監督は『A』、『A2』などの森達也。
東京新聞社会部記者の望月衣塑子氏の姿を追ったドキュメンタリー。
望月衣塑子という人物
本作で森達也がカメラを向ける対象として選んだのは、東京新聞の記者望月衣塑子氏。
世間ではそれなりに話題になっていた人だったらしく、今年公開された映画『新聞記者』は望月氏の著書を原案として生まれた作品とのこと。私は『新聞記者』は観逃してしまったのだが、『i-新聞記者ドキュメント-』は望月氏の闘う姿を直接追ったドキュメンタリーということになる。
望月氏が有名となったのは、官房長官の記者会見において、そのルールを無視してしつこく質問を繰り返したことだったらしい。望月氏が質問を繰り返したのは、菅義偉官房長官から真っ当な回答が得られないからで、記者としては当然のことをしたまでだと思うのだが、記者会見におけるルールではそれはまかりならぬことだったようだ。
官房長官記者会見では質問は一社につき一回のみで、予定にない質問をぶつけるのも憚られるらしい。つまりは記者会見は官邸にとっての宣伝活動でしかないわけで、余計なことは言ってくれるなというのが本音らしい。そんな場所で何の勘違いか、官邸のやり方を批判するような望月氏の存在は邪魔でしかないわけで、会見の司会者は明らかに質問を妨害する行為をしてまで嫌がらせをするようになる。
記者クラブ制度の弊害
記者クラブ制度というのは日本独特なものらしい。ウィキペディアによると、「公的機関や業界団体などの各組織の継続取材を目的とするために大手メディアが中心となって構成されている任意組織」とのこと。
記者クラブに属してなければ、官房長官記者会見の場に入ることすらできず、フリーランスにはその門戸は開かれていない。本作の森達也監督も会見場の内部に入って撮影することに許可を求めるものの、様々な理由をつけて結局は断られることになってしまう。
記者クラブは官邸とズブズブの関係にあり、そこに属していなければ必要な情報を入手することもできない。そのために記者クラブに属している大手メディアの記者たちは、官邸との関係を悪くするわけにもいかないから、会見の場でも様々な忖度が行われることになるらしい。だから望月氏のようにKYな人物は極端に目立つ存在になってしまうことになる。
なぜ森達也は取材対象に望月氏を選んだのか?
『A』、『A2』におけるオウムの信者たちや、『FAKE』の佐村河内氏は世間で総スカンを食らっていた人物と言える。森達也はそうした取材対象から信頼を得て、密着することで今まで見えてこなかった側面を垣間見させてくれる。
『FAKE』では佐村河内氏を対象にしているわけだが、森達也は彼のことを信じているわけではないのだと思う。どうしてそんなウソをついてしまっているのか、そっちのほうにこそ興味があるわけであって、佐村河内氏が清廉潔白の人物だとはまったく思っていないはずだ。それでも信じているようなフリをして取材対象の内部に潜り込んで、ウソを暴くような作品を撮ってしまうというのが森達也という人なのだろうと思う。
本作でも森監督は官邸前で勝手に撮影を敢行し、警備の警察官から職務質問をされても、「観光だから」とか「公道だから撮影しても大丈夫でしょう?」などととぼけた姿を見せている。トラブルになって何かしらのおもしろい映像が撮れるかもしれないという意識すら感じられる。そういう意味では森監督自身も望月氏と同じく厄介な存在なわけだ。
しかし、本作では意外にも真っ直ぐに望月衣塑子という人に共感しているようにも見える。そして望月氏が闘っている相手に対して、森達也も反感を抱いているようにも感じられる(実際に告白めいた発言もしている)。
ただ、バランス感覚があるのか、望月衣塑子側に傾く一歩手前で留まっている。一様な主義主張に塗り固められた「集団(保守)」と「集団(リベラル)」の争いには加担せずに、それぞれが「個」であることが大事というところに落としどころを持ってきているのだ。
映画の最後に示されるのは、フランスで第二次大戦後に起こった出来事の写真だ。そこでは丸刈りにされた女性が終戦で沸く街のなかを歩かされている。これはナチス・ドイツに協力的だった女性が、終戦後にリンチされた場面を捉えたものだ。同様の出来事はイタリア映画の『マレーナ』でも描かれていたし、こうしたリンチで殺された人は1万人を超すとも言われているのだとか。
ある「集団」が一様な考えになって突き進むと、少数の意見は消し去られてしまう。こうしたことに対する違和感は森達也のこれまでの作品でも示されていたことだ。
おもしろいのは森達也が語る「リベラル」という考えと、森友学園問題で話題となった籠池氏の語る「真正保守」がほとんど同じものとなっていること(籠池氏によれば安部首相は「エセ保守」になるらしい)。そうした立場の違いはともあれ、それぞれが「個」において考えているのであれば、「集団」が暴走することはないということなのだろう。
タイトルの「i」は、望月氏の名前が衣塑子(イソコ)であることでもあるが、一人称単数の「I」のことも指している。それが小文字であるのは、ラカンが言うところの「大文字の他者」あたりが意識されているのだろうか?
考えるな。イワシになれ!
望月氏が取り上げていたのは森友学園問題、加計学園問題、伊藤詩織氏が強姦被害を訴えている事件が不起訴とされた件、沖縄の辺野古埋め立てなど、現政権に対する批判ばかり。
これらに共通しているのは、政権を担っている権力の側が、自分たちにとって不都合な事柄をうやむやにしてやり過ごそうとしているという点だろう。それらを明らかにしたいという意味で望月氏は質問を投げかけるわけだが、官邸側は法に則って進めているというだけで、説明責任を果たそうとはしない。政権与党は国民のために政策を進めているわけだから、変なところを突いてくるなということらしい。「由らしむべし知らしむべからず」というやつだ。
本作ではなぜか三度ほどイワシの大群の映像がインサートされている。これは官邸が暗に発しているメッセージを、森達也が忖度して表現しているということだろう。イワシは「個」ではなく「集団」で動いている(ように見える)。官邸が求めているのもまさにこれで、われわれが頭脳となって国を動かしているわけだから、愚民どもは勝手な行動をするなということらしい。つまりは「考えるな。イワシになれ!」ということだ。「死なば諸共」ということかもしれないのだが、ヒトはイワシとは違うとは考えるのは思い上がりだろうか?
追記:私はイワシの映像を、当時の政権が国民を見くびっているという意味で解釈していたのだが、これは間違いだったようだ。
2023年9月1日に公開された森達也の最新作『福田村事件』では、群れる動物(つまり人間)の暴走が描かれる。イワシも群れで生きる動物ということで、それは森達也が考える人間たちの姿だったということになる。
とはいえ、当時の政権が国民をアホだと思っていたことも確かだと思うけれど(2023年9月5日)。
望月氏は一部ではリベラル勢力のジャンヌ・ダルクだと持ち上げられている。本作でもあちこちで期待を寄せられている場面が登場する。その一方で、望月氏は単に集団行動が苦手で、方向音痴という側面も垣間見える。意識してジャンヌ・ダルク的位置に就いたというよりも、集団からはぐれてしまうような素質があるとも感じられるのだ。ただ、大勢に巻かれてしまうことがない分「個」として生きているわけで、その点が森達也が共感している部分なのだろう。
コメント