そばにいて話を聞いてやったりするわけだが、その一方で泣き虫なエリザベートのほうもタルラの存在に救われていたのかもしれない。

(C)2021 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

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なぜ80年代だったのか?

本作の原題は「Les passagers de la nuit」であり、これはエリザベートが働くことになるラジオ番組のタイトルだ。劇中では「夜の乗客」と翻訳されている。

ラジオ番組というのはリスナーにとっては、とても親密に感じられる部分があるようだ。テレビ番組は世間一般の多くの人に向けて放送されているように感じられるけれど、ラジオの特に深夜放送などはパーソナリティーとリスナーが直接結びついているような感覚がある。これはもしかしたらラジオが声でつながる関係だからなのかもしれない。

「夜の乗客」という番組は、リスナー参加型でパーソナリティーのヴァンダ(エマニュエル・ベアール)とリスナーのやり取りが放送される。そんな中で、リスナーが直接スタジオに来てヴァンダと会話しながら自分のことを話すコーナーもあり、タルラはこれに参加する。

しかしながらこのコーナーでは、リスナーがスタジオに来たにも関わらず、ヴァンダとは別の小部屋に案内され、顔も見えない形になっている。わざわざこんなスタイルをとっているのは、ヴァンダが声を通してつながることを選んでいるということだろう。そこには声だけでリスナーとつながることでより親密さが増すという判断があるのかもしれない。

(C)2021 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

ラジオのパーソナリティーであるヴァンダの落ち着いた声はもちろんだが、本作では声はとても重要な要素になっている。というのはタルラの妙に甲高い声がとても印象的だからだ。タルラは劇中で「子ネズミみたい」とか「小鳥みたい」などと形容されているのも、タルラの声がかわいらしいところが大きく寄与している。

そしてこの声は、劇中でも引用される『満月の夜』(エリック・ロメール監督)で主役を演じたパスカル・オジェへのオマージュという側面があるようだ(この声がノエ・アビタの地声なのかどうかはよくわからないけれど)。パスカル・オジェもとても甲高くてかわいらしい声だったからだ。『満月の夜』が公開されたのは1984年だ。そして、本作は81年から始まり、88年までを描く作品になっている。

冒頭はミッテラン大統領誕生のシーンから始まるわけだが、ほかに特段80年代でなければならない必然性はない。それでもこんなふうに80年代にこだわっているのは、単にこの時代がミカエル・アースが生まれ育ち大きく影響を受けた時代だからということになる。パスカル・オジェに対するオマージュもミカエル・アースが好きだったからであり、とても個人的な感覚を詰め込んだ作品になっているのだ。

(C)2021 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

寄り添ってくれる誰か

本作は先の2作品同様、喪失感について描いているわけだが、どんなふうにしてエリザベートが回復したのかと言えば、それは明確ではない(図書館で声をかけられた男性と付き合うようになったりもするけれど)。喪失感を癒す方法なんて誰にもわからないわけだけれど、ミカエル・アースの作品では喪失感を覚える人のそばには寄り添ってくれる誰かがいる。そのことだけは確かだろう。

『アマンダと僕』では亡くなった姉の娘が主人公にとって大きな存在になり、『サマーフィーリング』では亡くなった恋人の妹が喪失感を共有する存在になる。どちらも親しい人を亡くすまではそれほど密接な関係ではなかったのだ。それと同様に、本作では旦那に去られたエリザベートにとっては見ず知らぬタルラとの関係が重要になっていく。エリザベートにとってはタルラが寄り添ってくれる誰かになり、タルラにとってもエリザベートやその家族がそういう存在になっていくのだ。

本作の原題にある「passager」は、「一時的な、通りすがりの」という意味があるようだ。喪失感を抱えた人を支えるのは必ずしも家族とは限らないということなのかもしれない。

タルラはエリザベートたち家族にとってはまさに“通りすがり”のような存在だ。タルラは84年にエリザベートの家に転がり込むわけだが、そうなると高校生のマチアス(キト・レイヨン=リシュテル)にとってタルラは気になる存在となる。年上のタルラとしては世話になったエリザベートとの関係もあるし、マチアスと近づき過ぎるのは問題ということになる。だからタルラは身を引くような形でエリザベートの家を去ることになる。

ところがそれからしばらく経った88年にタルラはエリザベートを再び頼ることになる。彼女はクスリの問題を抱えていたからだ。この時だけはエリザベートはタルラに説教めいた言葉を口にするのだが、それでもタルラはエリザベートたちに家族のように温かく迎えられる。

結局タルラはその家を去ることになるけれど、彼女が遺した手紙にはエリザベートたち家族に対する感謝の言葉がある。タルラがそこを去らなければならなかったのは、エリザベートやマチアスに迷惑をかけられないという優しい配慮があったからだろう。

本作では特別なことは何も起こらない。『サマーフィーリング』みたいに場所が変わるわけでもないから、パリ15区にあるエリザベート所有のアパルトマンやその周辺だけが舞台となっていて余計に地味と言えるかもしれない。それでもそれは欠点というよりは、奥ゆかしさみたいにも感じられた。

ミカエル・アースの主人公はちょっと弱々しくて湿っぽく感じられるところもある。これはその喪失感ゆえということなのだが、だからこそ他人にはとても優しくなれるようでもある。この優しさがとても心地よく感じられるのだ。

『アマンダと僕』のステイシー・マーティン、『サマーフィーリング』のジュディット・シュムラと同様に、本作のノエ・アビタがとても魅力的で、それだけでも劇場に足を運んだ甲斐があったと思えた。

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